檀林皇后④
一体嵯峨天皇という人は何者なんだろう、と思う。
よほど考えが深いのか、それともそんなに深く考えていないのか、見ていて時々わからなくなる。
薬子の変で平城上皇の権力を事実上剥奪して、嵯峨天皇が重用したのは藤原園人という人物である。
園人は平城天皇の元で、貧民救済と権門の抑制に成果を挙げていた有能な官僚だった。
平安初期、まだ土地は公地公民制だった。しかし国が百姓に口分田を与えて耕作させる方式は、農民の勤労意欲を喚起しなかった。
そこで奈良時代の養老7年(723年)、新たに開墾した土地は3代まで個人の所有とし、3代の後に公地として収公するという三世一身の法が制定された。
しかしその後天然痘が大流行し、国民の三分の一が死ぬという事態が起こり、耕作されない農地が増えた。
そこで朝廷は、農民の労働意欲を一層引き出す必要に迫られ、天平15年(743年)、墾田永年私財法が制定された。墾田永年私財法により、開墾した農地は永久に個人の所有となった。
しかし墾田永年私財法には土地所有の面積規制があったのだが、有力貴族や寺社の墾田が規制を超えて増えていた。そのため小作人に落ちる農民が増え、律令制度では均質な農民だったものが、貧富の差の増大と新たな身分制社会を形成しつつあった。
園人の提言により実現した政策としては、以下のものがある。
「山海から得られる収穫は公私で共有すべきものであるが、権勢家が占有して百姓の利用を占め出している。しかし愚かな役人はこの状況を許し、敢えて諫止していないため、百姓は甚だしく衰亡している。従って、慶雲3年(706年)の詔に従って、権勢家の占有を一切禁止すべきである」
「播磨国では封戸(貴族の俸禄)が多数設置され、封戸租の運搬で百姓が疲弊している。加えて、平安京に近いことから頻繁に雑用を課せられるため、費用に充当するための動用穀が不足し、長年蓄えていた不動穀も消費して、わずか9万斛(石)しか残っていない。従って、春宮坊と諸寺の封戸を東国へ移すべきである」
民衆の味方の、正義派の政治家というべきだろう。
平城天皇の元での、園人の官職は参議、または観察使だった。
嵯峨天皇は、薬子の変の前年の大同4年(809年)に、園人を中納言、翌大同5年には大納言に、そして弘仁3年(812年)には、園人を右大臣に任命する。
一方嵯峨天皇は、政務を主に園人に任せ、自らは宴を開いて、詩歌に興じた。
これもまた、日本によくある政治家の型である。
日本のトップリーダーというのは、一見何をしているかわからない者が多い。
トップは、園人のような真面目に働く部下とは、距離を置いているように見える。
一方、園人とような真面目な者を煙たがる者がいて、トップはそういう者達とうまくやっている。しかし裏では、真面目な部下達を応援している。
時に反対派の意見が強く、真面目な者達にブレーキをかけることがあるが、しばらくするとまた真面目な者達を使っている。
しかしこの手の政治家はパワーバランスを重視していて、そのパワーバランスによっては、思い切り反動に手を貸すのもこの手の政治家である。
嵯峨天皇は、嘉智子に気に入られたかったのだろう。
嵯峨天皇という人は、女性への欲望が人一倍強かったが、嘉智子には本気で惚れていたようである。
だから嵯峨天皇は、嘉智子に誠実であろうとしたのだろう。しかしその誠実というのは、対象となる女性に対する時だけで、その女性の側を離れた途端に色褪せる、そういう性格だったのだろう。
嘉智子は、恐らく嫉妬心を見せなかったのだろう。
というのも、謀反人の橘奈良麻呂の孫である嘉智子には、嫉妬心を見せるということが相手に馴れ合っているということであり、嘉智子にできることではなかった。
もっとも後年の嘉智子の人生を見る限り、気は強かったのだろう。その性格が嵯峨天皇を男として愛さず、利用価値のある存在とみなすようになったのではないだろうか。
そういう態度は、男にミステリアスな魅力を感じさせることがある。
弘仁5年(814年)、嵯峨天皇は皇子皇女のうち8人に源の姓を与えて臣籍降下させたのである。嵯峨源氏の始まりであり、源氏の始まりだった。
天皇の皇子皇女が臣籍降下する例は、これまでになかった。
元々、嵯峨天皇の后妃子女の多さが朝廷の財政を圧迫しており、皇族の数を減らす必要があった。
もっとも嵯峨天皇もまだ30歳であり、臣籍降下した中で一番年齢の高い源信は6歳にすぎない。臣籍降下して自立を促すにはまだ早かっただろう。
「皇子皇女を臣籍降下させれば、嘉智子が喜ぶだろう」
と嵯峨天皇に吹聴したのは、恐らく藤原冬嗣だろう。
それで嵯峨天皇はその気になった。
姓を賜った8人の皇子皇女達は、左京一条一坊の屋敷に移り住んだ。この子女達の母達も、共に移り住んだだろう。
源信は、この8人の兄弟姉妹の「戸主」になった。世にいう源氏長者の始まりである。
源信はこの後左大臣にまで昇進するが、応天門の変で、大納言伴善男に応天門放火の嫌疑をかけられ、冬嗣の子の良房に救われることになる。
嵯峨天皇と嘉智子に話を戻そう。
嘉智子は喜んだ、というより憂さ晴らしにはなっただろう。
そして、これが天皇が自分だけを愛してくれる、と思っただろうか?
