後白河法皇⑧
(信西よ、仇を討ってやったぞ)
後白河上皇は思ったが、心は鬱々と楽しまない。
信西と信頼が共倒れになったことで、粒よりの人材がいなくなっており、その穴はなかなか埋まらない。
後白河上皇は、信西の仇を討つことで信西の王土思想による政策の実行の可能性を残そうとしていたが、政策を実行する人材を欠いていた。
(それにつけても清盛の要領の良さよ)
平清盛は、その政権を築くまでは実に無理せずにいる。
清盛は待っていれば良かった。
後白河上皇派、二条天皇派も、人材を大幅に欠いており、もはや源氏もおらず、平家は京で最大の軍事勢力として、隠然たる存在感を示していた。
(これは帝と争ってはおれぬ)
二条天皇と不和になれば、そこに平家がつけ入る隙が生じ、平家の勢力が拡大していくことになるだろう。
こうして、
「院、内(内裏)、申シ合ツツ同ジ御心ニテ」と『愚管抄』に記されるような、後白河派と二条天皇派の融和、もしくは対立の小康状態となった。
国政の案件は後白河上皇と二条天皇に奏上され、関白藤原忠通が諮問に答える形で運営された。
(ひとまずは、平家が急速に力をつけることはないだろう)
後白河上皇は思ったが、油断はならない。
何しろ、清盛の継室時子は二条天皇の乳母である。また時子の妹滋子は後白河上皇の寵妃だった。
清盛は後白河上皇にも二条天皇にも太いパイプを持っている。このパイプを使って、平家はこれからも少しずつ力をつけてくるだろう。
現状、特にすることがない。
することがないと、神頼みをするようになってくる。
後白河上皇は、平治の乱により、居館であった三条殿を焼亡させている。
新たな居館が必要なのだが、後白河上皇はその場所を法住寺に決めた。
法住寺は後白河上皇が建立した寺ではない。
平安中期、藤原為光が建立した寺である。藤原為光は藤原道長の叔父になるのでずいぶん昔になる。
藤原為光は妻と、花山天皇の女御になった娘藤原忯子をほぼ同時期に亡くしており、法住寺は妻と娘の菩提を弔うために建てられた。
しかしこの法住寺も、長元5年(1032年)の 火事により焼失していた。
後白河上皇がこの地に法住寺を再建しようと思った頃は、信西の屋敷や藤原清隆、後白河上皇の乳母で従二位の位を贈られた紀伊二位の屋敷などがあった(もっとも信西の屋敷は平治の乱で焼失していた)。
後白河上皇は、この法住寺を院御所にしようとしたが、出家して寺に住もうとしたのではない。法住寺を中心に院御所を建てようと思ったのである。
時に永歴元年(1160年)。
後白河上皇は藤原家明に造営を命じ、平治の乱で処刑された藤原信頼の屋敷を移築することにした。
こうしてできた法住寺殿は、10町の土地を囲い込んだ壮麗なものとなった。
10月16日、後白河上皇は、法住寺殿の鎮守に日枝社と熊野社を勧請した。
勧請して早速の17日、後白河上皇は新熊野社に参詣し、23日に熊野詣に向けて出立した。
この熊野詣には、清盛も供奉している。
この後後白河上皇は34回、熊野詣をすることになる。
「まさに仏国土が顕現した如くにござりまする」
と、清盛は熊野本宮大社の社殿を見て追従を述べた。
(言うわ、そなたも熊野詣ではしたことがあるだろうに)
後白河上皇は取り合わなかったが、内心は清盛と語り合いたくて仕方がない。
(ーーこの不安はなんじゃ)
後白河上皇は思った。このまま政治を行うことが不安でたまらない。
(清盛、そなたは不安ではないのか?)
後白河上皇は、傍らにかしずく清盛を見て思ったが、口には出さない。
聞くところによると、清盛は近年厳島神社を篤く崇敬し、厳島神社をを平家の氏神にしているという。
(年来清盛は宋との貿易に力を入れておるからな、航海の安全を守る神として厳島の神はふさわしかろう)
厳島神社の祭神の宗像三女神の総本社は宗像大社であり、宗像大社の辺津宮から筑前大島の中津宮、沖ノ島の沖津宮を直接で結んだその先には朝鮮半島がある。宗像大社は朝鮮半島への航海の指針であった。そのことから宗像三女神は航海安全の神とされていた。
熊野参詣から帰ってみると、美福門院が崩御されていた。11月23日のことだった。
(お、美福門院が崩御されたか)
これで、対立する二条天皇にとっては痛手となる。
また父の鳥羽法皇の寵妃として、長年に渡り崇徳上皇や後白河上皇ら待賢門院系の天皇、上皇に隠然たる影響力を奮ってきた美福門院からの解放は、後白河上皇の心を浮き立たせた。
後白河上皇にとって、もうひとつ嬉しいことがあった。平滋子の懐妊である。
(これだけ良きことが続いて、なぜ不安は止まぬ?)
