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2人で決めることって疲れるよね

同棲して4ヶ月が経とうとしている。とはいえ、彼の広いアパートに転がり込んでいるため、間借りしている感も少なくはないが。彼はよく働き、わたしも初めての共同生活を楽しんでいる。

昨日、ある場所で、モテないという男にコミュニケーションに長けた男友達が力説しているのを、隣で聞いていた。
「恋愛はコミュニケーションだから!職場関係とも友達とも同じなんだから、伺いをたてあって関係を築いていかないと」
講釈垂れっぷりがおかしくて、わたしは女友達とニヤニヤしていたのだけれど、やっぱりコミュニケーションをするしかないよなあと、1人になったリビングで思うのであった。

コミュニケーションにはエネルギーが必要だ。
分かってくれ愛してくれと、自己中心的な思いが特に強いのは思春期だったように思うけれど、大人になってもそれは続く。
大人になったなと思うのは、そういった依存的な思いが薄まった時ではない。分かってくれ愛してくれを、言葉で伝えることに億劫さを感じたときだ。これは、「言葉で伝えないと伝わらないのだるすぎる」ということで、他人へのいい諦めがついていて、自分と他人の間に境界線を引けていないと出てこない面倒臭さだ。
とはいえ、面倒くさいことには変わらない。

共同生活をするためにはコミュニケーションをするしかない。なんかのエッセイで、「結婚のいいところは他人に仕方なく合わせることで、ほかの他者の違いにも寛容になれる」ということが書いてあった。実利的だと思ったが今のわたしなら同意してしまう。
好きになってもらう努力も、付き合うことも、暮らしも生活もコミュニケーションだったのだ。付き合ってから減っていくロマンとは、こういうことかと腹落ちした。いつだって、関係性は線上にある。

ところで、わたしたちは、頑固者同士の、異性のカップルだ。フラストレーションが溜まったときは、遠くで毒を吐き美味しいものを食べてよく眠るしかないが、どんな時にぶつかるかについて、整理してみた。

  • わたしの神経質さと彼のやかましさが互いに癪に触るとき

  • わたしのエリートを羨む気持ちと彼の地元ラブマイルドヤンキー精神のどちらかが正義を振りかざすとき

  • そのほか互いのこだわりが噛み合わないとき


陽気な友人カップルに「同棲ってストレス溜まるでしょ?」と聞かれたときには、びっくりして安心した。(パートナーのいる前でそれを言えるのが、彼女の眩しいところだと思う)

ストレスは当然ある。プラモデルのパーツや筆ペンがテレビの前にいつまでも置いてあるとか、タバコ臭いとか。一方で、わたしも脱ぎっぱなしの服を放置するし。
互いのどこに腹が立つかも共有できてはいないので、ああ、コミュニケーション不足という感じでまた落ち込む。

わたしは、適切な怒り方が分からない。思わず舌打ちしたり1人の時に過度な暴言が出てきたりするとき(それを彼に浴びせることはまだないけれど)、10とか20での出力の仕方を知らないのだと自覚するとき、自分のことがあわれになる。押さえ込んだ0か爆発した100しか出力されないのは、本意でないのに。
コミュニケーション強者というのは、さらっと10や20の不満も嫌味なく表明できる人なんじゃないか、とさえ思えてくる。そして、それを機嫌を損ねず受け入れること。ああなんて面倒くさい!

クリスマスの過ごし方、行事ごとへの関心、ゴミの分別、生活スタイル。
これらだって、2人で1から考えて住むことになったら改善されるだろうし、子どもを授かったら目的が強まって「ちゃんと」することに理由がつくだろう。

わたしは元来、完璧主義者で、どうしても理想が強い。その上、それを手放す気はあまりない。だって、ちゃんとしてるのって最高に気持ちよくて、情緒を噛み締める幸せがあるんだもの!

それでも、伝えないと関係は始まらないから、不機嫌になられても、「こうしたいんだけど」と伺いをたててみる。そしたら、少しは変わるかもしれない。コミュニケーションは、言葉にしないと始まれない。わたしだって矛盾だらけだ。あんなに結婚も子どもも嫌だと言っていたのに、未来の可能性に前向きに入れて語ったりして。

他人といることで理想通りになることが減っていく不自由さと、ほんのちょっとの寛容さを味わいながら、今日も遠くで毒を吐き美味しいご飯を食べてよく眠るのだ。

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