清和源氏の興亡⑤

この後の、厨川柵攻めのエピソードは、ほとんど皇国史観である。
康平5年(1062年)9月17日、頼義は柵の火攻めを決意した。
近隣の村々から木材や藁を集めると、頼義は南西に向けて拝礼した。
南西は都のある方向である。
「かつて漢の将軍の忠節に呼応して、枯池に水が溢れて軍の窮状を助けたと言います」
と、頼義は言葉を発した。
頼義は言葉を続ける。「今、我が国においても天皇のご威光は新たかです。このご威光により大風が起こり、我が忠節をお助けくださいませ。八幡の神々よ、何とぞ風を起こして厨川柵を焼いてください」
要するに神頼みだが、現人神とはいえ天皇に奇跡を起こすように祈るというのは他に例がない。
火がつけられた。すると案の定大風が起こり、厨川柵を焦がした。
柵内は大混乱に陥った。
官軍は混乱に乗じ、柵内に入った。
安倍軍は、ある者は官軍に殺され、ある者は捕縛された。
その様子を見ていた頼義に、
「藤原経清を捕らえてござりまする」
と注進が入った。
「おお、でかした」
頼義は喜んだ。経清には以前、陸奥国内で赤符(国からの公的な札)による徴税を行ったところ応じる者少なく、経清が白符(私的な札)で徴税したところ多くの者が納税したので、頼義の面目が大いに潰されたことがある。頼義の憎悪は、積もりに積もっていた。
経清が頼義の面目を潰した話は以前も述べたが、なぜ安倍氏でなく経清なのかという点は、その時はわからなかった。
今は答えることができる。藤原経清は平将門を討った藤原秀郷の系譜につながる者であり、貴種である。
源氏や平氏が関東や各地で台頭したように、奥羽にも貴種を崇める習性はある。
しかし奥羽では、その貴種が気に入らない、自分の便宜を図ってくれないとなれば、その貴種の命令に従わないか、あるいは反抗する。また反抗する場合は、自分達の近親、または自分達に同情的な貴種を立てて対抗する。この後、藤原秀衡は源頼朝に対抗するために義経を主君とするように遺言している。
関東には、ここまでの自立性はない。いや最初平将門が独立しようとして失敗し、以降源頼朝が関東の盟主として立てられるまでなかった。
さて、捕縛された経清のことである。
頼義は経清に向けて怒鳴った。
「貴様は源氏累代の家臣でありながら、主君たる余を裏切り、また恐れ多くも朝廷のご威光をないがしろにした大罪人である。今ようやく貴様を虜にすることができた。貴様はこの状況でも、まだ白符を使えとほざけるか」
経清は何も語らなかった。
『陸奥話記』は、この厨川柵の戦いまでくると、急に真実性を帯びてくる。
先の、火攻めの際に天皇に対し祈ったのも真実性が高い。
頼義は、この奥州にあるもの全てが憎かったのだろう。
この争いは頼義が安倍氏に対し仕掛けたものではないかという観点で、今まで見てきた。
自ら加害行為をしながら、事態が紛糾すると、その全ての責任を自分の被害者になすりつける者がいる。
そういう者は味方を探し求める。味方、というより少しでも自分を肯定してくれる者を血眼になって探すのである。頼義の場合、それが天皇だった。だから厨川柵攻め以前の戦いはエピソードは眉唾物だが、厨川柵の戦いは真実に近いと私には思えるのである。
経清は斬首となった。
ところが頼義は経清の首を斬るのに「鈍刀」、つまり切れ味の悪い刀をあえて選んだ。斬首刑は実質鋸引きの刑となり、経清は苦しんで死んだ。
安倍貞任も捕縛された。
貞任もまた頼義の前に引き出されたが、貞任は既に重傷を負い、その命が尽きかけていた。
貞任は頼義を一瞥すると、貞任の命の炎は消えた。享年44。
貞任の弟の宗任は、官軍に投降した。
貞任の嫡子は安倍千世童子丸といい、13歳だったが、千世童子丸も捕縛された。
千世童子丸は貴公子然としていた、つまり堂々としていたらしい。
頼義も、この童子を殺すのが気が咎めるくらいには、良心が働いたらしい。
千世童子丸を助命しようと、頼義は思った。しかし、
「敵の子孫を残すのは、後の災いとなります」
と清原武則が反対して、千世童子丸を斬ったという。武則の子の武貞は、この後千世童子丸より重要かもしれない経清の遺児を、その母の有加一乃未陪の再婚相手となることにより養子にしているのだが。
他にも官軍は、多くの安倍軍の将が殺され、または捕縛された。
またこの日、最後に残っていた嫗戸柵(うばとのさく)も陥落した。
前九年の役というが、実際には鬼切部の戦いから数えて、12年経っている。
戦役の名称と実際の年数の違いについての理由はここでは語らないが、ともかく、こうして戦役は終わったのである。