後白河上皇はわからなかった。
永歴2年(1061年)、後白河上皇は完成した法住寺殿に移った。
9月3日、平滋子は後白河上皇の第7皇子憲仁親王(後の高倉天皇)を生んだ。
(今の帝は言うことを聞いてくれぬ。七ノ宮(憲仁親王)を帝にするのも良いかもしれぬ)
などと思っていると、早速後白河派の近臣達がまだ赤子の憲仁親王の立太子を画策した。
しかも、企みは漏れた。
9月15日のことで、憲仁親王が誕生して12日しか経っていない。
後白河派の平時忠(清盛の妻時子と後白河上皇の寵妃滋子の兄)、清盛の弟の教盛、清盛の次男の基盛、藤原成親、藤原信隆らが一斉に解官させられた。
(しまった!)
後白河上皇の少なくなっていた近臣はさらに減らされ、後白河上皇は事実上院政を停止させられてしまった。
(帝はずっとこの時を待っておったのか。それにしても父に対して、なんという帝のなさりようよ)
なぜ自分が院政を停止させられてしまったのか、よく考えてみた。
後白河上皇は芸能に堪能な側近は多いが、伝統的貴族や実務官僚とのつながりは希薄だった。
後白河上皇は二条天皇の父であり、直系尊属として院政を行う資格はあった。
しかし後白河上皇が即位できたのは二条天皇への中継ぎとしてであり、二条天皇がいたから天皇になれたという側面があって、二条天皇に対し治天の君として振る舞えるかは疑問があった。
加えて、女性関係である。
後白河上皇は今は平滋子に首ったけになっているが、二条天皇は近衛天皇の皇后であった藤原多子を入内させていた。皇后でありながら別の天皇に再嫁したのは、史上藤原多子だけである。
藤原多子は、近衛天皇の皇后であっただけに、美福門院につながる女性ではあった。
美福門院亡き今、多子にそれほどの力はないと思ったが、二条天皇は多子との婚姻で鳥羽、近衛の系統の後継者であることをアピールしていた。
(それにしても清盛は、義兄(時忠のこと)が咎を受けているというのに少しも七ノ宮の立太子に関与しておらんのか。冷たい奴だな)
元号変わって応保元年12月17日(1162年1月4日)、関白忠通の娘藤原育子が入内した。
多子はかつての悪左府頼長の養女だから、関白忠通の娘を入内させることで釣り合いが取れたと言える。
清盛はこの日、内裏を警護して二条派であることを鮮明にした。
(清盛の世渡り上手め!)
院政を停止された後白河上皇は、一心不乱に神仏にすがった。
最も崇敬したのは熊野社で、熊野本宮大社の第一殿の熊野牟須美大神、事解之男神(ことさかのおのかみ)は本地垂迹説により、本地仏(日本の神の本当の姿である仏)は千手観音とされていた。
応保2年(1162年)の正月には、やはり熊野に参詣し、千手観音経千巻を読むという修行を行った。
その時、ご神体の鏡が光った。
「おおっ!」
後白河上皇は瑞祥を得たと大いに喜び、
「万の仏の願よりも 千手の誓いぞ頼もしき 枯れたる草もたちまちに 花咲き実なると説ひたまふ(多くの仏の願いよりも、千手観音の誓願は頼りに思われる。一度千手におすがりすれば、枯れた草木さえも蘇って花咲き実が熟れるとお説きになられている)」と今様を歌った。
2月19日、育子は中宮に冊立された(中宮は皇后のことで、平安時代の天皇は、皇后と中宮の二人の皇后を持つことができた。もっとも多子は既に太皇太后の位を得ていたため、再入内しても皇后に戻すことができず、太皇太后のままだった)。
神仏にすがっているうちに、後白河上皇は自分の心が見えてきた。
(余は今まで主導権を完全に握れたことはないが、主導権を完全に失ったこともなかった)
そのことが不満のひとつであるのは間違いない。
(しかしだから何だとも思う。まつりごとの主導権を握ったからといって何になる?いずれこの国のまつりごとは武士が、まずは清盛が握るであろう。それは愉快ではないが、しかしだからといって何をする?栄耀栄華を極めるだけか?余がそれをしてもいずれは誰かに権力を奪われる。余は親王であった頃はそんな権力は遠くで眺めるだけで、余は今様を歌っていればそれで満足であった。しかし今権力を失ってみると、手足を奪われたような思いじゃ。取り返したくて仕方がない。それにしても清盛という男ーー)
後白河上皇は清盛を警戒しているが、人間としては決して嫌いではない。
むしろ清盛という人物に、激しく惹かれるものがあった。
(余が滋子を寵愛するのもそのためか?滋子を通して、余は自らを清盛に重ねておるのであろうか。そうじゃ、清盛を見ているとある人物を思い出すのじゃ。白河法皇を。余は白河法皇になりたいのじゃ)
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