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はじまりの日(5)

食卓を片付け、菜月は台所でティーカップに紅茶を注ぐ準備を始めた。
「タク、ケーキ取ってきてよ」
「あ、ねぇ、ケーキの前にさ、散歩しない?」
「散歩?こんな時間に?」
壁の時計の針が直角になろうとしていた。今夜はとてもゆっくりと食事をしていたようだ。
「いいじゃん、海行こうよ」
そう言って匠はソファの横をすり抜けて庭に続く窓をガラガラと開けた。
「風もそんなにないし、海日和な夜だよ。お、月も出てる」
「明日からだってまた海の近くで暮らすんでしょ」
「でも、そこになっちゃんは居ないじゃないか」
匠は「なにを言っているんだ」という呆れ顔で窓際から菜月を見た。
その視線を受けて、菜月は、もう、とまた心のうちでため息をついた。
「あ、いま『もう、仕方ないな』って思ったでしょ」
「なんでわかるの?」
「なっちゃん、いつもそういう時、口が尖る」
「え、そうなの?」
「そうだよ。昔から。舌打ちの代わりだよね、それ」
匠がからかうように言う。
しかし、そう言われると、夕方のスーパーでケーキを庇った時も舌打ちをしたい気分だったことを思い出した。
「俺、上着取ってくるね」
「え、ちょっと」
匠は飛び上がるようにソファとダイニングテーブルの間をすり抜けて、台所の向かいの部屋に入って行った。
もう、と言いかけて、また自分の口先が尖っているのかと菜月は咄嗟に口元を手で隠した。

夜の海に人の姿はなく、静かな波音だけが繰り返される、温い春の夜だった。
匠と菜月は並んで柔かい砂の上をあてもなく歩いた。
海面には月明かりが不安定な一本道を描き出していて、それはどこまで行っても下手くそな線のように不安げに揺れるばかりだった。
——あの線の上を歩いていけば、月にいるママにあえる?
 ふと、幼い匠の声が耳に蘇った気がしたが、当然気のせいで、すっかり健康的な青年になった匠の声が菜月を現実に引き戻した。
「なっちゃん、これまで結婚したいとか思わなかったの?」
もっと波音がうるさければ聞こえないふりをしたい質問だった。
「あんまり興味がなかったかな」
「俺のせいで?」
「タクのせいだと思ったことは一回もない」
「でも、なっちゃんモテたでしょ」
「過去形で言わないでよ」
「あ、ごめん」
海沿いの道を車が途切れることなく行き交っている。
右手には緩やかに押しては返す波打際が続き、左手には街道が浜辺に沿って伸び、その間に広がる砂浜に足を取られながら、胸の内の記憶とともに自分が歩いてきた時間と、現実世界で匠と過ごしてきた十九年という月日を思い返した。
現実世界の十九年間は、洗濯機が回るようなスピードで時間が倍速になって瞬きの間に過ぎていき、突然、ピーっという洗濯完了を知らせる愛想のない音とともに、今日という日に連れてこられたかのようだった。
「なっちゃん、好きな人とかいないのかよ」
「好きな人?」
「うん、俺が居なくなったら、もう自由だよ。彼氏とデートし放題で、家にも呼び放題」
「バカ大学生が考えそうなことだわ。誰に似たのかな、そういうところ」
菜月は誰も居ない闇に向かって砂を蹴り上げた。
「誰って、なっちゃんしかいないだろう」
菜月はまじまじと匠の横顔を見た。そして、黙ってしまった菜月に向かって匠が言葉を続けた。
「マジで心配してんの。これから先ひとりで大丈夫かよ」
「心配無用です」
「なんで?え、もしかして、今、彼氏いるの?」
「いないって。私こう見えてもう四十九なの。おばさんもいいとこだよ」
「口尖らせるくせに、四十九なのかよ」
匠は可笑しそうに腹を抱えた。
菜月は横目で睨んだが、匠は目を細めて笑うばかりで、自分が睨まれていることに全く気づいていない。
「うるさいなあ、口尖らせる四十九だよ」
菜月は先日、勤め先でも同僚から四十五歳までの婚活パーティーに声を掛けられたことを思い出した。
匠がそう言っているわけではないが、実年齢より若く見られることが、しばしばあるのだ。
「なっちゃん、好きなやつ、ほんといないの?」
匠は「おまえ大丈夫かよ」というような怪訝な声色で訊いた。
菜月は、波音が静かなことをやはり恨めしく思いながら、砂の感触を確かめるように歩き、夜空に一番輝く星を探した。

つづく

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