一領具足⑪

羽柴秀吉は播磨、但馬、因幡、伯耆、淡路、備前、美作、備中と、8ヶ国を平定してきた。一人で担当するには広すぎる範囲である。

これ以上秀吉に手柄を立てさせたら、秀吉の勢力が大きくなりすぎる。だからここで秀吉の平定事業を停止してしまおうというのは、理解できることである。

(いや、ならば信長自身が出陣すればいいことだ。2方面戦略を進められるなら和睦の必要はない。実際信長も出陣しようとしているではないか)

和睦の条件が五カ国割譲であることで、毛利もなかなか首を縦に振らないらしい。

五カ国とは、備中、備後、美作、伯耆、出雲である。

出雲はまだ秀吉が手をつけていない国であり、さすがに毛利も丸々割譲する気にはなれないらしい。

そして和睦が成立しなかった時のために、明智光秀が出雲攻略のため出陣の準備をしているらしい。

(あっ!ーー)

「誰かある!毛利に使者を送れ!」

元親は気づいた。

(信長は、将軍足利義昭公を殺す気だ)

秀吉は備中まで攻め込んでいるが、備中を平定すれば、隣の備後には足利義昭がいる。

足利義昭は、元亀4年(1573年)に京を追放された。

以後、義昭は備後国の鞆にいる。

義昭は依然として将軍のままである。信長は義昭の将軍職を廃しなかった。

義昭は鞆から、反信長包囲網を画策し続けている。これを近年、学会では鞆幕府という。

というより、日本の法慣習的に、将軍職を廃することはほぼ不可能だといっていい。

権門勢家の時代にあっては、諸権門は滅ぼすことのできないものだった。

関白であれ征夷大将軍であれ、力を弱めたり、その職を他の者に与えたりすることは可能だが、権門を家ごと滅ぼしてその職を廃するということはできた試しがない。天皇親政を目指した後醍醐天皇でさえ、将軍職を廃することはできず、自分の皇子に将軍職を与え、最終的に足利尊氏が将軍になってしまった。

将軍職を廃せないから、信長は義昭を将軍のまま追放した。

しかし今や、信長は前右大臣であり、義昭より身分が高い。

その信長が義昭を殺しても、弑逆にならないのである。

もし信長が、義昭を殺すことに成功していたら、その後天下が家康に巡ってくることがあっても、家康は将軍にならなかったかもしれない。

信長は、関白、太政大臣、征夷大将軍と、権力のトップが複数ある日本の体制を、将軍を殺すことで一元化を図ったのである。

信長が毛利に講和を申し出たのは、義昭が逃げないように、確実に捕捉するためである。

まだ手つかずの山陰の出雲まで信長が要求しているのは、出雲から南下すれば、義昭が鞆から広島に逃げようとするのを封じることができる。

神戸信孝を総大将にして四国平定に乗り出したのも、義昭が四国に逃げても捕捉できるようにするためである。

信長は九州にも手を回しており、九州に逃げることもできない。

毛利との講和条件の五カ国割譲に義昭がいる備後が入っているのはフェイクで、狙いが義昭でないことを匂わすためである。毛利が講和もやむなしというところまで追い詰められれば、備後を譲歩すれば、義昭も毛利も、義昭の首を狙っているとは疑わないだろう。

義昭は依然、鞆を動かない。

(義昭公の姿は、昨日までの儂の姿じゃ)

何もせずに過ごしていれば、昨日と同じ生活を今日も続けられると信じているかのように、危険に対し鈍感である。

(やっと信長の考えに追いついたのだ。ここから巻き返して、信長を出し抜くようにしていかないと)

そこへ、人が現れた。

「申し上げます」

と、その男は言った。

「うむ」

元親は言ったが、(はて?儂は毛利に使者を送るように言ったから、人が来るのを待っていたのだが?)

と思った。

「6月2日未明、京の本能寺にて、前右大臣が惟任日向守(光秀)により討たれたとの由にござりまする」

「何ーー」

あまりの出来事に、元親も二の句が告げない。

(儂は、救われたのか?)

元親は、何度も反問した。

元親の人生は、信長がいることが前提だった。

将来、信長と戦うために四国を統一し、分が悪いながらも、四国に攻めてきた信長と戦い、なんとか勝ちを拾ってその先の人生を開いていく。

信長の存在が元親に緊張を与え続けてきた。その信長を外して考えることを、自分に許していいのかと思ったのである。

報告では、信長の嫡男信忠も二条御所で光秀に攻められて討たれたという。

(信忠は家督を相続していたはずだが、その嫡男はまだ幼いはずだ。既に天下を統一する勢いを見せている織田家とはいえ、信長と信忠が死んではたして機能するだろうか?このまま織田家が分裂するということも起こるやもしれぬ)

