一領具足①
「若」
その若者は、近習に声をかけられた。「出陣でござる」
「うむ」
言われて、若者は小性に鎧を付けさせた。
(父上は、なぜ儂を嫡男のままに据え置いたのか)
若者は今年23歳。初陣である。初陣としては非常に遅い。
(父上はなぜ、儂をこの歳になるまでいくさをさせなかった)
大名に限らず、普通、戦国時代の人々は、もっと早くいくさを経験させる。男が元服をする年頃、早ければ13、遅くとも16までには、武士は初陣を果たすのが通例である。しかし若者の父のは、若者にいくさを経験させようとはしなかった。
(父上は、儂がいくさが不向きじゃとお思いか)
若者は、姫若子と呼ばれていた。
荒事を嫌い、部屋で遊ぶのを好む。そんな若者に対し、人々が嘲って呼んだあだ名だった。
若者は確かに、いくさに出るのが怖かった。
いくさが怖いから。その代わり色々なことをした。近隣の土豪を調略しようとしたり、領内を回って苦情を聞いて回ったりした。しかし初陣を済ませていない若者を、誰もまともには相手をしなかった。
若者は外へ出た。近習が若者の後へと続く。
時は永禄3年(1560年)、織田信長の桶狭間の戦いと同年、場所は土佐の岡豊城。
若者の名は、長宗我部弥三郎元親。長浜の戦いへの出陣である。
「父上」
元親は父の国親に挨拶をした。「お顔の色が優れませぬが」
国親は、最近になって髪を剃り、出家して瑞応覚世と名乗っている。
「なあに!至って元気じゃ!」
と言って国親は大いに笑った。
(そうか、不吉なことを言ってはならぬのか)
元親は国親の真意に気づいた。
元親は自分の兵のところに戻った。兵は50名いる。
「豊後」
元親は家老の秦泉寺豊後を呼んだ。
「はっ」豊後は駆けつけた。
「槍はどのようにして使うものか」
元親が尋ねた。
「槍の使い方…でござるか?」
さすがに豊後も、聞かれた意味がわからなかった。しかし、
「槍は、敵の目から腹に向かって突き出せばようござる」と、かろうじて答えた。
「では大将は、一軍の先に立つのが良いのか、後からゆくものなのか」
元親の問いに、豊後はいよいよ呆れた。 そもそも元親は大将ではない。大将は国親である。それでも豊後は、
「大将は先を駆けぬもの、引かぬものと聞いており申す」
と答えた。
元親は、
「なるほど、その2つを知っていれば天下も取れるな」
と大いに笑った。
もっとも、以上の話は疑わしい。
長宗我部軍の大将は未だに国親であり、大将でない元親が大将の位置すべき心得を尋ねるとも思えない。
国親はこの長浜の戦いの1ヶ月後に死ぬが、そのため元親の大将としての初陣ということにして語り継がれたようである。戦国期には、こういう話の膨らまし方はいくらでもある。
実際元親は、いくさの直前に必死に槍の使い方を教わったのであろう。
しかしこの健気な元親の姿が、豪傑のエピソードに変貌するのだから油断がならない。油断がならないのは元親もである。
長宗我部家は、土佐の中では特異な地位を占めている。
土佐の国司は一条氏である。守護でなく国司である。
発端は応仁の乱にある。応仁の乱で一条教房が土佐の中村に避難してきた。元摂政関白である。一条家の荘園が土佐の幡多庄にあったので避難してきたのである。
教房の父が一条兼良であり、摂政関白であると共に当代一の学者だった。弟は興福寺大乗院門跡の尋尊であり、『尋尊大僧正記』は当時の社会を知る一級資料である。
応仁の乱の最中、教房の子の政房が摂津国で殺された。それで教房も土佐に行く気になったのだろう。
教房の土佐入りを受け入れたのは、長宗我部文兼、元親の先祖である。
教房の土佐入りにより、守護の細川氏の威光も加えて、土佐は安定を見た。
しかし、元親の祖父の長宗我部兼序の代に、本山氏を中心とした反長宗我部連合が起こり、兼序は岡豊城を奪われた。
この時から、長宗我部氏と本山氏の因縁は始まった。
国親の代になって、一条家の仲介により岡豊城を取り返した。
国親はその後、一領具足制度を領内に敷いた。
一領具足制度とは、一領の具足があればいくさに出る資格があるとするという、一種の国民皆兵制度である。
この時代、兵農分離は行われておらず、武士は農民でもあった。それでも正規の武士は二領の具足を持つとされた。
この一領具足によって、農民は田の畦に鎧と槍を置いて農作業に従事し、いざ陣触れの時にはそのまま具足をつけて参陣する。
戦国時代の野性ともいうべきもので、階層が下に行くほど兵は強く、下層の力を取り入れるほどに、いくさは下剋上、革命の様相を呈してくる。
元親の代になって、一領具足は土佐、そして四国を席巻することになる。
ともかく、長宗我部家は一条氏という貴族を奉戴するという秩序的な面と、一領具足という革命的な面を持っている。
