一領具足⑬
三好勢は、城の外に出て応戦した。
「かかれ!」
元親が叫ぶと、長宗我部勢はなだれをうって三好勢に踊りかかった。
長宗我部勢は今鉄砲がない。鉄砲はあっても硝石が全て濡れてしまったため全く使えない。
三好勢は鉄砲を撃ってきた。
三好勢にはわずかに鉄砲がある。この洪水で硝石が水没しなかったか、水没を免れた硝石があったのだろう。
長宗我部勢は鉄砲による犠牲を省みず進み、白兵戦となった。
(三好の士気は低い)
と元親は見た。
将も兵も、自分の領地や村が気になって仕方ないのである。
やがて、三好勢は引き上げ、勝瑞城に籠もった。
長宗我部勢は城を囲み、堀を越え、塀に取り付いた。
「やめよ」
夕暮れにはまだ間があるうちに、元親は言った。兵の損耗を恐れたのである。
翌朝早くから、長宗我部勢は城に取り付いた。そしてまた夕暮れまで間があるうちに攻撃をやめる。
3日目になって、
「降伏する」
と、十河存保から使いがきた。城を明け渡し、存保は讃岐に退くという。
十河存保は城を出て、讃岐の虎丸城へと落ち延びていった。
元親は勝瑞城ヘ入場した。
数日分の食糧しかない。
元親は兵士に、腹一杯飯を食わせた。病気の兵士も城に運び込み、粥にして食わせた。
城にはわずかに薬草があり、それを病気の兵に施すと、何人かが快癒した。
「このまま一気に阿波平定じゃ!」
洪水により、収穫がなくなって呆然とする豪族達の城を全て落とす。もはや狼藉だった。
阿波国は、平野部は既に壊滅していた。
山間部は、土砂崩れはあっても洪水はなかった。まだ山間部の方が被害は少ないが、土佐という侵略者に対抗するには、平野部の豪族との連携が不可欠だった。
その平野部が壊滅し、収穫が期待できない中で、豪族達は土佐軍とどう戦っていいかわからなかった。
(今年1年、阿波は蹂躙しても反抗してこない)
と、元親は読んでいた。
反抗するにも、三好家は古い名家であっても、一族での暗殺が多く、阿波の人民は心服していないと見た。今までは織田家についていたから保っていたが、信長の死の直後である現在、三好を立てようとする者はほとんどいない。
(今後三好が復活することはないだろう)
元親の読み通りになった。
羽柴秀長による四国征伐の後、阿波は三好にでなく蜂須賀正勝に与えられた。阿波の人々にとって、三好は不要な存在になった。
元親は、阿波の大商人や庄屋に、ありったけの銭や金銀を出させた。
この時期、阿波では米は買えない。
土佐や讃岐で買っても高すぎた。
しかし、近くに米の一大集積地がある。旧石山本願寺の門前町である。
「大坂で、米を買えるだけ買ってこよ」
と、元親は命じた。
1週間ほどで、長宗我部の水軍の船は、米を満載にして阿波に着いた。
その米を、阿波の土民にはやらない。
(人民は、飢えるままにさせておく)
もはや政治はない。征服があるだけだった。
兵に飯を食わせると、破傷風や疫病で倒れていた兵も回復し、戦闘に参加できるようになった。
元親は自ら兵を率い七条城、下六条城、矢上城、角田城など、阿波の諸城を次々と落としていった。
豪族達は為す術がなかった。救援に来れる勢力が阿波にも讃岐にも、上方にもなかった。
残ったのは、元親の側室小少将の義父の篠原自遁が籠もる木津城と、土佐泊城の森村春のみとなった。この2城には羽柴秀吉の配下の仙石権兵衛秀久が救援に来ていたので落ちなかったのである。しかし羽柴秀吉も、柴田勝家との対決を控えて、それ以上の兵は出せなかった。
次は、阿波の占領行政である。
「恩賞は来年、収穫があってから行う」
とした。
当然の処置といえた。収穫の期待できない領地を得ても、かえって不平が募るだけである。
阿波に駐屯軍を置くことになった。
香宗我部親泰を大将に、わずか3000の兵である。国が崩壊したと言っていい今の阿波なら、この程度の軍勢で抑えられるという訳である。
長宗我部軍は讃岐に侵攻した。
讃岐では、香川親和が十河城を攻めていた。
親和は藤尾城に籠もる香西佳清を攻め、香川信景の調略により佳清は降伏した。
そこから讃岐国分寺を通って、親和は十河城に押し寄せた。
十河城は、存保の従兄弟の十河存之が守っていた。
存之は長期戦に備え、兵の数を1000にまで絞った。そして3ヶ月分の兵糧を備え、長宗我部軍を迎えた。
この時代の、十河城のある讃岐国山田郡あたりは、二毛作が盛んだったらしい。
それも春に麦を撒き、夏から秋に育てる晩稲を栽培していた。
長宗我部軍は、城の周囲の麦を薙ぎ、また稲の苗を育てるための田んぼを掘り返した。そのため付近の住民には、家を捨てて逃亡する者もあった。
一方、三好隼人佐は強者に付近を歩かせて夜討ちを行わせた。
夜討ちは敵味方構わず行われたため、付近の住民は三好勢を恨んだ。
