伊達政宗①
天正6年(1575年)4月、片倉小十郎は考えていた。
姉の喜多から持ち込まれた話である。
「梵天丸様の守役になってたもらぬか」
というのが、喜多の話だった。喜多は、梵天丸の乳母を務めていた。
ここは、出羽国置賜郡。現在の山形県米沢市広幡町成島八幡神社。片倉家は、この成島八幡神社の神職の家だった。
梵天丸はこの時9歳で、小十郎も何度か見かけたことがある。
(陰気な御子であられた)
というのが、小十郎の印象だった。
梵天丸は5歳で疱瘡にかかり、疱瘡の毒が右目に入り、右目が潰れた。
梵天丸は疱瘡のために容貌が醜くなったのと、生母の義姫の愛情が弟の竺丸に注がれたため、心がねじけ、陰気な性格になった。
小十郎には、梵天丸の気持ちが痛いほどによくわかった。
小十郎も母を失っているのである。母を失った後、小十郎は姉の喜多に育てられた。
姉といっても、歳は親子ほどに違う。
しかも、喜多と小十郎では父親が違う。それでも姉には違いなかった。
その姉を、母の代わりと思うのに、どれほど時間をかけて心を作り替えねばならないか。
(梵天丸様は、今姉上を母と頼んで慕っておられるのだろう)
そのため、梵天丸は喜多の側を離れないという。
「最近ではそうではない」
といって、喜多は笑った。
というのは、虎哉宗乙という僧が、梵天丸の学問の師になっていたからであった。
その話は、小十郎も聞いていた。
虎哉宗乙は、信長が甲州征伐の時に、六角義定などを恵林寺に匿い、引き渡しに応じなかったために織田軍に火をつけられ、「心頭滅却すれば火もまた涼し」と言って焼死した、有名な快川紹喜の弟子である。しかしそのことは、これより少し後の話になる。
虎哉宗乙は美濃の人で、その前は甲斐に住んでいた。
この虎哉和尚を呼ぶことになったのは、梵天丸の父の輝宗の叔父、つまり梵天丸の大叔父の大有康甫と虎哉が付き合いがあったからである。
虎哉和尚は、梵天丸に会って早々にほっぺたまでひねり上げた。
「痛いか?」と虎哉和尚は言った。
梵天丸はまだ子供である。当然痛い。ひねられながら頷いた。
「痛い時は痛くないと言え、暑い時には寒いと言い、寒い時には暑いと言え」
と、虎哉和尚は言った。
(なるほど、さすが禅僧である)
と、この話を聞いて小十郎は思ったものだった。
梵天丸は右目を失い、母に嫌われている。
確かに哀れである。しかし梵天丸を虐げる者は、母の他にいない。
奥州第一の名家の伊達家の惣領ででは梵天丸をいじめる者など、母の他にはいない。
梵天丸は母の愛情を得られなかったことで、それを求め、そのために自分の置かれた環境が正しく見えなくなっている。母の愛に固執しなければ、梵天丸は恵まれた環境にいるのである。
そのことを知るために、梵天丸を周囲に影響されない人間に育てる必要があった。「痛いなら痛くないと言え」というのはそういう教えだった。
禅宗はその独特の話法で、人に自分の立ち位置を正しく教えてくれる。
また虎哉は、「人前で横臥する姿を見せるな」と、梵天丸に教えた。
主君としての心構えである。自分が主君として生まれてきたと分かれば、自分の立ち位置も自然と理解するようになる。理解すれば、自分がそんなに不運ではないとわかるようになる。
虎哉は梵天丸に、愛情をもって接しはしなかった。虎哉が愛情を注がなくても、愛情は喜多から溢れんばかりに注いでいた。
(実際姉上は、若様に愛情を注いでおられるだろう)
小十郎は思った。
どういう訳か、喜多はその母が、実父の鬼庭左月に「男子を生まない」という理由で離縁され、そのため苦労もしてきているの゙だが、それで性格にひずみができて、人に辛く当たったりするということがない。
喜多の梵天丸への愛情は陰日向ないものだったが、それだけに梵天丸は、喜多にすっかり依存してしまっていた。
むしろ喜多が梵天丸に愛情の注いだからこそ、虎哉和尚は梵天丸に厳しく当たれたといえる。
虎哉は、柔和な父輝宗以上に、梵天丸にとって父親を感じさせる存在だった。男子は父を感じた時に、父に憧れ、父のようになりたいと望むようになる。
また虎哉は、梵天丸のことを「独眼竜」と呼んだ。
「独眼竜」とは、中国の五代十国時代、後唐の始祖となった李克用のあだ名である。李克用もまた隻眼であった。
「独眼竜」とあだ名を付けられて、梵天丸は最初恥ずかしがったが、徐々にそう呼ばれることを受け入れていった。
受け入れると、自分が特別な存在であるように思われてならず、梵天丸は自分に自信を持つようになっていった。
「それに、若様は万海上人の生まれ変わりじゃ」
と喜多が言った時は、さすがに小十郎も、この奥羽を捨てて中央に行きたい衝動に駆られた。
