一領具足③
元親は、石谷光政の娘を嫁にもらった。
石谷光政の娘との間には、四男四女をもうけた。夫婦仲は良好だったらしい。
永禄6年、元親は本山城を攻めるために出陣した。
すると、安芸国虎が5000の軍を率いて、岡豊城に向かっていると情報が入った。
(安芸国虎が5000の兵?)
この時点で、他領に5000もの軍勢を動員できる大名は、土佐には存在しない。
安芸氏は、土佐七雄と呼ばれる豪族のひとつである。
土佐七雄とは、本山、安芸、津野、香宗我部、吉良、大平、長宗我部の7つの氏族である。
この七雄も、この頃は数を減らして、本山、安芸、長宗我部の3氏族が残り、一条氏を加えて土佐を4つに分割している。
元親は岡豊城へと引き返した。
今回の安芸国虎の岡豊城攻めには、一条兼定が3000の兵を貸していた。
(御所様が)
と、元親は驚いた。土佐では一条家のことを御所様という。
(長年、御所様を奉戴してきたが、御所様といずれは争わねばならぬやもしれぬな)
と、この時元親は思った。
この時は元親が岡豊城に着く前に、家臣の吉田重俊が奮戦して、岡豊城を防衛した。
元親は国虎を攻めようとしたが、一条兼定の仲介により、元親は国虎と和睦した。
(よくも抜け抜けと…)
元親は兼定の仕打ちに腹が煮えくり返ったが、この場は堪えた。
領内での兼定への憤激は、元親以上に激しかった。
(そうだろう)
元親は思った。
長宗我部家の主力は、一領具足である。
一領具足というのは、元々不穏分子なのである。
戦国時代、下剋上をして戦国大名にのし上がった者達には、ひとつのセオリーがある、
それは下層階級に同調、または共感を得ることで、下剋上を達成していることである。
代表的なのが、北条早雲である。
北条早雲は備中荏原庄(現岡山県井原市)の伊勢氏の出身だが、出自不明の噂を流したようで、素浪人伝説がある。
早雲が五人の仲間と一味神水をして、一人が出世したら、他の者はその家来になるというのである。
斎藤道三もそうで、道三が油売りをしたという伝説も、身分の卑しい商人だったという伝説をわざと作って、庶民の共感を買ったのである。
織田信長は伝説こそ作らなかったが、その一身で下剋上を体現した。「うつけ」と呼ばれた信長のいでたちは、下人をモチーフとしたものである。
そして元親も、一領具足を率いて下剋上をすることになる。
5月に、本山茂辰は岡豊城に攻めてきたが元親に撃退され、とうとう本山城を放棄し、瓜生野城に籠もった。
その間、時勢は動いている。
永禄6年。織田信長は清須から小牧山に移転した。美濃に喉元から食らいつこうという魂胆である。
永禄8年(1565年)、将軍足利義輝が三好義継、三好三人衆、松永久通(松永久秀の嫡男)に殺されてしまう。
将軍義輝の弟、興福寺一乗院門跡の覚慶(足利義昭)は、松永久秀に保護されて殺されずに済んだ。
その後覚慶は、各地を流浪した。
覚慶は還俗して義秋と名乗り、信長と斎藤龍興に和平を結ばせ、信長に上洛軍を起こさせようとした。
しかし信長にはまだ、長駆上洛するほどの実力がない。
信長は一旦は成立した和睦を反故にし、美濃の豪族を調略して堂洞合戦、関、加治田合戦、中濃攻略戦を展開して、中濃を手に入れた。
元親は、瓜生野城攻略に着手した。
本山茂辰は、永禄7年に病死していた。
茂辰の後は、嫡男の親茂が継いでいた。親茂の母は元親の姉で、親茂は元親の甥に当たる。
本山家との間には、三代に渡る因縁がある。
元親の祖父の長宗我部兼序は、本山氏を中心とする、反長宗我部連合軍に攻められ、岡豊城は落城、兼序は自殺した。
兼序の子の国親は、中村の一条氏を頼って落ち延びた。
後に、一条家の仲介により、国親は岡豊城を返してもらい、長宗我部家を再興した。
以来、本山氏との戦いは続いている。
元親は瓜生野城を攻め、親茂は永禄11年、ついに降伏した。
一条氏は土佐の西にあるだけに、この頃は伊予にも手を出していた。
また一条氏は九州の大友氏とも縁戚関係にあり、伊予への進出では大友氏と協力関係にあった。
伊予は河野氏が中心で、中国の毛利氏が支援していた。
また毛利と大友は、九州を巡って争っており、大友は一条氏を支援することで、河野氏を支援する毛利の力を削ぐことを期待していた。
一条氏は伊予に出兵したが、毛利・河野連合軍に負けてしまったのである。
この戦いで、一条氏の勢力は大きく後退した。
(今が、安芸国虎を叩く時だ)
元親は、河野氏、村上水軍の村上吉継に戦勝祝いの書状を送って、一条氏を牽制した。そして、
「岡豊の城に来られて、互いに親交を深め合おう」
