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どうせ明日着る服とかを、なぜ畳むのか

 表題の通りのことをさっき服と靴下を畳みながら考えた。ゴールデンウィーク最終日、午後9時35分のことだ。当然のことながら畳まなかった洗濯物は床に溜まる。移動可能な床面積が減る。量が多ければ山(丘の方が適切だろうか)のようになる。埃が溜まる。これでは生活に不便だ。床は広い方が、埃は少ない方が、快適だからだ。
 かといって床は広ければ広いほど良い、なんていうこともない。仮にゴルフ場ほど広さの家に住んでいたとすれば、洗濯物が溜まったところで移動可能な床面積の減少割合は小さい。だが、広すぎてその他の床移動に支障がある。

 ということは、床に洗濯物を置いた場合、その他の床面積にある程度快適に過ごせる余白があればこの問題は解決されるということだろうか?部屋が6畳ほどしかないという事実が、洗濯物を畳ませる動機なのだろうか?
 否、洗濯物を置いた部分以外の床面積が、快適に過ごせる範囲であったとしても、部屋の景観を損ねるという次なる問題点が生じる。無秩序に散乱したタオル類・衣類が部屋のオブジェクトとして認識されるよう人間はできていない。とすれば、やはり洗濯物を畳まざるを得ないという結論が導き出される。

 洗濯物を畳むとどうなるか。収納ができる。畳まずとも、取り込んだ洗濯物をたとえば大きなカゴの中に全て放り込んで収納することも可能だが、衣類にシワがついたり、カゴの底にある洗濯物が取り出しづらく不便だろう。それでは洗濯物を部屋に取り込んだ段階で”シワがついても良いもの・駄目なもの”の2つに分類してはどうだろう。駄目なもの(シャツ等)だけを畳み、良いもの(タオル等)はカゴに放り込む。これで洗濯物を畳む負荷が減る。
 いや、待て・・・。洗濯物を畳む作業を楽にするハウツーを考えたいのではない。タイトルギラギラかつ極太文字・本の厚みと内容が反比例するハウツー本『2秒で畳め』の原稿を書いているのではない。考察したいことは、なぜ人は洗濯物を畳むのか、逆にいえば”なぜ洗濯物は我々に畳むことを要求しているのか”という点だ。

 部屋に取り込まれて床に放置されることを拒む洗濯物。「畳む」という行為を人間せしめる洗濯物。放って置けない奴ランキング、赤ちゃんに次ぐ第2位の洗濯物。
 人間が衣類等を使用し続け、かつ使用する衣類等が完全に汚れないという物理法則を無視した素材にならない限り、洗濯物は恒久的に「畳む」ことを人間に強いる。そう考えると、現代では掃除機や冷蔵庫など、多種多様・高性能な家電ができているにもかかわらず、全自動洗濯物畳み機ができていない事実が浮かび上がってくる。「畳む」ことは簡単なことのように見なされるが、実は日常使用できるレベルの機械化ができていない(工場レベルでは機械化されているだろう)。それは、我々が日々使用する衣類のサイズ・素材の多様さに、技術が対応できないからだろう。

 多分これからもしばらく我々は衣類を畳み続けるし、畳まれた衣類は然るべき場所に収納され使用され、洗われてまた、畳まれる。畳むことを起点とすれば、衣類は畳まれるべくして着られ、畳まれるべくして洗われる。我々はここにひとつの価値転倒を見出すことができる。着ることに主眼を置かれる今日において、むしろ先に見た逃れられない“畳む”を追求した服・下着があっても面白い。それは決して畳むための機能性を重視したものとイコールではない。畳むための機能性を高めれば、それはむしろ収納するための機能性に簡単に置き換わってしまう危うさを孕んでいるからだ。
 収納のための機能性を持った製品はある(小さくまとまる、薄い等)が、畳むための機能性を持つものはあるか。折り紙が折れたときの快楽を考えれば、手順に従って折って(畳んで)いけば、折ったもの(折り紙の場合の紙。紙は鶴にも手裏剣にもなる)とは異なる様子が眼前に現れる驚きや達成感が快楽の源泉なのだろう。それはただの紙(畳む場合はただの服)であるにもかかわらず、同時になにものにもなりうる可能性をもっている。畳む最中に変容可能性を感じられる衣類があれば、我々は畳む快楽を感じ、畳む作業をむしろ喜んで行うようになるだろうか。


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