長宗我部家と本山家には長年の因縁があるが、国親は本山茂宗の代には嫡男の茂辰に自分の娘を嫁がせた。それで両家は友好関係を保ってきた。
しかし1555年に茂宗が死ぬと、国親は本山を討つべく兵を挙げた。
長浜の戦いは、岡豊から種崎へ行く長宗我部の兵糧を載せた舟を、本山方の舟が妨害して兵糧を奪ったことに端を発している。
本山方の長浜城は守りが固く、容易に落ちる城ではなかった。
しかし長浜城は、城門が古びており、修理の必要があった。
そこで本山茂辰は、家臣の福留右馬丞に城門の修理を命じた。福留が築城の名人だったからである。
しかし福留は長宗我部家の旧臣で、国親は福留を調略して城門を開かせた。
長浜城は落城し、本山方は居城の本山城に兵を集結させた。これが5月27日。
翌28日が、戸の本の戦いで、この戦いでは元親は初陣を飾ることになる。長宗我部勢1000、本山勢2500。
早朝、長宗我部勢は長浜城から、南の慶雲寺に向かって兵を進めた。
本山勢は日出野に陣を構えた。
10時頃から、両軍が激突する。
「進めえ!進めえ!」
元親は槍を振り上げて、兵を鼓舞した。
兵力差は、本山勢は長宗我部勢の2.5倍ある。当然、本山勢が優勢になった。
そのうち乱戦になった。
敵味方が入り乱れ、隊列も乱れて、兵はそれぞれ個別に戦うようになっていく。
「押せ!押せ!」
元親は叫びながらも、自ら槍を振るって敵と戦うようになった。
元親には状況が見えていない。
そういうものである。加藤清正も、初陣では「最初は頭の中が真っ白で、場数を踏むうちに次第にものが見えるようになった」と語っている。
一刻も経つと、本山勢は次第に劣勢になり、ついには長宗我部勢が押し返した。
本山茂辰は潮江城へ向けて退却した。
元親は50騎を率いて、70余の首を取った。自らも2つの首級を挙げた。
元親は、国親の枕頭に侍っていた。
戸の本の戦いの後、長宗我部勢は潮江城を包囲したが、国親の急病により、岡豊城に引き上げていた。
(そうじゃ、儂も父上の病状は気になっていた)
「姫若子」と呼ばれた元親は、長浜の戦いで「鬼若子」「出来人」と呼ばれるようになっていた。
「ーーそなたが儂の後を継ぐのじゃ」と、国親は元親に言った。
「ーー父上、なぜ儂を廃嫡しませなんだ。なぜ今まで、儂にいくさをさせませなんだ」元親は父に尋ねた。
「ふっ」
国親は軽く笑った。「そなたが荒事を好まぬから、今までいくさをさせなかった。それだけのこと。さすがに此度は儂も長くないと悟ってそなたに初陣をさせたが、初陣が遅れたとて大したことはない」
「ーー大したことはない?」元親は聞き返した。
「いくさ?負ければ死ぬ、それだけのことじゃ」
国親は答えた。「弥三郎、大名は多くの家臣、領民の命を背負っている。ならば危険を避け、慎重に事を運べば良いと思うか?それができれば一番良いが、多くはそうは参らぬのじゃ。いかなる窮地に陥っても投げやりにならずに、あらゆる可能性を模索し、決めたことには九死に一生を得る覚悟で取り組む。その判断が正しいかどうかなど誰にもわからぬ。ただ儂はそれをしただけで、長宗我部家をここまでにした。弥三郎、そなたが『姫若子』と呼ばれながら、今まで何をしておったかは知っておるぞ。どうじゃ、調略などしても相手にされなかったであろう」
「ーーはい」
「戦国の世、いくさのできぬ者は相手にされぬ。しかしそなたも今や『鬼若子』『出来人』と呼ばれる身じゃ。そういう者が調略を仕掛けたらどうなるか。そなたの初陣にしてもそうじゃ。そなたが死なぬように様々な手配りをしたが、いくさで死ぬ時は死ぬのじゃ。ふっふ、そう思ってそなたをいくさ場に放り出す。それでも死ななかったろう」
「はい」
「土佐の兵は強い、その中でも一領具足はとりわけ強い。乱戦になっても、そなたは一人になることはなかったはずじゃ」
「ーーそういえば」
頭が真っ白になって、何も思い出せないと思っていた初陣も、国親に言われて、かすかに思い出した。どんな時も常に誰かがおり、元親は一人になることはなかった。
「当然じゃ、よっぽどひどい負けいくさでない限り、大名の惣領息子がいくさ場で一人になどなりはしない。皆そなたのために戦うわ。だからぎりぎりまで思慮深くあり、いざという時に乾坤一擲の勇を振るえれば、家督を継ぐのは誰でもいい。しかしそなたのように、いくさもせぬのに調略をしようとする者なら、あるいはそなたに賭けてみるのも良いやもしれぬな。良いか。長宗我部家の一番の財産は一領具足じゃ。一領具足を大事にせよ」
6月15 日、長宗我部国親は死んだ。
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