と、安芸国虎に使者を送って言った。
一条氏の援軍が来ないことを見越して、元親は国虎に対し、旧怨を忘れて仁者として振る舞ったのである。
はたして安芸国虎は疑い、岡豊城に行けば殺されるのではないかと思った。
「おのれ弥三郎め、無礼千万!城に来いとは儂を臣下とする気か!はたまたこの儂を岡豊城に取り込めて殺す気か!」
と使者に怒鳴って、追い返した。
(馬鹿め、貴様を殺すのに城に呼ぶ必要があるか)
内心、元親はほくそ笑んだ。
一条氏の勢力の後退により、安芸氏にも内部分裂が起こっている。
元親は充分に調略を施した上で、国虎に使者を送った。元親の調略を受けた者達は、国虎に失望してこちら側へと寝返るだろう。
元親は7000の兵を集めて、安芸郡の和食に陣を張った。
安芸国虎は5000の兵を集めて、八流に対陣した。
永禄12年、八流の戦いである。
元親は軍を二手に分け、元親は2000の兵を率いて内陸の道を進み、福留右馬丞が5000の兵を率いて海岸沿いの道を進んだ。
福留右馬丞は、安芸方の黒岩越前の軍5000と衝突した。
すると安芸方の小谷左近右衛門らが次々と長宗我部方に内応した。
安芸方は一条氏に援軍を求めていたが、一条家からは援軍が来なかった。
黒岩勢が浮足立っているところを、元親軍2000が安芸勢の本隊の背後を突いた。
安芸勢は狼狽陣、安芸国虎は安芸城へとと逃げていった。
国虎は徹底抗戦した。
しかし、元親は既にひとつの仕込みをしていた。
横山民部という、元親の調略を受けた者がいる。
横山には、国虎が安芸城に籠もっても、こちらに来ないように言い含めてある。
当然横山は、城の中にいる。
夜陰、城内から矢文が飛んできた。
兵士がそれを見て、元親に知らせた。
元親は書状を見た。
「かねてよりご思案のこと、仰せの通り仕り候」
という、横山民部からの書状だった。
(やったか)
朝になり、城内から剣戟の音が聞こえた。しかしそれも止み、さらにしばらく待つと、城門が開いて使者が現れた。
「降伏したい」
とその使者は告げた。条件は城の明け渡しと国虎の首、そしてその他の城内の者の助命だった。
元親は、了承した。
やがて国虎の首が届けられ、武装解除した者達が出てきた。
安芸の兵達は、一様に悔しそうに顔をしている。
「我らはまだ戦えた!」
安芸方の兵の一人が叫んだ。
(そうだろう)
表面、大将として悠然と構えているが、元親は気の弱いところがあり、いたたまれない気持ちになった。
元親は、内応した横山民部に、安芸城内の井戸に毒を入れさせたのである。
こうして、安芸郡は元親のものになった。
永禄10年(1567年)、信長は稲葉山城を奪取して、美濃を平定した。
信長は、越前の朝倉義景のもとにいた足利義昭を美濃に呼び寄せた。
翌永禄11年9月7日、信長は義昭を奉じて上洛軍を起こし、観音寺城の六角氏を攻撃する。六角承禎は観音寺城を放棄し、甲賀郡に退却した。
信長は9月26日に上洛を果たした。
信長が上洛を果たすと、山城勝龍寺城の岩成友通が降伏、摂津芥川山城の細川昭元、三好長逸が城を放棄、篠原長房が摂津越水城を放棄、池田勝正は信長に降伏した。
こうして信長は、南近江、山城、摂津までの広大な領地を勢力圏に入れ、また松永久秀も同盟者とした。
永禄12年1月5日、信長が岐阜城に帰還した隙を突いて、阿波から三好三人衆が上陸し、義昭の仮御所の本圀寺を襲撃した。この襲撃は、信長が来る前に細川藤賢、明智光秀が撃退した。
信長は、反義昭勢力の襲撃に備え、二条御所の築城に取り掛かった。
信長は堺に矢銭を要求し、堺の今井宗久はこれを受け入れた。そして松井友閑を代官とし、堺を直接支配しようとした。
(儂の土佐統一は、信長の上洛に遅れたか)
元親は思った。(それにしても、信長は幕府に政治をさせない気か)
信長は、「殿中御掟」を義昭に認めさせていた。その中には、
「幕臣の家来は、御所に用向きがある時は、主人が当番役の時だけにすること。それ以外に御所に近づくことは禁止する」
「訴訟は幕臣の手を経ずに、幕府、朝廷に内々に挙げてはならない」
「将軍への直訴を禁止する」
「門跡や僧侶、延暦寺の僧兵、医師、陰陽師をみだりに殿中に入れないこと」
「将軍が直接訴訟を取り扱うことを禁止する」
などがある。
全て、室町幕府の不文律である。しかしこれが法制化されると、違反した場合、将軍義昭が悪者にされる可能性がある。
(上方の動きは早い。それに比べて儂は、まだ一条家には手が出せぬ)
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