三好勢は城から鉄砲を撃って、長宗我部勢を悩ませたが、親和率いる長宗我部軍は、元親率いる本軍さえ持っていないものを持っていた。
大筒である。元親はまだ若い子供のために、苦心して手に入れた虎の子の大筒を2門、親和に持たせていた。
長宗我部勢は大筒を撃ち、十河城の櫓を破壊した。
城方は、籠城が難しくなってきた。
そこに、前田城の前田宗清が、長宗我部勢の背後に夜討ちをかけてきた。
長宗我部勢は混乱し、多くの者が討たれた。
しかし前田宗清も切羽詰まっていた。
長宗我部勢が麦を薙ぎ払ったことで、宗清にも兵糧の当てがなくなり、宗清は味方にも襲いかかるようになっていった。
讃岐もまた、長宗我部勢によって阿波に近い惨状となった。
宗清は真部氏の城を攻め、女子供区別なく皆殺しにした。また笠井郷の佐藤氏の城にも忍び込み、親子三人を殺して食糧を奪い取った。
その惨状の中に、元親の本軍が合流し、30000を超える大軍となった。しかし元親は、
(これは、長居はできぬ)
と思った。元親は短兵急に城を攻めたが、城は落ちなかった。
元親は攻城を諦め、土佐に帰ることにした。
(恐らく春に、秀吉と勝家の決戦が行われる。その時に城を落とせばよい)
土佐に戻るにあたり、元親は余った米を阿波に送った。
「この米で炊き出しをせよ」
と、親泰に使いを送った。そろそろ阿波の占領行政を考えなければならなかった。
翌天正11年(1583年)4月、賤ヶ岳の戦いが起こった。
白地城にいた元親は、その報せを受けてすぐに動いた。
元親は大軍を率い、讃岐に侵攻した。
また、香宗我部親泰に木津城を攻めさせ、篠原自遁は淡路に敗走した。
一方、羽柴秀吉も柴田勝家と戦いながら、四国の情勢を放置しておかなかった。
秀吉は仙石権兵衛を小豆島へ、小西行長を讃岐の香西浦へ送った。
権兵衛は小豆島から屋島城を攻めた。
屋島城は古代、白村江の戦いで日本軍が唐・新羅連合軍に敗れたことから、唐の来襲に備えて作られた古代からの城である。
読み方も「やしまじょう」でなく「やしまのき」と読む。
屋島は江戸時代の干拓前は、独立した島だった。
ちなみに、源平合戦の屋島の戦いの場所は、屋島の東岸にあり、屋島の山の中にある屋島城からは少し離れた場所にある。
平家は、戦乱の最中とはいえ、古代の無骨な山城に安徳天皇の仮宮を営む気がなかったようである。
権兵衛は、屋島城を落とすことができなかった。
また小西行長も、長宗我部軍により香西浦に上陸できず、引き返さざるを得なかった。
元親は十河存保のいる虎丸城に向かったが、存保は城を出て応戦してきた。
元親は一戦したが、手強い。やがて存保は兵を引いて城に籠もったが、
(城は容易に落ちぬやもしれぬ)
と思った。
元親は、虎丸城付近の麦を薙ぎ、敵の士気を下げようと図った。
が、元親には、去年、洪水で壊滅した阿波を火事場泥棒のように切り取った記憶がある。阿波の良民を見捨てて攻城に明け暮れた記憶が蘇った。
「麦は一畔ごとに刈れ」
と。元親は命じた。
そこに、仙石権兵衛が引田城に入城したとの報が入った。
元親は、香川信景と大西頼包に兵5000を預け、引田城に向かわせた。
権兵衛はその報を受けるや、仙石勘解由、仙石覚右衛門、森権平に兵を預け、入野原に待ち伏せさせた。
長宗我部勢が入野原に差し掛かると、仙石勢により鉄砲を射掛けられた。
面を食らった長宗我部勢は退却した。
仙石勢は追撃したが、次第に勢いを盛り返した長宗我部勢に次第に押されていった。
入野原の様子はすぐに元親に伝えられた。
元親は桑名親光、中島重勝を救援に派遣した。長宗我部勢の人数は数において圧倒的になり、仙石勢は幟を奪われて、引田城に向けて撤退した。
翌日、長宗我部勢は引田城を攻めた。
仙石権兵衛には戦意がない。
仙石権兵衛は評判の悪い武将だが、無能ではない。
むしろ逆に、機を見るに敏であり、敏でありすぎた。
権兵衛は今、自分以外の援軍が来ないことを知っていた。
地縁のない土地で、これ以上兵を消耗するのはつまらないと思った。
卑賤の出から身を起こした秀吉の不幸は、権兵衛以外に、三好勢を救援に送れる人材を欠いていたことである。
こういう成果の乏しい救援軍を派遣する時には、機敏さを欠いても、義理堅い人材の方が向いているのだが、秀吉はそういう、むしろ手足として動かすのに向いた人材を、勝家との対決に回さざるを得なかった。
そのくせ権兵衛は自尊心に富み、四国でのいくさで成果を挙げられなかったことで密かに自尊心が傷つけられており、別の大功を立てることで雪辱を濯ごうと思うようになっていった。この権兵衛の気負いが、後に戸次川の悲劇に繋がっていく。
権兵衛は引田城を出て、海を渡り、淡路島と小豆島の守りを固めた。
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