【映画】『正欲』が性欲ではない形で絆を強固にする
映画版『正欲』のキャッチコピーは「観る前の自分には戻れない」だが果たしてそうだろうか。
原作は「読む前の自分には戻れない」でこちらは未読のため映画版よりもさらに深く、大きなものが描かれている可能性がある。原作も映画版も知っている人に違いをお聞きしたい。
映画鑑賞後に僕がこのキャッチコピーから感じたのは「本作が救いになる人と救いにも何にもならない大多数の人」とに分かれるだろうな、というものだ。
タイトルの『正欲』から「性欲」を連想してしまい本作の本質を取り逃がしてしまう方もいるだろう。
それではあまりにももったいない。
現在「何か生きにくい」と感じる人たちにぜひご覧いただきたい作品だ。
本稿は「性癖=性質=気質や人となり」という観点で進めていく。
まずはあらすじを紹介する。
以下ネタバレを含む。
■擬態して生きなければならない人々
本作は観る人を選ぶ。それが冒頭にあらかじめ提示されている。
明日以降も生きると思い込んでいる人たちには向けられていない。
「今度の休み何しよう」とか「恋人欲しいからマッチングアプリやろう」とか「今は子供産める状況じゃないよな」とか「SNSでバズりたい」とか、そんなことを考えてる人たちには理解されないという前提で作られている。
佐々木佳道(磯村勇斗)はありとあらゆる情報が「明日以降も生きることを信じて疑わない人たち」に向けられたものに感じられ、佐々木佳道自身にとって雑音でしかない。人工的に歪められた水が噴き出しているところを見たり触れたりすることにのみ生の実感を得られる(セックスにまつわる全てにも興味が無い)。
桐生夏月(新垣結衣)も同様に「知らない惑星に留学に来ているような日々」を坦々と過ごしており、結婚や出産などに対し嫌悪感のようなものすら抱いてしまっている。これは女性としての社会的な役割を押し付けられているから嫌悪感を抱いているわけではない、というのが本作の秀逸なところだ。
社会的に「一般的。普通」とされているものがあり、それらを当たり前のように受け入れられる人たちがいる一方で、佐々木や桐生のように受け入れられない人たちがいる。
佐々木と桐生のベッドシーンはとても好きなシーンだ。セックスがどういう感覚なのか体感してみたいという桐生とそれに応える佐々木。お互い服を着たまま正常位の体勢となる。どちらも性に興味が無いためぎこちない。運動みたいで普通の人たちも大変なんだと気付く。
そして桐生は佐々木を抱き締め「居なくならんで」と涙を浮かべてお願いする。
性に対する欲求は無くとも慈しむ心は共通であり、桐生夏月も我々と何も変わらないということが強調されている。とても感動的なシーンだ。
だが逆の見方をすると、彼らは自分が望んではいない風習や社会通念、社会的な役割などを受け入れなければこの社会では「正しい人」とは思われないという残酷さも描かれていることがわかる。
この異質な社会を擬態して生きる。
本作が「観る人を選ぶ」というのはつまりこういうことだ。
この社会が異質だと感じると人とそうでない人がいる。積極的に自殺したいわけではないのにこのままでは生きていけないという人と、悩まずにいられる(就職や恋愛などでは悩める)人がいる。自分が愛してやまない行動や考え方が多くの人にバカにされる人と共感される人がいる。
それぞれ前者に向けられた作品であって、幸運にも後者として生まれ育ち何も刺さらない人たちには向けられていない。
「観る前の自分には戻れない」
果たしてそうだろうか。
佐々木佳道が桐生夏月の言葉に「自分がしゃべってるかと思って驚いた」と打ち震えたように、この映画を観て「これは自分の事だ」と打ち震えただろうか。
「水に興奮する変わった人たちの映画」としか感じられないのであれば、それは「観る前の自分に映画館を出たごときで戻れる」人だ。
