創共協定または共創協定について(Q)やがてかなしき鵜舟哉
協定の締結が昭和49年12月28日、社会に公表したのが翌昭和50年7月27日。協定の締結から公表まで「半年以上の間」があいたことをどちらかの「政局」ゆえの事情と松本清張氏は説明した。協定を結んだ事実につき共産党は早く公表をと、対して創価学会は公表を渋る。共産党との交渉を内密にしていた手前、公明党との調整に時間が必要だったことと、昭和50年4月の地方選挙を混乱なく終えるため、この時点では共産党と協定を結んだことを末端会員に知らせたくなかった事情、すなわち創価学会側の事情が松本清張氏の言う「政局」と思われる。
事前に共産党との交渉を知らされていなかった公明党竹入委員長・矢野書記長。昭和49年の大晦日、暮れの挨拶の電話をしてきた矢野氏に竹入氏は、共産党と学会との間で協定を結んだと北条氏が告げに来たといい、「竹入さんは、どれくらい反対ですか」と問う矢野氏に「俺は五百パーセント反対だ。北条さんにも『池田先生は頭がおかしくなったんだ』って言ったら、『先生のされることに反対なら破門だ』と言われた」と。(矢野絢也「私の愛した池田大作」183頁)北条氏は竹入氏に激怒し、秋谷、野崎氏が矢野氏の説得を試みたが、結局、公明党の説得は不調に終わる。むしろ秋谷副会長なども竹入・矢野氏に同調し、野崎・志村の両氏は、はしごを外されることになってしまう。公明党執行部の判断は共産党と協定を結べば、警察・公安に警戒され、自民党や財界との関係もうまくいかなくなるので反対だというものだった。結局、創価学会は協定締結後、公明党の説得が不調に終わり、締結から公表までの半年ほどの間に協定の遵守、実行ではなくいかにして調印・締結した協定を反故、骨抜きにするかという方向に向かってゆく。共産党の山下氏は後からいわれればといった不可解な創価学会側の態度に翻弄されることになるのだがその真相はこの時点では知る由もない。今一度、締結された協定を引用しておく。
創価学会と日本共産党との合意についての協定 創価学会代表野崎勲と日本共産党代表上田耕一郎とは、一九七四年十月末以来、数回にわたって懇談し、それぞれの組織の理念と性格、現在の活動と将来の展望、内外情勢などについて、広範かつ率直な意見の交換をおこなった。 その結果両者は、創価学会と日本共産党とが、それぞれの組織ならびに運動の独自の性格と理念、さらには立場の違いをたがいに明確に認識しあい、相互の組織と運動の独立を侵さないことを前提とした上で、日本の将来のため、世界の平和のため、そしてなによりも大切な日本の民衆、人民のために、それぞれの組織を代表して、左記の事項について合意した。(引用者注 原文は縦書き)
一、創価学会と日本共産党は、それぞれ独自の組織、運動、理念をもっているが、たがいの信頼関係を確立するために、相互の自主性を尊重しあいながら、両組織の相互理解に最善の努力をする。 二、創価学会は、科学的社会主義、共産主義を敵視する態度はとらない。日本共産党は、布教の自由をふくむ信教の自由を、いかなる体制のもとでも、無条件に擁護する。 三、双方は、たがいに信義を守り、今後、政治的態度の問題をふくめて、いっさい双方間の誹謗中傷はおこなわない。あくまで話し合いを尊重し、両組織間、運動間のすべての問題は、協議によって解決する。 四、双方は、永久に民衆の側に立つ姿勢を堅持して、それぞれの信条と方法によって、社会的不公平をとりのぞき、民衆の福祉の向上を実現するために、たがいに努力しあう。 五、双方は、世界の恒久平和という目標にむかって、たがいの信条と方法をもって、最善の努力をかたむける。なかんずく、人類の生存を根底からおびやかす核兵器については、その全廃という共通の課題にたいして、たがいの立場で協調しあう。 六、双方は、日本に新しいファシズムをめざす潮流が存在しているとの共通の現状認識に立ち、たがいに賢明な英知を発揮しあって、その危機を未然に防ぐ努力を、たがいの立場でおこなう。同時に、民主主義的諸権利と基本的人権を剥奪し、政治活動の自由、信教の自由をおかすファシズムの攻撃にたいしては、断固反対し、相互に守りあう。
七、この協定は、向こう十年を期間とし、調印と同時に発効する。十年後は、新しい時代状況を踏まえ、双方の関係を、より一歩前進させるための再協定を協議し、検討する。
一九七四年十二月二十八日 創価学会代表 総務
野崎勲 (宗教法人創価学会印)
日本共産党代表 常任幹部会委員
上田耕一郎 (日本共産党中央委員会印) (引用文の強調は筆者)
同床異夢、あるいは呉越同舟の異夢?