康平6年(1063年)2月16日、頼義は貞任や経清の首を掲げて、京に凱旋した。
都大路は、老将軍と官軍の勇姿を一目見ようと、物見高い群衆で溢れていた。
宗任も、京まで連行されていた。
ある貴族が、車の中から、馬に乗せられて縄目を受けている宗任を見た。
心無いその貴族は、蝦夷は花の名前など知らぬだろうと侮蔑して見ていた。
そこでその貴族は車の御簾を上げて梅の花を差し出し、
「これはなんぞ」
と宗任に尋ねた。すると、

「我が国の 梅の花とは 見つれども
大宮人は いかがいふらむ(我が国の梅の花のように見えるが、大宮人にはどのように見えているのだろうか)」
と、宗任は詠んだ。
都の人々は驚いた。
貞任もそうだったが、奥州の俘囚長は和歌を学び、教養を身につけていた。彼らに比べれば、坂東武者の方が教養がない。
この時、頼義66歳。
長く苦しい奥州での戦いから凱旋して、その胸に去来していたのは武人としての名誉の想いか、はたまたそれとは違う感情だっただろうか。
2月26日に除目(官僚の任命)が行われ、頼義は正四位下伊予守に任じられた。
当時の伊予は、播磨国と並んで、最も収入の多い国だった。
しかも「熟国(温国)」である。これまで老軀に鞭打って、いつ止むとも知れない大雪の中で寒風にさらされるという日々を何年も送ってきた頼義にとって、暖かい国で暮らせるというのは何よりの褒美だった。
清原武則は、従五位下鎮守府将軍に叙せられた。蝦夷の流れを汲む俘囚の中では初めてのことである。また安倍氏の根拠であった奥六郡は、清原氏の勢力範囲となった。
頼義の嫡男義家は、従五位下出羽守に補任された。
宗任は最初、伊予の今治に流された。
そこに3年間居住したが、元々地縁もなかったのに、宗任は少しずつ勢力をつけてきたらしい。
そこで改めて、筑前国宗像郡の大島に流された。宗任はそこで、嘉承3年(1108年)まで生きた。

南国伊予の国司の職は、頼義への朝廷の暖かい配慮だったが、頼義は遙任、つまり自分は伊予には赴かなかった。
頼義は郎党10名への恩賞を朝廷に奏請していたが、朝廷からの恩賞は頼義と義家、義綱など頼義の子だけが恩賞にあずかった。
頼義は郎党達のために京に留まり、恩賞確保のために奔走した。伊予に赴任するまでの期間、官物は私費をもって納入した。
郎党達への恩賞があったのかどうかはわからないが、頼義は伊予に赴任し、任期を終えた後は出家して伊予入道と号した。晩年はこれまでの戦いで命を落とした敵味方双方のために、「耳納堂」という寺堂を建立し、「滅罪生善」に励んだという。
承保2年(1075年)、頼義没。享年88。

頼義は、奥州での戦いで得るものはほとんどなかったのである。この戦いで、源氏の家臣になる奥州の俘囚も、荘園を寄進する者もいなかった。頼義にとって、阿久利川事件から7年の戦いは、全くの無駄骨だった。
頼義は、源氏の勢力を奥州に扶植するために安倍氏を挑発し、謀反に踏み切らせたのである。朝廷がいかに頼義に褒賞を与え労おうと、武将、武士団の棟梁としての頼義は失敗したのである。
頼義の「滅罪生善」も、自らの行いの空しさから成されたのかもしれない。

しかし、隠居し、死にゆく者は「滅罪生善」でよくても、これから生きる者はそれでは済まされない。物事の在り方、特に奥州での源氏の勢力拡大の方法を、根本から見直すことが、頼義の後を継いだ義家に課された役割だった。
義家は出羽守になったが、出羽は清原氏の勢力圏であり、臣下の礼を取った側としては赴任しずらかったらしい。
康平7年(1064年)、義家は越中守への転任の希望を朝廷に奏請している。

またこの頃から、源氏同士の争いが目立つようになる。
義家は美濃で、摂津源氏の源国房と合戦をしている。
美濃にいる義家のの郎党が、国房の郎党に凌辱されたらしく、出羽と越中どちらの国司であったにしろ遙任をしていた義家は、京から騎馬で走り、美濃の国房の館を奇襲した。国房は館を脱出した。
桓武平氏も関東に勢力を扶植した初期は、一族同士の争いが絶えず、その争いが結局将門の乱に発展したりもした。
後の伊勢平氏は、初期の平氏の失敗を踏まえたのか、日宋貿易が潤滑油となったのかはわからないが、一族の団結を重視した。しかし源氏は土地が貴重な収入源であり、土地は容易に収入を増やせない以上、他人の土地を奪う傾向は、調停機関の鎌倉幕府が成立するまで減らすことができなかった。

そしてこの時期、日本の新たな地殻変動が起ころうとしていた。
治暦4年(1068年)、摂関政治を終わらせ、院政への橋渡しを努める後三条天皇の即位である。

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