檀林皇后③

伊予親王は自分から、藤原宗成に謀反を勧められたことを天皇に報告したのであり、そういう伊予親王が実際に謀反を起こそうとし、しかも首謀者だということはありえない。

しかし、宗成の主張は取り上げられた。報告を聞いた平城天皇は激怒した。そして伊予親王とその母の藤原吉子は川原寺に幽閉した。

伊予親王の吉子は無実を主張したが聞き入れられることなく、大同2年11月12日、二人は毒を飲んで自害した。

この件で、藤原雄友は連座して伊予国に流罪になり、さらに雄友と同じ藤原南家の中納言、藤原乙叡(ふじわらのたかとし)が解任された。こうして藤原南家の勢力が後退した。


この伊予親王の変で、宗成に謀反を起こすように唆したのが、藤原仲成と薬子の兄妹だというのである。つまり仲成と薬子は、伊予親王の変の黒幕で、その上薬子の変の首謀者だというのである。

そして3年後の大同5年(810年)に薬子の変が起こる。


問題の薬子の変だが、最近では薬子と仲成は変の主役ではなく、あくまで平城天皇と嵯峨天皇の実権争いが変の基本要因で、薬子と仲成は変を助長した役割しかないというのが研究者の見方らしい。

しかし仲成と薬子が、平城天皇を頼って権利を得ようとしていたのは確かなことから、ここで薬子のことから述べるのもいいだろう。

仲成と薬子は、元造長岡宮使の藤原種継の子で、藤原式家である。

薬子は、元は藤原縄主(ふじわらのただぬし)の妻で、最初に平城天皇が縄主の娘が欲しいと言ったのだったが、娘がまだ幼いので、薬子も一緒についていった。しかしじきに平城天皇と薬子は不倫の関係になった。

まだ平城天皇が皇太子の時のことで、怒った桓武天皇は、薬子を東宮御所から追い出した。しかし桓武天皇が崩御し、平城天皇が践祚すると、天皇は薬子を御所に呼び戻した。

しかし平城天皇は病弱なため、3年で皇位を嵯峨天皇に譲った。

従来の見方は、平城天皇は病弱で、政務も続けられないため嵯峨天皇に譲位した。故に権力欲もなかったというものである。それに対し最近の解釈は平城天皇は政務も取れないほど病弱であったが、権力欲はあったというものである。

実際、平城天皇には政治への意欲はあった。地方行政の刷新のため、桓武天皇が定めた勘解由使をさらに発展させて、観察使とした。

観察使には強大な権力が与えられ、東山道を除く六道に観察使が置かれた。

『日本後紀』には、各観察使が民衆の負担を軽減するため、様々な措置を執っていたことが記録されている。

しかし、平城天皇によって任命された観察使は、嵯峨天皇に反目する勢力を形成していった。

嵯峨天皇は観察使の処遇を格下げした。

このような場合、律令は天皇と上皇のどちらにも同じ権力があるとするのである。

それでは、天皇と上皇の命令が矛盾した時にどうするのかという問題がある。それはひいては、天皇と上皇のどちらの命令が優先するのかという問題に行き着く。

上皇の権力は強力で、かつて孝謙上皇が淳仁天皇を廃帝にした例もあった。しかしこの場合、勢力が強い方の命令が優先したのであり、法的には天皇と上皇の命令の優劣は決まっていなかった。

そして当時の傾向としては、天皇と上皇の命令に矛盾が生じた場合、どちらか一方が譲歩して矛盾がないように解決し、天皇と上皇のどちらが優越するかを突き詰めなかった。

観察使の問題については、平城上皇が嵯峨天皇に譲歩した。

平城上皇は、観察使を廃止する詔を発したのである。


平城天皇は、譲位後平城京に戻っていた。平城上皇は、皇太子時代から、平安京を作った桓武天皇とうまくいかなかったためか、平城京を愛していた。

今度は、平城上皇が自らの力を嵯峨天皇に示す番だった。


平城上皇は薬子を内侍に任命していた。

内侍は、天皇の秘書的な役割を務める女官である。

平城上皇が薬子を内侍にしていたのは、重要な意味があった。

天皇が太政官に命令する内侍宣を、嵯峨天皇が発行できない事態になったのである。

この問題に対処するため、嵯峨天皇は蔵人所を設置した。いわゆる律令制度に対する令外の官で、内侍が女官の秘書なのに対し、蔵人は男性によって運営される天皇の家政機関である。

つまり国政を運営するのでなくプライベートなものだというのが嵯峨天皇の言い分だが、ここに嵯峨天皇の政治的特徴を見出すことができる。つまり嵯峨天皇は、改革よりも自分の権力の維持を優先するのである。

もちろんこれは、治世の最初を平城上皇との2頭体制で迎えた点も考慮して判断しなければならないことである。

嵯峨天皇はその生涯を見ると、律令制を重視した改革を志向しているが、桓武天皇の勘解由使から発展した観察使を廃止したように、権力維持のために改革を後退させてしまうことがよくある。

