映画『ありふれた教室』に描かれる、ありふれているが故に絶対に解決できない我々の問題
善き行いをし続ければ善き展開を歩めるか。
そんなことは絶対にありえない。
『ありふれた教室』の主人公はとても良い先生だ。
学校で盗難事件が起こる。
解決を願う彼女はパソコンのインカメラで録画をし、自身の財布からお金が盗まれたのを把握する。
だが実際に盗まれたのか。花柄のシャツの袖だけしか映っておらず顔も性別も映ってはいない。
そして、そもそも隠し撮りをしていたということが問題視されてしまう。
思い込みで無遠慮に行動に出たり、大声で問題をかき乱す先生たち。ジャーナリズムを振りかざし事実を歪曲して報道する生徒たち。
問題解決からは遠ざかり、ある生徒が追い詰められていく。
タイトルが秀逸だ。
この『ありふれた教室』的な問題は我々もすでに体験済みだろう。
つまり「ありふれた職場」であり「ありふれた家庭」でもある。
無意識の偏見や冷静さを欠いた解決行動など、事態を悪化させる要因はどこにでもある。
本作は道徳の授業でも使えるかも知れない。
自分がどの立場となって思考を深めることができるか。
我々はどの登場人物の立場にもなり得るということを再認識した作品だった。