伊達政宗②
伊達稙宗は、三男の実元を上杉氏の養子に送る件で、家臣団の反発を受けたのである。しかもその筆頭は、嫡子の晴宗だった。
天文11年(1542年)、稙宗は鷹狩りの最中に晴宗の襲撃を受け、西山城に幽閉された。
程なくして、稙宗は小梁川宗朝という家臣に救出され、怒った稙宗は、奥州の諸侯を糾合して晴宗と対立し、天文の乱と呼ばれる内乱となった。
内乱は、当初は稙宗が優勢だったが、蘆名盛氏が晴宗に寝返ったことで、晴宗が優勢に変わった。
室町幕府が仲裁に入り、稙宗は晴宗に降伏し、家督を晴宗に譲り、丸森城(宮城県伊具郡丸森町にある)に隠居することとなった。
稙宗は永禄8年(1565年)、丸森城で死んだ。政宗が生まれる2年前まで、稙宗は生きていたことになる。
稙宗の隠居により、伊達家の勢力は元に戻った。
稙宗は強いリーダーシップを発揮する大名で、伊達氏の分国法『塵芥集』を作ったのも稙宗である。
しかし稙宗の登場は、草深い奥州では早すぎたと言えるだろう。他の地域では、稙宗は戦国大名として名を馳せることもできただろうが、稙宗はアンシャン・レジームとも言える体制により、戦国大名になりそこねた。
稙宗の隠居以来、伊達家では稙宗の話をする者はいなくなった。
しかしごく稀に、「直山公の頃は」と語る家臣もいる。
当然である。稙宗の頃は家臣も皆領地が増えたのだから。その領地を、家臣達もまた失ったのである。
しかしその家臣達もまた、稙宗を隠居に追い込んだ家臣達なのである。稙宗の再評価は容易にはできなかった。
稙宗以後、伊達家は振るわず、奥州は、その勢力地図が大きく変わることのない、各大名が小競り合いと繰り返すだけの地域になった。
しかし稙宗の活躍で、わかったことがある。それは伊達家の当主が、家臣の様々な利害関係に振り回されることなく、征服事業に邁進すれば、奥州を統一することも不可能ではない、それだけ伊達家は、強力な武力を持っているということである。
(ご当家は、若君を直山公にしようとしている)
と、小十郎は見た。
しかし、そのことは、小十郎はおくびにも見せない。
政宗が稙宗のような強力な指導者となれば、煙たがる者が大勢出る。あからさまにそう言ってしまえば、また天文の乱のようなことが起こりかねない。
またこういう点にも、「万海上人の生まれ変わり」説は配慮している。
万海上人は、仏法が正道であることを説き、キリシタンを排除するために、食を絶って即身仏になった。つまり、保守的な人々にも受け入れやすい物語になっているのである。
小十郎は、未だキリシタンを見たことがない。
後に、皮肉にも「万海上人の生まれ変わり」である政宗がキリシタンを保護することで、伊達家の領内のキリシタンが増加するの゙だが、奥州人の土俗性は、その見たことのないものに対し、激しい拒絶反応を示していた。恐らく、即身仏となった万海上人ですら、キリシタンが蔓延しているとまでは思っていなかっただろう。
問題は政宗が、この意図に気づくかどうかだが、少年は直接的な言葉を理解しても、暗示はなかなか理解しない。
政宗も、曾祖父の稙宗のことは聞き知っている。
家中の雰囲気を察して、少年ながらも、政宗は稙宗のことはあまり話さない。しかし、政宗が稙宗に憧れていることは、その様子の端々でわかった。
全てが、順調に事が運んでいる。
天正7年(1579年)、13歳の政宗は、三春城(現在の福島県田村郡三春町にある)の田村清顕の娘で、11歳の愛姫との婚儀を行う。
この婚儀も年齢的には少し早く、夫婦の事は当分先になるが、政宗という少年の人生が順調な滑り出しをしたのを示している。しかし政宗と愛姫の生活は、雛壇に飾られた人形のように可愛らしい。
小十郎は、そんな政宗に対し、物わかりのいい兄のように接していた。
天正9年(1581年)、現在の福島県の浜通りにある相馬氏とのいくさで、政宗は初陣を飾った。
政宗15歳、初陣は順当である。
しかしそれだけでなく、輝宗の代理として、政宗は田村と蘆名の外交を担当することになった。
田村は舅だからまだわかる。問題は対蘆名外交だった。
蘆名外交は重要だった。
蘆名の先代の蘆名盛興は、天正3年(1575年)、幼い子供二人を残して死んだ。
盛興の正室は政宗の叔母で、伊達御前と呼ばれていたか、女子一人を生んだだけだった。
他に妾腹の男子がいるが、伊達御前が妾に嫉妬し、実家に追い返してしまっていた。
盛興が死んで、家臣はその男子に跡を継がせようとしたが、伊達御前は「先君の子ではない」と言って反対した。
伊達御前に背後には伊達家があるので、家臣も伊達御前には遠慮があった。そこで盛興の父の盛氏がしばらく家政を見ていた。
