ムヒ
蚊は、どこからともなくやってくる。
蚊は、実に巧妙な音で人間に近づき、苛立たせる。
苛立ちに要する時間など、無駄に感じるが、
その感覚、忘れないでいてほしい。
それは、人間同士でも近づくと起こりうることだから。
特に私が誰かと会話をするときだ。
私はその誰かに苛立ちを覚える。
失礼なことを言われたから苛立っているのではない。
強い言葉を浴びせられたから苛立っているのではない。
無視されたから苛立っているのではない。
否定されたから苛立っているのではない。
自分でも何に苛立っているのか分からない。
でも声を聞くと、話が続くと、何もかも不愉快で苛立ってくる。
この時の私は、苛立ちの感情にしか身を任せられなくなっているのだ。
身体のどこかにスイッチがあるとするのならば、
切れているからおかしいのだろうか?
それともスイッチが入っているからおかしいのだろうか?
自分でも私の身体のことが分からない。
だからこんな時は、いつも蚊と戦っているのだと、巧妙な音に似た何かと戦っているのだと、思ってほしい。
決してその誰かのせいではないことも、覚えていてほしい。
蚊を退治するには、蚊取り線香。
蚊に刺されたら、ムヒ。
蚊に効く薬は分かっているし、すぐに手に入る。
だが今のところ、私に効く蚊取り線香もムヒも見当たらない。
だから、とりあえず素手で叩き潰すか、刺されたらかきむしる、それしか戦う術がない。
いつか、特効薬が見つかるだろうか。
せめて、ムヒさえあればなぁ。
ひんやり気持ちよくて、掻かずにすむのだけれど。