「多様性」ということばの「非多様さ」
ここ数年、イヤというほど目にしてきたことば「多様性」。
大事なのはわかる。でもどこかすわりの悪い、しっくり来ない感じがあります。
この感覚にご共感いただける方のモヤモヤを晴らして差し上げましょう!というのが本稿の意図です。
結論をまとめますと、
以上3点となります。
それぞれご説明いたします。
■そもそも多様
まず大前提として、人がとやかく言う前に、すでにあらゆるものが多様です。
人の性、人種、国籍、思想などなど。誰かが認めようが否定しようが、すべて多様です。もともと。
だから「多様性を大事にしよう」などと言うまでもありません。
ただ、大事なのは「知らなかったことを知ること」と、「差別を無くすこと」だったはず。
例えば、ゲイであるというだけで差別された出来事があったならば、それを知り解消する。
知って、差別を無くす。
ただそれだけのことを広く周知するのが大前提だったはずです。
それなのに今や配慮配慮で押しつぶされそうになってますよね、社会全体が。
そうなるのは分かり切っていたことです。
■多様性は無数にあるから数えられない
なぜ今配慮の多段攻撃に押しつぶされそうになっているのか。
それは「多様性は無数にあるから」です。
「多様性」って何種類あるの?
100?
10,000?
100,000,000?
それらの人たちが「こっちにも配慮しろ」と一斉に叫び出している状態です。
全部に対応することなど不可能に決まってますね。
だから当初に立ち返るべきです。
それは「知ること」と「差別を無くすこと」です。
「配慮すること」がメインではありません。
差別されていた人がいたことを知り、その差別を無くす。
これだけです。
次から次に出現する多様性に対して配慮を更新し続けていくことなど不可能なのです。
■線引きを人がする傲慢さ
「配慮」をメインにするとなぜダメか。
それは、「配慮すべき多様性」と「配慮しなくても良い多様性」を選別する人が発生するからです。
つまり「お前に決められたくねーよ」という話です。
例えば、「ゲイには配慮しましょう。でも女装家は配慮しなくても良いです」と決める人がいたら「は?ケンカか?」となるでしょう。
人が他の人の振る舞いを線引きするなんてマジョリティ側の傲慢なんですよ。
■まとめ 多様性を優先すると貧相になる
数えきれないほどある多様性をすべて覚えて、すべてに配慮することなど不可能です。
そのため、原点に立ち返り、「知らなかったことを知る」「差別を無くす」ということを優先させましょう。
原作を無視して登場人物の人種や性別を変更する、というようなよくわからない配慮などしなくていいんです。
そんなことよりも差別に対して戦うことを優先した方が幸せな社会になります。
多様性に押しつぶされた貧相な社会から脱却しましょう。