ぶしのはじめ④

平安時代の政争は、全て藤原氏を押し上げるためにあった。

時代のエネルギーが、藤原氏を常に押し上げていたとしか言いようがない。

藤原氏が繁栄すると、荘園制が発展し、藤原氏に追随する者達がそのおこぼれに預かる。律令制にひびが入り、やがて権門勢家という、律令制と相反する身分制社会へと変貌する。

しかしこの藤原氏を押し上げるエネルギーが、権門勢家の社会に変わると、藤原氏は権力の中心から外れ、院政のわずかな期間を経て、武士が社会の中心となる時代へと変容するのだから、歴史というのは面白い。


こうして安和2年(969年)、安和の変が起こる。

安和の変は、平安時代の政争らしい事件である。安和の変に比べれば、真犯人が闇の中に葬られた応天門の変などはおよそ平安時代の事件らしくない。

安和の変が平安時代らしいのは、謀反の密告事件だが、謀反の内容が全く明らかにならず、しかも謀反に連座した者が数年後には許されて京に戻ってきていることである。本当に謀反などなかったことがあからさまで、処罰も政敵を今の地位から蹴落とすことが目的で、本気で処罰するつもりもない、左遷程度のものだった。そして事件の曖昧なところは、満仲の祖先が宮廷での立場を失った承和の変に似ている。

この安和の変の密告をしたのが、前武蔵介藤原善時と、源満仲だった。


満仲は中務小輔橘繁延と左兵衛大尉源連の謀反を密告した。

朝廷はこの密告を重んじて、諸門を閉じて会議を行った。

早速検非違使が動き、橘繁延と僧連茂が捕らえられた。

まるで宮廷を、得体の知れない妖怪が徘徊しているかのようだった。

容疑者の名前が挙がるのに、証拠も確たる根拠もない。

あるのは妬みなどのどす黒い感情で、それが「誰某が謀反に加担した」という形になっていき、その度に人が捕らえられる。

安和の変が周到だったのは、満仲の弟の満季が検非違使だったことである。

嫌疑は藤原千晴にも及び、満季は藤原千晴を逮捕した。

こうして、武家源氏を目指す満仲のライバルが消えた。


『今昔物語』にこんな話がある。

源高明が桃園の邸宅に居た時、寝殿の柱の節穴から毎夜、小児の手が出てしきりに差し招く怪異が起きた。柱に経典や仏画をかけても怪異は収まらず、征矢を刺して穴を塞ぐと怪異はようやく止んだが、やがて左遷の禍が起きたという。


事件は左大臣源高明が謀反に加担していたのではないかという方向に向いていった。

朝廷は、太宰員外権帥という役を高明に与え、九州に追いやった。菅原道真と同じ措置で、左大臣が謀反に加担したにしては随分軽い処分である。しかし当時の貴族は、こんな処分でも人生が終わったと深く落胆したのだった。

空席となった左大臣には右大臣の藤原師尹が就任、右大臣には藤原在衡が就任した。

大臣職を藤原氏が占めた訳だが、在衡は実頼や師尹と系統が違い、藤原北家魚名流なので、おこぼれに預かったという印象が強い。事実在衡は高齢で、安和の変にも関与していなかったらしく、主人が出世すると喜んだ家人を、在衡は怒って追放したという。

橘繁延は土佐国に、僧連茂は佐渡国に、藤原千晴は隠岐国に流罪となった。

冷泉天皇の同母弟の為平親王は、罰せられはしなかったものの皇太弟になる道は閉ざされた。

2年後の天禄2年(971年)、源高明は罪を許されて帰京した。冤罪だったのは明らかである。高明の子もその後、政界で順調に昇進した。しかし高明は官途に就くことはなく、葛野に隠棲した。天元5年(982年)に薨去。

そして満仲は、正五位下に昇進した。


この後も満仲は順調に諸国の受領を歴任した。

天延元年(973年)、左京一条の旧源俊邸は、すっかり満仲の屋敷になっていた。

その屋敷が、武装集団に襲撃された。

襲撃されただけでなく、放火された。火は延焼し、300軒から500軒、焼けたという。

満仲は当然、この武装集団と戦った。

「なんの!屋敷を焼かれてこその、もののふにおじゃる!」

と、満仲は焼けた屋敷跡に立ち、顔を煤で汚しながら高笑いした。

「この歳になって、焼け出されるとは思わなんだ」

と言って、焼跡で怜子は泣いていた。

「奥よ、泣くな。屋敷を立て直すまで多田で暮せば良い。良いところじゃぞ」

そう言って、満仲は怜子を慰めた。

そんな満仲に、京童達の同情が集まった。また焼死した者も数多くおり、その恨みもあり襲撃犯への怒りが募った。

京童達は、この襲撃事件の背景について噂しあった。安和の変で左遷された者達の縁者は当然、襲撃犯だと疑われた。

満仲の弟の満季が何人か下手人を捕らえたが、黒幕はわからなかった。

(ちと燃えすぎたかな)

黒幕をいえば、満仲本人だった。

満仲は自分の屋敷を襲撃させることで、安和の変で左遷された者達の恨みを晴らした。同時に京童の怒りを買い、満仲の政敵は満仲に簡単に手出しできなくなった。

また、藤原氏にも手出ししにくくなった。

満仲は、左馬権頭、治部大輔を経て鎮守府将軍にまでなり、官歴の最後を飾った。


(ここからじゃ、清和源氏の乗っ取りは)

