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真剣な暇つぶし。
今日も私の一日が無事に終わろうとしている。
さて、もう少し時間があるから、何か思い出してみよかな。でも一人で記憶を辿るのは少し不安だから、どなたか一緒に思い出す作業を手伝ってはくれないだろうか。
眠気が襲ってきたら、遠慮なく寝てほしい。
無理はしないで。
ではでは、どうぞよろしく。
毎日、毎日、生きていると1月1日に戻ってくる。毎年ヒトは1からのスタートを繰り返す。1から始まりしばらく数えると、雪が降りだす。そして、一夜をかけて町中を真っ白に包んでいくのだ。私が見ている真っ白はすべて同じものであるはずなのに、昼間の太陽に照らされるか、夜の月や街灯に照らされるかで、異なる表情を見せてくれるから面白い。だか、この真っ白は続かずあっという間に黒く汚れる。汚れることは仕方がない。そのあとまたいくつか数えると次第に雪は降らなくなって、車のタイヤを履き替える時期がやってくる。
さぁ、ここまで来たらあっという間に誕生日はやってくる。
みなは自分の誕生日が待ち遠しい、楽しみだと思うのだろうか。それとも、誕生日はどうでもいい、苦手だと思うこともあるのだろうか。きっと、年代、性別、家族構成なんかにも揺さぶられて、思いはそれぞれ変わっていくのだろう。
まだ私が幼い頃は、"誕生日"に対してお祝い事や喜ばしいこと、といった意味だけが全てであった。でも、それだけが全てではなかった。そう気づいたのは今より少し若い頃のわたし。あの頃は自分の誕生日の存在すら忘れてしまいたい程、荒々しく淀んだ毎日を過ごしていた。そして、大切な誰かの誕生日でさえも正直なところ、来ないでくれ、と願っていたことを覚えている。弱りきった湿っぽい"おめでとう"の言葉など誰も受けとりたくはないだろう。
次第に私の中では、一年間なんとか過ごせた、お疲れ様、という言葉が誕生日の意味の全てになっていた。
今年ももうじき誕生日がやってくる。きっと生まれた日のようにあちこちで桜は咲いてくれるだろうし、ちらりと顔を出す暖かさと少し残る寒さが、春に向けて色んな準備をそっと手伝ってくれる。道端には、そんな隠れなくてもいいのにと思うほど小さくて、淡くふんわりとしたひかりを纏う草花が出迎える。そんな季節の移り変わりを毎日、毎日、感じながら、誕生日の全てであるあの言葉を自分自身にかけるのだろう。
私の誕生日は年に一度。みなそうだろう。
そして、恐らく一昨日も昨日も今日も、今までの毎日が誰かの誕生日であるはずだ。誕生日にはケーキが当たり前のようにどこかしらのタイミングで登場すると思うのだが、毎日が誰かの誕生日だと思うと、洋菓子屋さんは休む暇がないほど忙しいと想像がつく。だが、忙しいという気配すら感じることの出来ない幼少期、一度はケーキ屋さんになりたいという、軽くまっすぐな夢を先生や親に発表したことがあるのではないだろうか。しっかりと磨かれた透明のショーケースには、クリームや果物で色んな色の輝きを放っているケーキが並べられ、形も丸や四角、三角、動物の見た目のものだってある。大人でさえワクワクしてしまうのに(ほとんどが平然を装って選んでいるのだろうが)、特に子供はケーキにかぶりつきたいほどに興奮して選ぶから、きっと大人が想像している以上に、洋菓子屋さんのショーケースはその日の子供たちの手跡でいっぱいになっていることだろう。ケーキ作りだけでなく、ショーケースを磨く仕事も実に大変なことだ。そこで、労いの意味を込めて、ふと勝手にこんなことを考えてみたことがある。