元親は、長年の緊張がどっと抜けていく感覚を覚えた。

「ーーはははっ!」

元親は笑った。「信長の如き不義の大将、性残忍な大将に天罰が降らぬはずがない!天もご照覧あれ!これが天罰と言わず何という!下るべく下った天罰じゃ!やはり信長の如き者が天下を保てるはずがないのじゃ!皆も見たであろう、この有様を!嫡子の信忠まで討たれては織田家ももうおしまいじゃ!天下はまた乱れる。それもこれも信長が不徳の大将だからじゃ!」

元親は大いに笑った。

「さすが殿!」

家臣達は一様に、元親に合わせた。

信長が四国を攻めるとなって、風前の灯火だった元親の運命は、信長の死を迎え、その強運を否が応にでも見せつけた。

元親の配下は、元親の強運を目の当たりにして、元親を神秘的な武将として仰いだ。


(まずは、時勢を観望することじゃ)

元親は、しばらく中央の情勢を見ることにした。

羽柴秀吉は備中の高松城を水攻めにしていた。

明智光秀からの、本能寺の変を知らせる使者は毛利をも向かっていたが、その使者は羽柴秀吉の陣に誤って入り、秀吉に伝えた。

秀吉は本能寺の変を毛利に知られる前に講和を結び、6月4日、高松城城主清水宗治を切腹させた。そして後に「中国大返し」と呼ばれる猛スピードの東進により、6月13日、山崎の戦いで明智光秀を討ち取った。

(では、これからは羽柴の時代か)

元親は思った。元親は安国寺恵瓊の言葉を思い出していた。

「信長の世、三年、五年は持たるべく候、明年辺は公家などに成さるべく候かと見及び申候。左候て後、高転びに、あおのけに転ばれ候ずると見え申候。藤吉郎さりとてはの者に候」

(羽柴というのは淡路を取られたこと以外では関わることが少なかったが、確かに織田家の中でも出色の男らしい。しかし羽柴が織田家を完全に掌握するには、まだ時間がかかるだろう)


元親は、四国経略の手を少し緩めることにした。

元親は土佐国内の士民の旅行を自由にした。

といっても、この時代、貨幣と呼べるものがない。

あるのは外貨である永楽通宝などの明銭で、他に明銭の欠銭や私鋳銭という、今でいうところの贋金である。相場が不安定なため、旅籠などは経営できなかった。

そこで元親は、旅人の宿泊を村の長に請け負わせた。いわば官営の宿泊施設で、宿泊料は旅行者の気持ち次第だった。

また商業において、大商人の専売状況を緩和し、他の商人が営業できるようにした。物価が高くなっていたのでその対策である。

そして、より一層の検地を進めた。検地は土佐以外にも進め、隠田はことごとく摘発した。

(2年、内政を重視する)

2年間で長宗我部家をより効率的な国家に変え、やがて来る秀吉の来襲に備える。


四国経略を緩めるといっても、やるべきことはやる。

信長在世中は、阿波と讃岐は信長の傘下であるかどうかが自家を優勢にするポイントだった。

しかし信長が死んで、上方から四国へ手を伸ばすことができなくなった。

つまり、阿波を平定する絶好の機会が訪れたのである。

元親の嫡子の信親はこの時18歳。既に初陣を終え、頼もしい武将として元親も信頼を置いていた。

信親は阿波を攻めるように元親に進言したが、

「8月まで待て」

と元親は言った。

しかし信親は元親の意見を聞かず、阿波の海部城に入り、一宮城、夷山城を奪い返そうとした。

知らせを受けて、

「待て」

と、信親を呼び戻した。

「なぜでございますか」

信親は不平そうに言った。

「士卒が疲弊しているからじゃ」元親は言った。

「しかし信長が死んだ今こそ、阿波を切り取る機会ではありませぬか」

「ここは、儂のやることを黙って見ておくのじゃ」

元親は、岡豊城に城持ちの家老衆と一領具足衆を呼び、それぞれ別室に分けて議論をさせ、意見を聴取した。

家老衆の意見は慎重論だった。

「阿波にろくに足がかりもなく、出陣して長駆するのははたしてどうだろうか。三好は阿波の半国を持ち、多勢である。阿波の長宗我部の分国から山伝いに年々討ち入って、毎年秋の稲を薙ぎ取っていけば敵の下々も奔走に疲れ、降参してくるだろう」

一領具足の意見は強硬論だが、そこには深い危機感がある。

「のんびりしていては、阿波国はもちろん、土佐も三好家に取られてしまう。三好笑岩(康長)は河内の半国を知行し、羽柴筑前の甥を養子にしている。やがて筑前の加勢により、笑岩が阿波に渡ってくるだろう。だからその前に十河存保を討ち果たし、阿波国を残りなくお取りなさるのが上分別である」

確かに秀吉の甥の秀次は三好笑岩の養子になっている。秀吉を警戒すべきなのはもちろんだが、秀吉軍の中に三好に警戒が集中しているのが面白い。


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