そこに須賀川の二階堂家の人質がいて、伊達御前と関係を持ったので、盛氏はこの人質に蘆名の名跡を継がせ、伊達御前と夫婦とし、蘆名盛隆と名乗らせた。しかし家臣は人質から当主になった盛隆に心服していなかった。
つまり、蘆名は伊達にコントロールされやすい環境だった。
前年天正6年(1578年)に上杉謙信が死んで、家督争いの御館の乱が起こっていた。乱は上杉景勝の勝利に終わっていたが、この乱で恩賞をもらえなかった新発田重家が景勝に反旗を翻し、輝宗は蘆名盛隆と共に重家を支援していた。
(これは、ひょっとして若君に早々に家督が譲られるのではないか)
と、小十郎は思った。
天正10年(1582年)、本能寺の変で信長が横死。羽柴秀吉が山崎の戦いで明智光秀を討ち、信長の後継者の道を歩む。
天正12年(1584年)、蘆名盛隆が家臣により殺された。
盛隆は伊達御前との間に、亀王丸という男子をもうけていた。
しかし亀王丸は、生まれて1月にもならない。そこで輝宗が亀王丸の後見をすることにした。
それだけでなく、輝宗は次男の小次郎を蘆名に養子に送り込もうと画策した。
そして10月、輝宗は隠居し、政宗に家督を譲った。
(やはり、そういうことか)
と、小十郎は思った。
「父上、今後ともご指導くださりませ」
と、政宗は神妙に言ったが、それからずっと、難しい顔をしていた。
そんな冬に向かうある日、政宗は鷹狩りに出かけ、小十郎も従った。
(ご機嫌がよくないようであるな)
と、政宗を見て小十郎は思った。
政宗は、腕に乗せた鷹を、獲物に向けて放った。
「小十郎、越後の件はどう思う?」
と政宗は前を見たまま言った。
鷹は、兎を捕まえた。
(越後…)
というのは、輝宗は新発田重家の上杉への謀反を支援しているが、家督を政宗に譲っても、この件は輝宗が管轄しているのである。
兎を捕らえたまま、鷹は政宗の腕に戻ってきた。
「よしよし」
政宗は鷹を褒めながら、「越後への介入は危険ではないか」
と言った。
「ーー」
小十郎は考えた。
この年の4月、小牧・長久手の戦いがあったが勝負はつかず、むしろ家康が優勢なまま終わった。
そこで秀吉と家康のにらみ合いとなったが、秀吉は越中の佐々成政とも敵対し、そのため上杉景勝と連携している。つまり伊達が上杉と敵対することは、秀吉を敵に回すことになるのである。
政宗はこの後も、2、3匹獲物を捕まえた。小十郎は黙って従った。
政宗ら一行は民家に寄り、縁側を借りた。
近習が獲物を捌き、料理する。小十郎は民家の者からもらった茶を差し出した。そして、
「難しゅうございますな。徳川や北条がどう動くか」
と言った。
政宗は頷いた。
徳川と北条は、同盟を結んでいる。
この同盟に伊達家も加われば、秀吉といえども迂闊に手は出せない。しかし、徳川と北条が徹底して秀吉に敵対するとは限らないのである。
もっとも、政宗には別の鬱懐がある。
輝宗が上杉と敵対する方針を変えない以上、政宗は弟の小次郎を蘆名の養子にする、対蘆名外交を変えることができない。
そのことが、政宗には面白くないのである。幼少からの確執により、小次郎との関係は良くない。
「されど、小次郎様にはようござる」
と、小十郎は付け加えた。
政宗は答えなかった。小次郎と仲が悪いから対蘆名外交に反対しているとは、政宗も思われたくない。
戦国後期、地方で大を成した大名には特徴がある。
それは信長も秀吉といった中央権力と誼を通じて勢力を拡大するということである。伊達、長宗我部、島津などがそうである。
しかし中央の勢力が自分達のところに及んだ時には、もはや抗いようがなくなっている。これも共通した特徴である。
一方、中央と敵対し、反中央の勢力と同盟を結ぶと、中央は敵対勢力の対処に時間はかかるが、結局は各個撃破される。
そして、中央と敵対した場合、勢力拡大は基本できない。
しかし政宗の場合、小次郎を蘆名に養子に送り込めば、会津が手に入るのである。
「ここは会津を得ておいた方がようござる」
小十郎は、政宗に諭すように言った。しかし、
「儂は万海上人の生まれ変わりじゃ」
政宗は言った。
(はて…)
小十郎は口籠った。
政宗のやろうとしていることは、政治的には上策とはいえない。
政宗は、上杉と和睦して、輝宗の外交を根底からぶち壊そうとしている。
輝宗の外交により、今の福島県の浜通りと中通りが、伊達家に靡こうとしている。輝宗の外交を覆せば、これらの大名達も、伊達家に背を向けるだろう。
要するに、政宗が求めているのは、伊達家の独裁権力である。
そして一見、政治的に下策に見えても、内部改革に成功した者が戦国大名として成功する。これもまた歴史の法則である。