確かに、梵天丸はそう言われている。万海上人は隻眼で、徳の高い高僧であった。
しかし万海上人は、つい最近まで生きていた。万海上人は天正年間に即身仏となったの゙だが、「つい最近まで生きていた」というのは、万海上人は梵天丸の誕生後に死んだということである。
「万海上人の生まれ変わり」などということをおおっぴらに信じる奥州人の土臭さもさることながら、梵天丸の誕生後に死んだ万海上人が、梵天丸をその生まれ変わりとするうかつさは、思慮深い小十郎はやりきれないものがあった。
とにかく、梵天丸には自信が芽生え、次期当主にふさわしい態度を身に着け始めたということである。
小十郎は考えた。
中央には、織田信長の勢力が勃興している。
信長はこの2年前、足利義昭を追放して室町幕府を滅ぼした。
この年、小十郎は19歳。
(天下を統一する機運が生まれている)
と、小十郎年若い血気から、血が泡立つ思いで中央の情勢を見ている。しかし奥羽では、まだ織田家の天下は長くないと見る者が多く、信長の苛烈なやり方を人々が嫌って隠居をしたと、口々に噂をしていた。
小十郎は、中央に出て、天下統一のいくさに参加したかった。
数年前に米沢で大火があり、その時小十郎は避難民の誘導で功があり、その働きを輝宗に認められて、輝宗の小姓として取り立てられていた。
しかし小十郎は、この土深い奥州の天地を離れて、どこぞ、織田家の有力な武将の元で陣借りしていくさ働きをし、ゆくゆくは大名に取り立てられたいという、足掻くような思いを持っていた。
小十郎は喜多の勧めを聞き、中央への憧れに悶え、煩悶する数日を過ごした挙げ句、喜多の勧めに従い、梵天丸の守役になることを承知した。
(儂は、自分を押し通せるほど我が強くない)
と、小十郎は内心忸怩たる思いがしたが、小十郎が梵天丸の守役を引き受けたの゙は、梵天丸を包むように織り上げているひとつの動きを、若い小十郎も敏感に感じ取っていたからだった。
小十郎が守役として仕えた梵天丸は、なるほど喜多の言うように、陰気さを脱して闊達さを見せる少年になっていた。
喜多は梵天丸を目の中に入れても痛くないほどに可愛がり、梵天丸が外出する時も、
「〜はお持ちでいらっしゃいますか」
と、くどいほどに聞いていった。
(姉上はやはりいつも通りの姉上である)
と、その度に小十郎は思った。まだ思春期に達してない梵天丸は、喜多の言われるがままにさせている。
喜多は未婚であるため、梵天丸に乳をやっていない。
いわば喜多は乳母ではなく、正確には保母だった。それで喜多は、梵天丸にも、またかつては小十郎にも、その愛情に陰りを見せるはいうことがない。
なぜ喜多は自分の子供でない小十郎のためにそこまでするのかと、かつて小十郎は聞いたことがある。
「だからこそ、愛情を注ぐのじゃ」
と、奥州人らしく言葉少なに、不十分な説明を返してきた時は、小十郎もさすがに面映ゆかった。それでいて、温厚な小十郎は、喜多に好きなようにさせてしまうのだった。
天正5年(1577年)11月、梵天丸は、武士にしては少し早い元服をして、藤次郎政宗をいう名乗りを与えられた。
(やはり)
と、小十郎は思わざるをえなかった。
政宗とは、南北朝時代の、伊達家九代当主の諱である。
政南北朝時代に南朝方についていた伊達家は、この政宗の頃に北朝に乗り換え、置賜郡を長井氏から奪って伊達家の拠点として、伊達家中興の祖と言われている人物だった。
藤次郎政宗は、その九代政宗になぞらえられた訳だが、
(実のところは、藤次郎様を直山公になぞらえようとしている)
と、小十郎は読んだ。
直山公とは、藤次郎政宗の曾祖父、十四代当主稙宗のことである。
藤次郎政宗はこの後、南奥州統一という快挙を成し遂げるが、稙宗はその一代において、藤次郎政宗に匹敵する覇業を成した人物だった。
藤次郎政宗が豊臣秀吉に帰参し、占領地を放棄して、従来の伊達家の領地に戻った時の石高は、太閤検地によれば74万石。
奥州で、伊達家に匹敵する大名はいない。伊達家は当主がその気になれば、奥州の天地で望めないものはないほどの実力のある家なのである。
稙宗はその伊達家の軍事力と、多くの子を作ってそれを政略に活かし、戦国初期に最上、大崎、葛西、蘆名を傘下が収めた。
稙宗の活躍は奥州に留まらず、越後の上杉氏に三男の実元を養子に送り込もうとした。
稙宗の越後支配が成功すれば、後の上杉謙信の活躍はなかっただろう。
しかし、稙宗はその覇業を一代で失ってしまったのである。
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