日本中の洋菓子屋さんがある日突然、全店休みになったらどうなるのだろうかと。誰かの誕生日を祝うヒト、または誕生日を迎える本人が何とかケーキをと、レシピ検索して材料を買いにスーパーへ走り、ケーキ作りに励むのだろうか。それともケーキはなしね、と諦める?もしかしたら誕生日ケーキのなんたら運動とやらが起きてしまうかもしれない。ただ、この手の運動であれば思いがけない素敵な言葉が支持者から沢山聞けるような気がして、少し見てみたいとも思う。誰かのことを想っているとき、例えその1日だけであったとしても、悪いヒトなどいないはずだから。それから支持者たちは横一列に並び、大きな横断幕をしっかり両手に握るのだ。その横断幕にはお祝いしたいあの人が好きなケーキ、一緒に食べたいケーキの絵がいっぱいに描かれていて、今までにないほど可愛さで溢れたものだろう。そしてハッピーバースデーのあの曲も後ろで流れていて、色々訴えたいことがあるにも関わらず、支持者は軽快な足取りで行進しているに違いない。おっと、先に労いの意味を込めて考えたなんて言っていたが、それより色んな変化を見てみたい好奇心が強くなってきてしまった。洋菓子屋さん、勝手に巻き込んで申し訳ない。
ちなみにわたしは洋菓子屋さんではない。だからこんな日が来てもいいだろうと真剣に思ってしまう。
何とも身勝手で馬鹿げた暇つぶしの瞬間だ。
だが、この暇つぶしにも意味があった。
幼少期、私の両親は共働きで夜勤もしていたため、誕生日当日にお祝いしてもらうことは少なかった。当日お祝い出来ないからと、誕生日に近い日にケーキを買ってきてくれたりプレゼントのおもちゃを貰ったりもした。嬉しいけれどちょっぴり恥ずかしいから、母親の顔が見えない大きな食卓の下に隠れてみた。もちろんおもちゃはしっかりと握りしめていたので、さっそく電源を入れてみる。少しひんやりとするただのプラスチックは、ランダムにピンク、緑、青、黄色と輝き、私を楽しませる。恥ずかしさを見られぬようにと隠れた机の影で、より色が映えて輝きが増していた。ただそのおもちゃは白色には光らなかった。
その頃を思うと誕生日のお祝いが当日かどうかなんて全く気にしていたなかったし、いつお祝いしてもらってもただただ嬉しかった。
いつからだろうか、プレゼントにおもちゃをほしいと思わなくなって、夕食後にケーキを食べるだけになったが、それだけで十分に良い日になった。そして中学にあがったころ、今でも仲良くしてくれている友人と出会ったのだが、彼女はおもちゃにもケーキにも負けない、とてつもないパワーを持っていて、それを惜しみ無く私にプレゼントしてくれる。それは彼女からの"おめでとう"という5秒もかからない言葉だ。目に見えるプレゼントでないのに、私を一気に満たしてくれて、彼女の声と想いを頼りに、とりあえず今日を終え次の日を迎えてみようとさえ思えた。
だから、もし私の誕生日に洋菓子屋さんが休みになってもきっと何も問題はない。私を思い出してくれて、もし何かしらの言葉や想いを届けてくれるとするのなら、何月何日であっても、相手からの熱量をそのまましっかりと受け止めたい。そのあとは私からあの人へ、精一杯の熱量で感謝を伝えよう。
隠れていては何もなかったことになるかもしれない。
恥ずかしさも喜びも、ともに感じることが出来たなら、きっとどこかで意味あるものになっていく。
暇なときに、ぼーっと一人考えることと言ったらどんなことがあるのだろう。あれが食べたいとか、痩せたい、誰か代わりにお手洗いへ行ってくれないか、とかだろうか。だが時々無性に面白さを求めてしまい、洋菓子屋さんの休業ストーリーなどとやらを描いてみたくなる。ストーリーは無茶苦茶で非現実であればあるほど自由に近づき面白いと思う。
