檀林皇后⑤
平城上皇は、薬子の変の後も、上皇として優遇された。
平城上皇は相変わらず平城京に住み、嵯峨天皇の朝覲行幸を受けたこともあった。
平城上皇の皇子の阿保親王や廃太子の高岳親王も、四品親王の待遇を許され、薬子の変の後の平城上皇には波風がないようだった。奈良時代の謀反の罪で処罰された皇族達と比べれば、隔世の感がある。
嵯峨天皇は、弘仁14年(823年)に大伴親王に譲位した。なお大伴親王改め淳和天皇には、嘉智子との間に生まれた正子内親王が入内し、天長4年(827年)正子内親王は皇后になった。
譲位の際、腹心の藤原冬嗣は、凶作が続く中で平城上皇の他にもう一人上皇を持つのは、財政上問題があるとして反対した。
嵯峨天皇が財政上の理由で、譲位を思い留まるように進言されたのは面白い話である。またこの後藤原摂関政治により、荘園制を促進して公地公民制を徹底的に破壊し、宮廷どころか都の正門の羅城門すら荒れ放題なのを放置していくようになる藤原氏が、少なくともこの頃は国家財政の心配は一応していたのである。
しかし嵯峨天皇は、冬嗣の進言にも関わらず譲位した。そして皇太子は、嘉智子との間の正良親王とした。
歴史家はこの変則的な皇位継承を、本来長子相続の皇位を、次男であった自分の系統に継がせるためにそのようにしたという。しかし薬子の変で凋落した平城上皇の家系に皇統を奪われる心配は、嵯峨天皇はしていなかっただろう。嵯峨天皇は別の企図を持っていたようであった。
平城上皇は、弘仁15年(824年)8月5日、平城宮で崩御した、
平城上皇は楊梅陵(やまもものみささぎ)に葬られた。
長く国内最大の円墳とされてきたが、昭和39年の発掘調査により、平城京築造の際に前方部が取り壊された前方後円墳だったことが判明した。
平城天皇は、楊梅陵に葬られていない。
嵯峨天皇改め嵯峨上皇は冷然院に、今や皇太后となった嘉智子と共に住んだ。
冷然院は大内裏の東に隣接し、左京二条二坊、大宮大路、二条大路の北四町を占めた。現在の二条城の北東部分に相当する。なお冷然院は、火災が多かったことから、「然」の字が「燃」に通じるとして、天暦8年(954年)に冷泉院と改められた。
嵯峨上皇の行状は改まることはなかっただろうが、内裏にいた時よりは、后妃の数は減らされただろう。嘉智子は内裏にいた時よりは、心が安らいだかもしれない。
大伴親王は淳和天皇となったが、嵯峨上皇が淳和天皇の政治に口を出すことはほとんどなかったと言われる。
エネルギッシュな嵯峨上皇が、一体何をしていたのかと興味を持つところだが、嵯峨上皇はこういう点、徹底して政治家だった。
普段から政治に口を出さなくても、歴史上初めて上皇との対立に勝利した天皇である嵯峨上皇は、いざ口を開けば、その言葉には絶対的な重みがあった。
また嵯峨上皇が政治に口を出しても、藤原冬嗣を中心とする、律令から離れていく政治の流れは止められるものではなかった。淳和天皇とは、平城天皇の時のように、普段から政治に口を出して天皇との間に軋轢して生じさせるよりは、口を出さないことでいざという時に言うことを聞いてもらえるようにした方が得策だった。
嵯峨上皇の凄みと言っていいかもしれないが、嵯峨上皇は改革を行う場合、必ずスケープゴートを用意する。
この場合淳和天皇がそのスケープゴートで、淳和天皇は清原夏野を用いて朝廷の財政確保に動いていた。
常陸、上野、上総の三国の国司は守でなく介が最高官だが、その理由はこの三国が親王任国だからである。この制度も、清原夏野の提言で施行された制度である。また夏野は国司が任期中に1、2度上京して、天皇に施政を報告する制度も作った。
また淳和天皇は、元々皇位に就くことを望まない人だった。
平城天皇の時代に、淳和天皇は臣籍降下されることを望んで平城天皇に慰留された経緯がある。権力欲がないのも、嵯峨上皇にとって都合が良かった。
淳和天皇が天皇になった理由はもうひとつあった。
淳和天皇には、親王時代に桓武天皇の皇女高志内親王が入内していた。
淳和天皇は桓武天皇と藤原旅子の間に生まれたが、高志内親王は桓武天皇と皇后藤原乙牟漏の間に生まれた皇女で、皇族としての格は淳和天皇より高かった。
淳和天皇は高志内親王との間に恒世親王をもうけており、恒世親王は、桓武天皇が在世中の延暦24年(805年)に生まれている。
常世親王の方が、淳和天皇より皇位継承の資格が高いのだが、この時代、子が父を超えて天皇に即位する例がなかった。後の時代には、天皇の父に「不登極の帝」として上皇の尊号を贈るようになったが、この時代はそんな便利な制度はなかった。
