「まとも」の防衛戦線
このマガジンでは、まとまりきれてない考えごとの断片を置いていきます。
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なんと前回投稿から50日近くが過ぎてしまったらしく、改めてあらわになった筆不精。
あとはカメラ不精とちょっと多汗症。
夏は尻汗がすごいって経験ありますか、みなさん。
自分の仕事が「5足のわらじ」ってことはバカの一つ覚えのようにこのnoteでも書いてる感じがありますが、この夏は6足目に手をかけつつあって、当然ながら書く時間がますますなくて、それこそバカなんじゃないかって話なんですが、そんな状況を予見したからこそせっかくつくったこのマガジン「pieces」、もっと活用すべしと懺悔の夏。
次の予定まで1時間。
「断片」のまま置いていきます。
この50日、もっと軽やかに書けばよかったという反省があるわけですが、それとは裏腹、世の中は軽やかならざるできごとが相変わらず続いていて。
京アニの放火事件、吉本の闇営業騒動、低投票率の参院選、日韓外交の緊張化。
そしてここ数日の、あいちトリエンナーレ「表現の不自由展」撤去事件。
大きなことを語る器じゃありませんが、控えめに言ってクソみたいな国だとの思いを強くしているのは事実であって、それは2012年にいまの政権が生まれたときに「ああ、イヤな時代が来るなあ」と思ったその予想をはるかに上回っていて辟易で。
もちろん、参院選の結果として2名の重度障害者の国会議員が誕生したことは画期的なことだし、それ以外にも小さな希望の物語は僕のTLにも毎日流れています。
絶望してはいけない、湯浅誠さん的にいえば「1ミリでも」前進している。
しかし山本太郎さん的に言えば「それじゃこの国が壊れていくスピードに間に合わないじゃないか」って。
「まともに生きる」のは闘いだと言ったのは確か宮台先生で、大きなものに巻き込まれて殺されないために、半径5mを守る防衛戦を張っていかなきゃいけないと思ったのもあの2012年のことだけれども、個人的には今のところ劣勢といわざるをえない、まもなく7年のこの戦況。
うまく流されることのできない「まともな」人ほど苦しくて、昨日は初めて「死にたい衝動に襲われてしまう」という人に面と向かって「生きてほしい」と言葉で伝えた記念日にもなりました。
フィクションみたいな言葉だけれど、心から思えばこうとしか言いようがないということがわかりました。
「愛してる」も同じでしょうか。
その人はまだ予断を許しませんが、「なんかちょっと楽になりました」と感謝されたりすれば自分も救われたような思いもするし、ああ、自分はこの「生きにくさ界隈」で生きていくのだろうなと妙な感慨と悲しみが同時に湧いたりもして。
闘いは続きます。
が、今日はそろそろ時間切れ。
このあとは仲間の「アジト」づくりのお手伝い。
小さな希望を、自分たちの手でつかみ、守っていきたいものです。