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さかえるものも、、、

祇園精舎の鐘の聲 諸行無常の響きあり 娑羅双樹の花の色 盛者必衰のことわりをあらわす

驕れる人も久しからず ただ春の世の夢の如し たけき者も遂にはほろびぬ ひとえに風の前の塵に同じ ( 平家物語より )

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いまだ梅雨明けぬままの7月末。昨日は朝から京都市の北東部( 左京区 )に位置する大原の里へ。会うべく人との用事を済ませ、せっかく大原まで来たのだからと、とある場所へバイクを走らせた。

そこは。平家物語ゆかりの御寺『 寂光院( じゃっこういん ) 』平清盛の娘、徳子( 建礼門院 )が往生の時を迎え、生涯をそっと閉じた場所である。

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少し、徳子について書き留めておきたい。

徳子は、平安時代末期 " 平家にあらずば人にあらず "と栄華を極めた平家一門の棟梁『 平清盛 』の二女として生まれ、武家の出身でありながら天皇家へ嫁ぎ、清盛たっての願いであった平家の血筋からの御子『 安徳天皇 』を生んだ。清盛は朝廷の権力を踏みにじるかのように、徳子の夫『 高倉天皇 』( 21歳で死去 )を早々に天皇の位から引き摺り下ろし、わずか3歳の孫を『 安徳天皇 』に即位させた。

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清盛の死後、あれほどまでに栄華を極めた平家の世にも陰りが見えはじめる。源氏の登場により、源平の争乱が勃発、勢いを増す源氏に追われるように平家一門は5歳の『 安徳天皇 』とともに京の都から西国へと逃げて行くこととなる。

一の谷( 兵庫県 )から四国の屋島( 香川県 )へ、源義経軍の追撃は衰えることなく、西国の果て、壇ノ浦( 山口県 )の合戦では清盛の妻であり、徳子の母である時子は、天皇の正統たる証の【 三種の神器 】と『 安徳天皇 』とともに入水。平知盛、教経、資盛といった平家一門もすべて水底の都へと沈み、西の海で源平の戦いに破れ、滅び去った。

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徳子もこの時、母の時子と息子の『 安徳天皇 』の後を追って入水自殺を図るも、源氏の兵に引き上げられ、死ぬことは叶わず、再び京都の都へと送還され、出家後は京の都から遠く離れた洛北の地、大原の『 寂光院( じゃっこういん ) 』で夫と我が子、そして平家一門の菩提を弔い、昼夜絶えること無く念仏を唱える日々を送ったという。

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これまで、日本を代表するさまざな古典文学に触れてきたが、その中でも平家物語はとても好きな物語かもしれない。小学校の図書館で何度も借りて読んだ覚えがある。

わたしにとっては広島の厳島( 宮島 )も、故郷も平家物語にゆかりのある土地で育ったこともあり、身近な物語だったのかもしれない。

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中学生の時には、あまり漫画を読まないわたしがどハマりした『 ますらお 』( 著者:北崎 拓 )

ほんっとにこの漫画は良かった!!1996年の初版第1刷をいまだに大切に持ってる😂😂😂

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また、この寂光院は忘れられないエピソードが。

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中学を卒業し、高校へ上がる前の春休みに母と2人で京都を旅行した。その時に、母に「 この寺はかなり古く、この先、現存のまま見る事は叶わないかもしれないから絶対に見ておきなさい、、、」と。

その僅か2年後の2000年5月9日の未明。放火により本堂もろとも焼け崩れてしまった。

あれから20年。昔の記憶に想いを馳せながら、誰ひとりいない寂光院で静かに心を落ち着けた。

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華やかな都、立場から一転、すべてを失い、亡くなった者達へ手を合わせ、36歳で死を迎えるその日まで、この静かな洛北の地で過ごした建礼門院徳子。

よくよく考えれば、今のわたしとさほど歳が変わらない事に気付く。

この時期に訪れたのも、何か通ずるものだったり、タイミングだったのかもしれない。

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前へ進むことばかりの日々で、立ち止まる事がとても下手な自分にとって、時に強制的に休ませるにはもってこいの静寂さと大自然だった。

ひさびさに思いっきり深呼吸が出来た。

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【 寂光院 】594年( 推古2年 ) 聖徳太子によって創建された天台宗の尼寺。平家物語ゆかりの寺。

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