淳和天皇が即位した時には、恒世親王は19歳になっていた訳だが、嵯峨上皇は常世親王を皇太子にはしなかった。その代わり、正子内親王を天皇に入内させた。
ここに、嵯峨上皇の政治家としての底深さを見ることができる。
この時点で嵯峨上皇は、自らの子孫に皇統を確実に受け継がせるよりも、皇族の絆を強くして天皇による親政を強化することを僅かに上位に置いていたのである。
淳和天皇と正子内親王の間に皇子が生まれればそれに越したことはないが、入内当初、正子内親王は14歳、今の年齢でいえば13歳なため、夫婦の事は当分先のことだったかもしれなかった。
皇子が誕生しても、年齢によっては立太子できなかった。
平安中期から、皇室の権威の低下を表すように幼帝が多く登位するようになるが、幼帝の即位は清和天皇が最初である。この時代はまだ、皇族は元服しなければ即位できない時代だった。淳和天皇に嵯峨上皇の外孫が誕生しても、幼すぎては立太子もできなかった。嵯峨上皇が、自分の子孫に皇位を受け継がせることができるかという点で、賭けに出たのは確かだった。
ここで、冬嗣の子の藤原良房が登場する。
嵯峨天皇の譲位と同じ頃、良房は嵯峨上皇の皇女の源潔姫を妻にしていた。また冬嗣の娘順子は、正良親王に入内していた。
特に、良房が潔姫を妻にしたのは、藤原氏にとって大きかった。
臣籍降下したとはいえ、臣下が皇女を娶ったのは、良房が最初の例なのである。こうして、藤原氏は天皇の権威に一歩近い存在になった。
後、良房は人臣初の摂政となる。
冬嗣も天長2年(825年)、左大臣に就任する。しかし翌天長3年(826年)に、冬嗣は薨去する。
ここに、嘉智子と良房の提携が始まる。同天長2年には、良房は蔵人となって、官僚としてのスタートを切っていた。
嘉智子は、自分の成した子でなくても、良房と潔姫の結婚を喜んだだろう。嘉智子の兄の橘氏公も正四位下、刑部卿、宮内卿と、藤原氏には及ばぬながらも順調に出世していた。冬嗣・良房との提携に、嘉智子に不満がある訳がなかった。
嘉智子が不満があったのは、むしろ夫の嵯峨上皇の方であった。
「院(嵯峨上皇のこと)も危ういことをなさる」
と、冬嗣、あるいは良房は、嘉智子に囁いたかもしれない。
嘉智子もそう思っていた。自分の子の正良親王を皇太子にしたとはいえ、自分の血も嵯峨上皇の血も引かない淳和天皇を即位させたのは、皇統を淳和系に持っていかれる可能性がなきにしもあらずだった。
これまでの嵯峨上皇のやり方を見て、嘉智子は嵯峨上皇の政治力には一定の信頼を置いていた。しかしそれで、不安が完全になくなる訳ではない。
問題は嵯峨上皇の健康で、つまりいつまで嵯峨上皇が生きるにであったが、この点は心配はなかった。心配するというより、嵯峨上皇は相変わらず他の宮女との間に子を成しては、その子達をせっせと臣籍降下させるということを繰り返して、嘉智子を別の意味で悩ませていた。
天長2年て、正子内親王は首尾よく恒貞親王を生んだ。嘉智子と嵯峨上皇にとっての初めての外孫である。
これで嘉智子も、多少不安は和らいだ。皇統が嵯峨系に戻ってこなくなっても、自分の子孫が皇位に就く可能性が高くなったのである。
しかしまだ、恒貞親王が順調に成長してくれるかいう問題は残っていた。
天長4年(827年)、正良親王と藤原順子の間に道康親王(後の文徳天皇)が生まれた。嵯峨上皇と嘉智子の間の、初の内孫である。
これで、嘉智子はより安堵した。恒貞親王と道康親王という、次期皇太子の候補を二人も自分の孫に持つことになったからである。
嵯峨上皇と嘉智子の夫婦の会話というのは、どのようにものだっただろう。
「外孫でも内孫でも、どちらでも孫が皇位につけば良いではないか」
と、嵯峨上皇は言っただろう。
嘉智子もそう思わぬでもない。しかし良房は、
「恒貞親王に皇位が行くのは危険でござる」
と、嘉智子に言ったと思われる。
そう言われれば、そう思う。
恒貞親王は外孫であり、外孫と内孫に差がなかったとしても、恒貞親王は淳和系である。
淳和系というのは、嘉智子にとって異分子であり、仮に恒貞親王が皇太子になっても、淳和系が何かの策略を巡らして、嘉智子の血の繋がらない、全く別の系統に皇統を移してしまうのではないかという不安が、嘉智子から抜けなかった。
外孫の恒貞親王のライバルの常世親王は、天長3年に薨去していた。
「しかし正道王がござる」
と、良房は言っただろう。常世親王の嫡子である。祖父の淳和天皇は、5歳で父を亡くした正道王を憐れみ、正道王を養子にして育てていた。