思ったかもしれない。男を愛すまいなど心に決めても、このようなことがあれば、また男に期待してしまうのも仕方のない女性の性である。
もっとも嵯峨天皇は、これで嘉智子に操を立てるような男ではない。
これで嘉智子を喜ばせたと思って、次の瞬間には、新たな女性への期待に胸を膨らませたのだろう。
嘉智子は失望しただろう。そしてまた、天皇を愛すまいと心に決めただろう。
翌弘仁6年(815年)7月13日、嘉智子は皇后になった。これも冬嗣の工作によるところが大きかっただろう。
当然、嘉智子は喜んだだろう。
それにしても思うのは、嵯峨天皇の女性に対する脆さである。
こういう男は世に多いといえばそれまでだが、改革派と反動派の両方に軸足を取る嵯峨天皇の政治を脇に置いても、嵯峨天皇は嘉智子に、政治に口を出さないようにすることもできたはずである。
それをしなかったばかりに、嵯峨天皇は後の藤原摂関政治の道を開いてしまうのである。嵯峨天皇には、物事を成し遂げるには致命的な詰めの甘さがあったと見るべきだろう。
大同4年、空海は和気氏の私寺である高尾山寺に入った。高尾山寺は後年、同じ和気氏の氏寺であった神願寺と合わせて神護寺となる。最近では足利直義像ではないかと言われる、伝源頼朝像のある神護寺である。
空海の宗教上のライバルである最澄は、空海より先に帰国していて、空海が高尾山寺に居住するのに便宜を計らってくれた。
最澄という人は、空海に比べて底抜けに邪気がない。
また最澄は素直な人で、密教に限っては、最澄自らが空海に対し弟子の礼を取った。
大同5年、薬子の変において、空海は国家鎮護の祈祷を行い、嵯峨天皇に味方する立場を取った。
弘仁2年から翌年のかけて、空海は山城国の乙訓寺の別当を務めた。
空海の真言密教への人気は次第に高まり、次第に最澄の人気を上回るようになった。
桓武天皇に見出され、天台宗を確立するために入唐求法した最澄は、南都六宗の反感を買っていた。
南都六宗の僧達は、ことごとに最澄に論争を挑んだ。最澄は短い留学期間で、数多くの経典を持って帰ったが、最澄はその経典を充分に消化していなかった。
南都六宗の僧達は、最澄攻撃の鍵は密教にあると見た。人心操作に長けた空海は、そんな南都六宗の僧の心を摑んでいった。
最澄は消耗していった。
弘仁4年(813年)、最澄は空海に、『理趣経』の借覧を願い出たが、空海は「密教の真髄は口伝による実践修行にあり、文章修行は二の次である」という理由で拒否した。最澄と空海の縁は切れた。
弘仁7年(816年)には、空海は修行のための道場の地として高野山を賜った。
薬子の変の後、藤原冬嗣は弘仁2(8年に参議となり、弘仁3年に父の藤原内麻呂が薨去すると正四位下、弘仁5年には従三位に登った。
弘仁7年(816年)に冬嗣は権中納言、弘仁8年には中納言になった。
冬嗣の目標は、藤原園人だった。
園人は氏長者であり、藤原一門を統括する立場にあった。そして律令制度強化を志向する園人に対し、冬嗣は権門が勢力を拡大できるように、規制を緩和する方向を志向していた。
園人は冬嗣と嘉智子の連携には敵し難いと見て、政策提言をほとんどやめてしまう。そして園人は、弘仁9年(818年)に薨去した。
当時の人々同様、嘉智子はもまた、空海の密教現世利益の肯定に興味を持っただろう。そして冬嗣と共に現世利益に邁進し、律令制度破壊への道を作っていくことになる。
弘仁8年(817年)より7年もの間、旱魃などにより、農業生産が極度に不振し、朝廷は墾田永年私財法と土地所有の規制を大幅に緩和した。
こうしてまた、権門の勢力が増し、その分朝廷の力が衰えることになった。