満仲は思った。

また淳和源氏を清和源氏にする後押しもあった。

源高明が『西宮記』という儀式書を著している。その中には、

「王卿の中、弘仁の御後に触るる人を以て長者と為す」とある。

つまり弘仁年間に在位した嵯峨天皇の子孫でなければ源氏長者にはなれなかった。ならば嵯峨天皇の弟の淳和天皇の子孫に源氏がいるのは困ることになる。

源高明の後、源氏長者は源兼明が就任していたが、兼明も口は出さねど、淳和源氏を清和源氏にするように便宜を計らっていた。

まず満仲は、清和天皇の第九皇子の貞真親王の孫の源孝道を養子にした。

(経基流ではないが、清和源氏じゃ)

長子の頼光は、満仲の構想を良く理解しており、また武勇にも優れていた。

この後も、満仲は藤原氏に仕え、藤原氏の政争に暗躍した。

花山天皇の出家事件というのがある。

花山天皇は寵愛した女御が妊娠中に死んだのを儚み、藤原兼家の三男道兼が「共に出家する」と唆し、内裏から元慶寺に密かに連れ出した。

ところが天皇が落飾したのを見届けた道兼は、「父に事情を説明してくる」と言って寺を抜け出し、そのまま出家せずに逃げた。

兼家は外孫の懐仁親王を一条天皇として即位させ、摂政となった。

この時邪魔が入らぬように鴨川の堤から警護したのが、満仲とその郎党である。時に寛和2年(986年)、満仲75歳。

この事件について、『大鏡』では「なにがしといういみじき源氏の武者達」と警護の者共を記し、満仲の名前を書いていない。武家源氏を「清和天皇の末」と書いている『大鏡』がである。


さすがに、満仲は人生が虚しくなった。

(この歳になって、もう人を陥れることも、人を殺すこともできぬわい)

永延元年(987年)、満仲は郎党16人と女房30余人と共に出家し満慶と号した。さすがに今までの人生に思うところがあったのだろう。

以後、満仲は多田新発意(しんぼち)と呼ばれるようになる。

屋敷は多田院という寺にした。現在は多田神社として、満仲を祀っている。

満仲は自分の幼い子供達を、長子の頼光の養子にした。実質頼光が後見人になるということである。

ところが、頼光が養子にした頼明、頼貞は、実は経基の孫だった。満仲は自分の子を頼光の養子にすると共に、清和源氏の子孫も頼光の養子にさせたのである。


三男の頼信は、満仲が歳を取ってからの子だが、この時には立派な若武者になっていた。

「それでな、頼信」

と、暮夜、僧になった満仲と頼信が語り合った。

それからまもなく、頼信は河内誉田八幡宮に参詣した。

そして頼信は八幡宮に告文を奉った。

その写本が、石清水八幡宮田中家文書の中にある。

「大菩薩の聖体は忝なくも某が二十二世の氏祖なり」

と、頼信は書く。「先人は新発、其先は経基、其先は元平親王、其先は陽成天皇、其先は清和天皇」

と書いたが、告文の裏には「校正した」と書いてある。

実に抜け抜けとしている。

清和源氏乗っ取りの前に、脛に傷のある陽成源氏を騙ったのである。


満仲には逸話がある。

満仲が出家して戒を授かる時、殺生戒のところになると眠ってしまう、それで戒を授け直すが、やはり殺生戒のところになると何度も眠ってしまうというものである。

またこんな話がある。

満仲の末子の美女丸は、寺に入れたが修行に身が入らないというので、満仲は家来の中光に、美女丸の首を切れと命じた。

中光は悩んだが、中光の子の幸寿丸が自分の首を身代わりに差し出すように言った。中光は幸寿丸の首を討ち、満仲に差し出した。さすがに満仲は、息子のと思う首を改めなかった。

しかし数年後に、延暦寺の高僧の源賢が美女丸であり、差し出された首が幸寿丸の首だったと知って、満仲は世を儚み出家した。多田院の開基は源賢だ、という話である。


ある時、大江山に盗賊がいるという話を聞き、

「大江山とは、かつて彦坐王が土蜘蛛玖賀耳御笠を討った地である」と言い、頼光に願文を書かせた。

その願文は天橋立の側にある成相寺にある。

内容は、「源氏朝臣の摂津の守」が夷賊討伐の勅命を受けたのでそれを祈願するものだったが、願文に自分の名前を入れないのはおかしい。恐らく勅命自体が嘘なのだろう。しかしこの願文が、後に頼光の酒呑童子退治の話になっていく。

また頼光は後世、坂上田村麻呂、藤原利仁、藤原保昌と共に中世の伝説的な武将とされた。

また渡辺綱は坂田公時、碓井貞光、卜部季武と共に頼光四天王と呼ばれた。


晩年、満仲は息子達に、

「女子の元に通うのを止め、嫁入りにせよ」

と言った。

満仲いわく、藤原氏の栄華は最高潮に達しようとしている。

藤原氏に勝つ権門は現れることなく、身分は固定されていく。だからより身分が高く、資産のある家の娘の元へ通う必要はなくなる。だから坂東の風習に習い、嫁を貰うようにせよと。

頼信は後に、平忠常の乱を平定して坂東に根を降ろした。

頼信は、藤原氏最盛期の藤原道長に仕え、藤原保昌、平維衡、平致頼と共に道長四天王と呼ばれた。

そして頼信の子の頼義は、平直方の娘を貰い、平氏の地盤だった関東を源氏のそれに変えていく。

そして前九年の役、後三年の役で、頼信の河内源氏は大いに名を挙げることになる。


長徳3年(997)年、満仲卒去。

こうして、『大鏡』が書かれた白河院政期には、満仲の源氏は清和源氏とみなされるようになった。

満仲は後世、「ただのまんじゅうぶしのはじめ」と言われるようになった。

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