一領具足⑥
元親は『三国志』を読んだ。
『三国志』で、曹操は酒の製造を禁じたとある。
(食糧が不足していたのだろう)
元親は思った。
食糧だけではない。
中国の三国時代というのは、人口が大激減した時代なのである。諸説あるが、人口が半分から十分の一に減ったと言われている。
あまりに人口減が酷いので、曹操の子の曹丕の代には、匈奴に近い国境周辺の住民に、国境よりもっと内側に移るように命令をしたほどである。
それだけ人口が減っても、曹操の時代には食糧が足りなかった。それも遠征できるほどの食糧がなかった。
以上のことは近年の研究でわかったことで、戦国時代の元親には、人口減のことまではわからない。
なお、曹操が清酒を発明したという話もある。
清酒以前はどぶろくと呼ばれる濁り酒で、日本では『播磨国風土記』に清酒の話がある。もっとも古代に清酒が発明されたかどうかは疑問で、元親の時代より少し後に、鴻池が清酒を発明したという話もある。
米作の地でない華北の覇者である曹操が、米の酒の清酒を発明したとは考えにくいし、また清酒もどぶろくもアルコール度数は変わらないのだが、曹操なら少ない食糧で、アルコール度数の高い酒を作ろうとしたというのは考えられることである。
問題は一領具足である。
具足が一領あればいくさに参陣できる一領具足は、長宗我部家に多くの兵力を提供した。
しかし一領具足の難点は、農繁期に動員できないことである。農繁期にいくさをすると、兵数が極端に減って、敵との差を生み出せない。
農繁期に一領具足を動員すると、収穫量が減ってしまう。
(ならば、生産性を上げるしかない)
と思っても、簡単にできることではないのである。
元親は、土佐国中に禁酒令を出した。
土佐人は大酒飲みが多い。
何しろ、べく杯というものがあるくらいである。底が円錐状になっていたり穴が空いていたりして、飲み干さないと置けない盃のことである。
当然、国中から不満の声が上がった。
ある日、福留儀重は、岡豊城に樽が運ばれているのを見つけた。
樽の中を検めると酒が入っている。
福留は、誰が飲むのか詰問した。その結果、元親が飲むために、密かに酒を運ばせているとわかった。
「禁酒令を出しておきながら、御自身が酒を飲まれるとはどういうことでございますか!」
福留は元親を責めた。
元親は禁酒令を撤回した。
「禁酒の触れを出しても、殿様がのんべじゃしょうがないぜよ」
土佐の酒飲み達は、そう言って元親を笑った。
(これで良い)
元親は思った。失政は単に撤回するよりも、為政者の笑い話にした方がいい。
(しかしこれは、茨の道になるだろう)
と、また同時に、元親は思った。
この時期、天正3年(1575年)から天正6年(1578年)までの間、信長の領土は全く増えていない。
天正4年4月、明智光秀、細川藤孝、荒木村重達に本願寺を攻めさせたが、本願寺は1万5000の軍で激しく抵抗したので、織田家の諸将は天王寺砦に立て籠もらざるを得なかった。
その報を京で聞いた信長は、わずか100騎で戦場に駆けつけ、味方の人数も集まらないうちに、3000の軍勢で本願寺勢に攻撃を仕掛けた。
信長は足軽の中に混じって指揮を執り、足に鉄砲傷を受けながら本願寺勢を撃退し、2700もの首を取った。しかしその後10か所の附城を築くように命じて、安土に帰ってしまった。
7月には毛利の水軍が本願寺に兵糧を運び入れようとし、織田軍も300艘の水軍で迎え討つが、毛利は700艘の大船で、焙烙、火矢という火器を使って、織田の水軍は大敗する。
翌天正5年2月には紀州に遠征したが、攻め口を諸将がくじ引きで決めたり、雑賀の鈴木孫一の居城を20日も囲んで攻めておきながら落とすことができず、雑賀衆七人の恭順を容れることで引き上げた。
(家臣が、信長に従わなくなっているのだ)
元親は思った。武田信玄が健在で、将軍義昭が京で暗躍し、伊勢長島で一向一揆が尾張・美濃を脅かしている間、信長の威令は隅々まで行き届いた。織田家の諸将の誰もが、この日本史上最大の独裁者の判断を信じた。
しかし将軍義昭を追放し、長篠で武田軍を壊滅させ、伊勢長島と越前の一向一揆を徹底的に虐殺して収束させると、信長に従わなくても、織田家が危機的状況に陥ることはなくなった。
織田家は現状維持でいい。いや現状にさえも不満を持つ者が出てくる。
8月には、松永久秀が再び謀反をした。
信長は柴田勝家を加賀に、羽柴秀吉を播磨に派遣して、征服事業を進めさせた。
(これは珍しい)
信長が直接軍を率いることができないからといって、家臣にそれをさせるというのである。
(果たしてうまくいくか)
戦国大名ではほとんど例のないことである。しかしこれで、当面は信長が大きく領土を拡げることはないとはっきりした。
(これは良い機会じゃ、信長が動けぬ間に、四国を平定してしまおう)
天正6年の正月、元親は家臣一同の年賀の挨拶を受けた。