加えて内侍という伝達手段の他に、蔵人による綸旨という伝達手段を作ってしまったのは、太政官を中心とした律令国家に体制を戻すことができず、律令国家を破壊する方向に、長い目で見れば舵を切ってしまったと見るべきだろう。

平城上皇から嵯峨天皇への圧迫は続き、大同5年正月、嵯峨天皇は病に倒れ、正月の朝賀が中止になった。平城上皇は、嵯峨天皇に神璽を返すように伝えたと言われる。


大同5年9月、平城上皇は「平安京を廃して平城京に遷都する」と詔勅を発した。

この勅は、貴族がどれだけ従うかを図る試金石だった。

嵯峨天皇は、ひとまずこの詔勅に従い、自分が信任している坂上田村麻呂、藤原冬嗣、紀田上を造営使に任命した。

ここが、嵯峨天皇が力量を発揮したところだった。

平安京に遷都して16年、また平城京に戻る意志は貴族達にはなかった。

坂上田村麻呂と藤原冬嗣は嵯峨天皇に従って遷都のサボタージュをしたが、紀田上は平城上皇に従った。

このように見ると、律令国家への回帰が薬子の変を動かしていたと感じられる。

嵯峨天皇は帝王らしく、長く権力を維持し、また律令制の維持強化にも努めていたが、嵯峨天皇は結局のところ、律令制の破壊に大きく舵を切ったのだった。


嵯峨天皇は民心が遷都に反対であることを見て取り、遷都を拒否する決断をした。

嵯峨天皇は藤原仲成を捕らえ、佐渡権守に左遷した。

罪状は「薬子を教正しなかったこと」、そして「虚詐のことで先帝の親王と夫人(伊予親王とその母の藤原吉子)を凌侮した」の2点であった。

ここで伊予親王の変と仲成が絡むのだが、仲成が伊予親王の変に絡んでいたことを完璧に隠蔽して、平城上皇の元で働き、事に敗れて伊予親王の件が露見するというのは考えられることではない。

やはり平城天皇か嵯峨天皇のどちらか、あるいは両方が黒幕で、藤原内麻呂か冬嗣が欲深くて考えの浅い藤原宗成を唆したと考えるのが妥当だと思う。

仲成は任地に赴くことなく、紀清成と住吉豊継によって射殺された。

以後、保元の乱まで346年間、死刑は行われなかった。

しかしこの死刑も、律令の規定にある斬・絞ではない。嵯峨天皇による「私刑」の匂いが強い。そもそも判決が死刑でないのに殺されている。

仲成は、薬子の変には関与していただろう。つまり平城上皇が政治の実権を握るという点での関与において。

しかしこの問題に切り込むことは、上皇が天皇と同等の権力を持つべきか同等いう問題に繋がった。平城上皇の罪は不問に処されなければならず、そのためにもこの事件は「薬子の変」でなければならなかった。

要するに、仲成は平城上皇の罪を糾弾できないために、伊予親王の変の罪を押し付けられたのである。しかも律令通りに裁かれていない。

薬子は官位を剥奪された。

平城上皇は東国へ落ち延びて挙兵しようとし、薬子を連れて逃げようとしたが、大和国添上郡田村まで来たところで、坂上田村麻呂の兵が待ち構えていた。

平城上皇は勝ち目がないと思って平城京に戻り、剃髪して出家した。薬子は毒を仰いで自殺した。

嵯峨天皇の皇太子としては、平城上皇の皇子の高岳親王が立太子していたが、薬子の変により、高岳親王は廃太子となった。代わって嵯峨天皇の弟の大伴親王(後の淳和天皇)が皇太弟となった。

大伴親王の立太子により、古代よりの名族大伴氏は、その諱を忌避して「伴氏」に改姓した。

廃太子となった高岳親王は、出家して空海の弟子になり真如と名乗った。

やがて入唐を志し、貞観3年(861年)に唐の国に入ったが、当時唐は武宗の会昌の廃仏により、仏教は衰微していた。

高岳親王こと真如入道親王は、天竺に渡り仏教を学びたいと思った。

当時の皇族としては相当の好奇心である。もっとも真言宗では真言としてサンスクリット語を学んでいるので、天竺は全く言葉のわからない地ではない。

貞観7年に唐より天竺に渡ったが、その後消息不明になった。元慶元年(881年)に、唐からの留学生の帰還で、真如入道親王は羅越国(マレー半島の南端にあったと推測される国)で薨去したという。


こうして、薬子の変は嵯峨天皇が、律令制の維持促進を心がけながらも、自らの権力維持に動いた結果、律令制を後退させるという、天皇よりも藤原摂関政治の政治家や、後世の日本の政治家によくある型の政治家の片鱗を見せて終息した。

嘉智子は、嵯峨天皇を夫として愛することはなかっただろう。しかし嵯峨天皇の政治家としての手法には注目したに違いない。

そして嵯峨天皇からは、嘉智子は冬嗣よりも多くを学んだかもしれない。自らの美貌に自信を持つようになった嘉智子は、嵯峨天皇を尊敬することはなかったろうが、夫を知ることはできただろう。

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