■救われる人にしっかり届いて欲しい
「性癖=性質=気質や人となり」を周囲に公表できる人。公表しても何とも思わない人がいる一方で、佐々木や桐生のように公表できない人がいる。公表しても理解してもらえないし、理解してくれる人はもう誰も居ないのではないかと絶望している。
硫化水素で自殺しようとした佐々木と、車のエアバッグを取り外して事故死しようとした桐生が偶然居合わせたのは奇跡だ。
だがこの奇跡は佐々木や桐生のように毎日生きづらさを感じる多くの人たちにとって絶望を深めるものでしかない。
その象徴が常に言い表せない怒りを湛えている諸橋大也(佐藤寛太)だろう。
彼は誰にも理解されない性質を持ち、女生徒に好かれても救われず、水の動画に癒される。
佐々木と動画を介して知り合えたことでこの社会に居場所を獲得できたが、もし佐々木と桐生がともに自殺していたらこの出会いも生まれなかった。
つまりこの映画は、この社会では救われない人たちが奇跡的に出会い救われ、さらに別の誰かを救っているということを描いた作品である。本作のように劇的なことが起こらない人たちにとっては絶望を強くしてしまうだろう。
だが絶望を和らげるヒントもしっかり描かれている。
佐々木佳道は同士と感じた者にメッセージを送った。
諸橋大也はダンス表現でなんとか日常をやり過ごし、佐々木からのメッセージに反応した。
神戸八重子(東野絢香)は奇跡的に嫌悪感を抱かない男性(諸橋大也)と出会い、強く拒絶されるも諸橋が生きる希望を得たことに対し心から祝福した。
分かり合える仲間はどこかに居る。
そして、理解を示そうとしてくれる人も必ずどこかに居る。
反対に参考にすべきではない人たちも登場する。
寺井啓喜(稲垣吾郎)と矢田部陽平(岩瀬亮)だ。
寺井は社会的過ぎるがあまり大切な妻(山田真歩)と子(潤浩)が去っていく。
矢田部は反社会的過ぎるがあまり社会から逸脱してしまう。
この社会に過剰適応してしまうと不寛容さが強まり自分が認める物の範囲が狭まる。結果、愛する妻や子すらも排斥してしまう。
反社会的な振る舞いは当然この社会では生きていけない。犯罪者となってしまう。
以上をまとめると本作のメッセージはつまりこうだ。
「奇跡的な出会いを信じ擬態して生きろ」
「この社会に過剰適応するな」
「反社会的な性質の場合は実行すると捕まる」
どんなことが起きても居なくならないと言う桐生と、性愛では得られない絆を結ぶことが出来た佐々木。
それに対し自分の常識を告げたごときで妻と子が離れていった寺井。
どちらが本当に幸福かは言うまでもない。
■最後に
「正欲」=「性欲」ではない。
誰もが「性癖=性質=気質や人となり」を抱えていて、この社会の基準に合致するか少し外れてるか、大きく外れているかの違いにより生きやすさが大きく異なる。
この社会は「大多数の人が自身に違和感を抱かずに与えられた欲に忠実に生きる人たち」がそれ以外の人たちに対し、無自覚に、あるいは自覚的にマウントを仕掛けるような社会だ。
「多様性を認めよう」と偉そうに、少し表情を高揚させながら正義ぶる姿をけなしてはいけない。
性的指向の種類が増えていくにしてもそれはあくまで「想像の及ぶ範囲だけ」だ。
多様性を掲げれば掲げるほど、そこからこぼれ落ちていく人たちは絶望を深める。孤独感も。
「正しい欲」があるとすればそれは社会を基準にしたものでしかなく、社会のルール内であればどんな欲も正しい。
そもそも何が正しくて何が間違っているかなど個人が偉そうに決めるようなものではない。
そして「この社会を生きるのに向いていない。自分は正しくない側の人間だ」と悩み苦しみながら生きている人たちがこの作品により少しでも救われるのを願います。
最後に僕からも一言。
「居なくならないで」