「家臣に充分な恩賞を与え、家族が安心に暮らしていくには土佐だけでは不十分である。四国全土が必要である」
元親は言った。「長宗我部家に仕える者がいくさで死んで、家名が断絶することがあっても、この元親が血縁の者を探し出して家を再興する。長宗我部家の被官が罰せられる時は、重罪の場合を除いて、家名断絶はおろか減知もせぬ」
「おお!」
家臣達はどよめいた。武士にとって、減知や家名断絶が何より堪えるのである。何のために功名を挙げ、恩賞を稼いできたかわからなくなってしまう。しかしこれで、家臣は身命を惜しまず戦うだろう。
元親は、三好長治の討伐に取り掛かった。
長治はすっかり孤立し、味方は弟の十河存保しか残っていなかった。
(長治が領内に法華宗を強要しようとしたのは、わからなくもない)
元親は思った。
元親は最近、『元親百箇条』の条文を増やしていた。
「仇討は、子が親の仇を、弟が兄の仇を討つのが道理で、親が子の仇を、兄が弟の仇を討つのは逆縁である」
として、仇討の横行に一定の歯止めをかけた。また殺人や口論は喧嘩両成敗で処置するとした。
あくまで裁判制度を整えていくのではなく、領内の秩序維持を優先したものである。
戦国時代の分国法で喧嘩両成敗の記載は例が少なく、『今川仮名目録』と『甲州法度』、それに『元親百箇条』の3つだけである。
信長の織田家は、統制は苛烈だが、分国法はない。織田家は上洛してからは領地が広すぎるという理由もあるが、基本はその地域の慣習に基づいて秩序を維持している。
(戦国の世には、何を信じていいかすぐにわからなくなる。しかしだからといって、人間をひとつの色に染めようとしてもうまくいかない。不確実性の中に身を置かなければならない)
それでいて、人が気づかないように、統制を強めていく。
元親は、細川真之と協調して、長治の家臣団を切り崩していった。
そして3月28日、荒田野の戦いで、三好長治を討ち取った。
(次は白地城だ)
阿波の西側、山深くにある白地城は、土佐、讃岐、伊予に通じる道がある。兵法で言うところの衢地である。白地城を獲れば、阿波、讃岐、伊予の三国に押し出していける。
元親は大軍でもって白地城を攻めた。
元親は前年から、検地を行い、隠田などを摘発して収穫量を上げていた。これで農繁期にも多少の活動ができるようになった。
城主の大西覚養は、敵し難いと見て降伏し、弟の大西頼包を人質として送ってきた。
(これで良し)
三好長治亡き後、弟の十河存保が三好家の実質的な当主になりつつある。
ここで、考えなければならないことがある。
(淡路島をどうするか)
ということである。本州と四国の間に、軍艦のように浮かんでいるのが淡路島である。
将来信長と戦う場合、淡路島を先に制した者が戦いを有利に進めていく。
元親が淡路島を押さえれば、元親は本願寺や毛利などの反信長包囲網と連携して、自由に大阪平野を暴れ回ることができる。信長への打撃は大きいだろう。
反対に信長が淡路島を押さえれば、元親は四国から出られなくなる。
(まだ早い)
元親は思った。
戦略的な価値は一番である。
しかし、今ここで信長を刺激すると、信長の来襲に備えて、淡路島に大軍を配置しなければならなくなる。その分だけ四国統一が遅れてしまう。
長宗我部軍が一領具足を軍の主体とする以上、農繁期に動員できるようにするだけでなく、長期の滞陣もできるように、国内の改革をせねばならない。
つまり戦略的な優先順位は高くとも、政略的な優先順位が低いのである。
そのうち大西覚養が、三好康長の調略に乗って寝返った。
三好康長は、織田方として反長宗我部の流れを作ろうとしていた。
(もう織田家の風向きが変わったか)
織田家より遠方にある大名は、どちらも自分が織田方と称して戦うことが多い。
三好康長は、同じ調子で淡路の安宅信康を誘降した。
(こうなったら淡路島を獲ってやるか)
腹が煮えくり返ったが、堪えた。
大西覚養の弟の大西頼包だが、元親は生かすことにした。
頼包からは、「是非家臣にしてほしい」と言われて、その通りにした。
「殿は寛大である」
と、頼包の処置は家臣の評判も良かった。
(ここで三好康長を叩いておかねば)
織田家が反長宗我部のようになっているのは、三好康長に好きなようにさせているからである。康長を叩けば、流れがこちらに来る。
元親は5000の兵を率いて、三好康長を破った。
(次は白地じゃ)
元親は3000の兵で、白地城の支城田尾城を攻めた。
田尾城は元親の来襲に備えるため、覚養と頼包の弟の大西頼信を城主にした。
頼信は13歳。城主が幼い代わりに、重臣の寺野武次を配して300の兵で守らせていた。
兵力は少ないが、改修工事をして守りを固めてある。
「かかれ!」
元親は昼も夜もなく攻めて、最後に火矢を放って城に火をつけた。
田尾城は2日で落ち、大西覚養は白地城を放棄し、讃岐国麻城へと逃げた。