協定が結ばれ、まず10年間、相互の協力が始まるものだとばかり思っていた共産党の上田・山下氏、仲介者の松本清張氏を翻弄するように創価学会、野崎・志村氏の態度が変わっていく。協定を守るより、いかにして反故にするかというように豹変していく。
創価学会側の信義にもとる態度 昭和50年1月、野崎氏は公明党に内緒で交渉していた手前、事前に交渉を知らされていなかった竹入・矢野氏の反発を和らげるためと思われるが、協定締結の日時を発表時にずらせないかと突如提案する。共産党の上田氏は「歴史的事実だから、それはできない」と、この提案を断る。
7月、野崎氏は、発表用の協定を別につくれないかと提案。共存するが共闘はしない、創価学会は公明党を支持し、その点につき共産党は批判しないとの一文をどうしても入れたいと。共産党の上田氏は「条文と違うものを出すことはできない」と断る。当たり前だろう。自分が交渉し、難産の末生み出し両者調印まで済ませた協定をなんだと思っているのか。まして相手があることなのに身勝手な言い分。上田氏「彼ら協定を結んだことで責められているのではないか」山下氏「会長の指示があって、北条理事長も了承してのことなのに、われわれにはわからないことだ」と。山下氏の疑問はもっとも。
協定発表後の8月、宮本委員長の「渡米中の池田氏から、人を介してだが、どんな雑音があっても協定の精神を守ろうという伝言があった」との発言につき、「雑音」を秋谷見解を指してのものだ、池田会長の私信を勝手に公にするのは失礼だ、そもそも「雑音」など言っておらず、不正確な引用だと野崎氏は激昂する。「会長もわれわれ二人も苦境に立たされている。どうしてくれるのか?」「折角うまくいっていたのに、あの国際電話問題でメチャクチャになった。二人で毎晩やけ酒を飲んでいる」「協定の実行が三年おくれた。」と、情けない言辞を弄する。伝言を紹介したくらいでメチャクチャになる脆弱な信頼関係なら相互理解の努力など無意味だ。現に取り付く島もないほどの激昂で、会って話そうと言っても応じない。もはや協定を破棄せんがための言いがかり、無理筋の批判。信義、信義と居丈高に非難するわりに、日付をずらせ、発表用の協定を別に、言葉じりをとらえた難くせ、など創価学会の側にこそ信義、誠実さが見られない。松本清張氏も協定公表前後の頃の記述はもはや野崎、志村氏に対して不快感を隠そうとしない。
協定発表前のクッションとして、毎日新聞で池田・宮本対談(毎日新聞は協定発表後、自分たちの媒体が利用されたと怒るのだが)
青木談話で「政治抜き」を強調
聖教新聞 昭和50年7月16日 青木副会長の談話 人間次元で平和・文化語る 「池田・宮本対談について」 池田会長は、さる十二日、日本共産党幹部会委員長・宮本顕治氏と、長時間にわたる人生対談を行った。これは毎日新聞の連載企画にこたえたもので、話題も政治抜きに組織論、人材論、文学論など幅広い分野にわたり、人間対人間の対話ともいうべき、有意義なものであった。しかし、この対談について、一部では、公明党との関連などから、誤解や憶測を含む、さまざまな議論が取りざたされており、ここに、正確な認識をもたらすために、仏法者としての我々の基本的考え方を、更に明確にしておきたい。 「仏法を基調とした平和・文化の推進団体」としての学会の立場は、いまや世界的なものとなっている。そのさい、最も重要なことは、人間という普遍的原点に立って、だれとでも自由に話し合い、理解し合い、そのなかから確たる平和の基盤を築き上げるという根本姿勢であろう。池田会長の先駆的な平和旅はその典型的な行動であるといってよい。 会長は、自由主義者であろうと、中国の周恩来首相、ソ連のコスイギン首相らの社会主義者であろうと、きたんなく、平和構築への構想を語り合っている。今回の宮本委員長との対話も、その一環にほかならない。 こうした我々の姿勢を、一言にしていえば、人間次元の立場であるということができる。これは、政党間の関係、抗争といった政治的次元とは、明確な一線を画するものである。一部では、今回の対談について、政治的意図をうんぬんする論調がなされているが、その致命的誤りは、この人間次元と政治次元との混同にある。平和構築の要諦が、人間と人間との打ち合いと触発のなかにこそあるという人間次元の我々の立場は一貫したものであるし、今後ともかわることはない。対談が政治抜きに行われた理由も、ここにある。 公明党支援は変わらず もとより人間次元におけるこの共存はなんら組織的共闘を意味するものではない。我々はマルクス主義者ではないし、互いに自由に自らの目標とする路線を進んでいくことは当然であろう。したがって今回の対談によっても、学会が今後とも公明党を支持していくことに全くかわりはない。また政治次元における、公明党と共産党との間の政策論争は、政党として自由であり、それに干渉するつもりもない。この対談も、公明党の政治路線の展望を語ったものではないのである。 会長が対談に応じたのは、各紙で自身語っているように、宗教団体である創価学会と、共産党との間に無用の摩擦、泥仕合を生ずることは、学会員を政争の具に供することであり、それが人間的憎しみにまで発展することは仏法者として望ましいことではないと考えているからである。 