ただ、やっかいなことに自分で自分の穴にはまってしまったらおしまいだ。なぜだろうか、気が付くと文章や言葉に意味を設けているわたしがいるのだ。暇つぶしなのだから適当にそこら辺の言葉をかき集めて、ふわりふわりと文を紡いでいけばいいだけなのに、そこにすら意味が無いと居心地の悪さを感じるのだ。そして、そこに意味を見つけた途端、暇つぶしでない時に考えていることには、もっと大きな意味が必要なのではないかと、妙に焦ってくる。何か大切なことを見逃しているのではないかと不安になる。だから、些細なことが気になり、とあることにはかなりの時間をかけてしまうし、こだわりなのか執着なのかさえはっきりしない程に、自分の近くに長く置いておきたくなるものもある。
ただ軽くまっすぐ何かに向かっていたい理想はあるのだけれど、いくつか前の年からそれとは随分かけ離れた自分がいることに気づいた。
毎日が重く、くねくねあちこち歩いている。色んな所を歩いているから、知らぬ間に落とし穴にもはまってしまう。一体誰がこんなものを掘ったのだろうか。あの人?あいつ?いや、あやつかもしれぬが、、、もしや私か?判らないから誰も責められないし、そんな恥ずかしい姿を見られたくないから、穴の中でしばらく休んで、それからなんとか脱出できたら少し服を整えて、何事もなかったようにまた歩き始める。
くねくね歩くことは真っ直ぐ歩くよりも恐らく歩数が多いし、穴に落ちても脱出するのに力を使うのだから、これがいい運動になればとつくづく思う。でも本当のところはただ体力を消耗し、傷を負っているだけだ。
どうしようもない、やっかいな私に本当に疲れてくる。
今年の汚れは今年のうちにと、年末の大掃除の時期になると何度も耳にする。汚れは本気で落とそうと思えばいつだって落とせるが、傷はどうしたらいいのだろうか。"今年の傷"も本気を出したら無くすことが出来るのだろうか。私は今だにその方法をしらないから、何かを被せて見えないようにしてみたり、見ないようにする。
そして、なんとか1歳また1歳と、繰り返して歳をとるしかないのだ。そりゃー疲れるわけだ。
20歳のしおり、50歳のしおり、90歳のしおり、などと毎年きっちりと詳細が決まっていて、その通り迷わず進めればどんな一年の終わりが待っているのだろうか。今までの私はそのしおりを、初めは持っていたのかもしれないが、いつの間にかどこかに落としたり、破れて使い物にならなかったりして、結局どこで何をすればいいのか分からなくなる。寄り道の途中で出会ったヒトに、しおりを写させて下さいとは言えない。私だけのしおり、あのヒトだけのしおりがきっとあるから。
そして、現在の私はというと、絶讚しおりをなくしているところだ。さぁ、どおしようか。
そういえば、お財布の中にレシートが入っていたような、、、。あったあった。
ボールペンもあることだし、レシートの裏にでももう一度しおりを書いてみようか。
もしもまたそのしおりが無くなってしまっても、何かしらの紙に"①"と書き始めてみよう。
何かが始まるきっかけになるかもしれない。
時に"②"すら進めないことが続くかもしれないけれど、生きていれば必ず①に戻ってこれる。
ただ、戻ってこれるまでの時間や道は決して穏やかではないことを忘れずに。
どうしても戻ってこれそうにないときは、おもちゃにもケーキにも負けない、とてつもないパワーを持つ彼女を頼ってみよう。
隠れてばかりではなくて、私から声を届けなきゃ。
まだまだ私に疲れそうだ。
だからこそ、誕生日を迎えた日には、こう私に言葉をかけたいと思う。
『私、お疲れ様。』
今日のところはここまでにしようかな。
過去のことを思い出すのは、なかなか大変な作業です。
途中で苦しくなって手もつけられなくて、整理もできずにぐちゃぐちゃのまま。
でも、あなたが居てくれたお陰で、またひとつ、過去の整理が出来たように思います。
最後まで一緒に手伝ってくれてありがとう。
本当に頼りになりました。
もうこんな時間ですね。
ゆっくり寝てください。
もしよければまたお手伝い、よろしくお願いします。
では、また。
おやすみなさい。