日蓮大聖人が「妙とは蘇生の義なり」といわれているように、仏法というものは、あらゆる思想・哲学・文化を生み出した人間生命の根源に光をあて、よみがえらせていくという点に、最大の特徴があるといえよう。今から二十年近く前、いわゆるハンガリー問題で世間が騒然としていた時、戸田前会長は次のように述べた。「民主主義にもせよ、共産主義にもせよ、相争うために考えられたものではないと吾人(ごじん)は断言する。しかるに、この二つの思想が、地球において、政治に、経済に、相争うものを作りつつあることは、悲しむべき事実である。ー吾人らが、仏法哲学を広めて、真実の平和、民衆の救済を叫ぶゆえんは、先哲の平和欲求の精神を、どこまでも実現せんがためである」と。 思想や哲学が、生みの親ともいうべき、人間の手を離れ、独走し、かえって人間そのものを犠牲に供しかねないのが、古今の通例である。その、人間の業ともいうべき"格子なき牢獄"から人間を救出し、生命尊厳の当体として輝かせていくことこそ、仏法者の崇高な使命であるといってよい。池田会長が、第三十六回本部総会での講演で「たとえ私どもと異なった思想、意見をもった人々であったとしても、もしその人たちが暴虐(ぼうぎゃく)なる権力によってその権利を奪われ、抑圧されそうな時代に立ちいたったときには『人間の尊厳の危機』を憂えて、断固、それらの人々を擁護(ようご)しゆくことを決意しなければならない」と述べているように、人間を守り、人間性の真実に光をあてていくという一点は、学会・五十年の歴史を通じて、一貫して変わらぬ基本精神なのである。 時流に目をこらすならば、宗教も社会主義も、この人間の真の幸福という原点を忘れては、もはや存在意義ももたず、時の流れのなかで淘汰(とうた)されてしまうという本質が、浮かび上がってくるはずである。我々は、その時代の最先端をゆく人間原点の宗教こそ仏法であることを確信し、将来にわたって、創価主義の大道を歩みつつ、人類の平和・文化の建設に貢献していきたい。(副会長 青木 亨) (引用文の強調は筆者)
協定公表翌日の火消し いわゆる秋谷見解
協定を読んだうえで、秋谷見解を読んでほしい。また、秋谷見解を読んで協定を読み直してほしい。どのように感じるだろうか。
聖教新聞 昭和50年7月29日 創価学会と日本共産党との「協定」について 秋谷副会長にインタビュー 共闘なき共存へー 相互理解、話し合いで解決 昨日付本紙に発表した「日本共産党と創価学会との合意についての協定」は、日本の将来にわたって重要な意味をもつものである。そこで「協定」の基本精神、各項目の意義などについて、秋谷副会長に語ってもらった。 -創価学会と日本共産党の間で「協定」が結ばれたが、その基本的精神について。 秋谷 まず、二十数年間にわたり、とくに選挙のたびに起きた無用なマサツ、無意味な紛争を解消し、憎しみ合いをやめようということです。お互いに立場の違いを認め、相互の組織と運動の独立を侵さずに共存の可能性を確認したものです。それが何も、共闘を意図するものではないことは、前回の青木論文(七月十六日付)でも既に明らかにしている通りです。 また、学会は平和と幸福のため従来以上に全面的に公明党を支援していきます。この「協定」が、政教分離を踏まえて、日本共産党との間に結ばれた以上、公明党の路線にかかわるものでないことは、当然ですし、七月十五日夜の池田会長・竹入委員長の会談で双方合意された諸項目も全く変わるものではない。 -「信教の自由」についての「協定」の意味は・・・・・・。 秋谷 これは大変に大きな意味がある。それは「日本共産党は、布教の自由をふくむ信教の自由を、いかなる体制のもとでも、無条件に擁護する」とうたっている点です。幾多の社会主義国が宗教を敵視し、信教の自由に多くの制限を課してきた実例は、歴史上数知れないものがある。また、信教の自由を一応認めてはいても、いくつかの条件がついている。それを日本共産党中央委員会が、布教の自由を認めて、「いかなる体制のもとでも、無条件に擁護する」と社会に表明したことは、日本の宗教界に重要な歴史的証言として、将来にわたって日本共産党を拘束していくことになるでしょう。 学会の公明党支援に誹謗中傷行わぬ -「協定」の第三項に「双方は、たがいに信義を守り、今後、政治的態度の問題をふくめて、いっさい双方間の誹謗中傷はおこなわない」とありますが、どのようなことを意味しているのですか。 秋谷 「政治的態度の問題をふくめて」とあるのは、学会が公明党を支援するということに対しても「政教一致である」といった類(たぐい)の誹謗中傷は、いっさい行わないということです。 -「両組織間の相互理解に最善の努力をする」とありますが・・・・・・。 秋谷 これは、端的にいえば、憎しみ合い、泥仕合をしないということです。両組織間にまつわるトラブルは、話し合いによって解決するということです。 -「協定」の第四、五項では、「民衆の福祉の向上」「世界の恒久平和」への努力がうたわれていますが、どのようなことを意図したものですか。 秋谷 ここで明確にしておかなければならないことは、「それぞれの信条と方法によって・・・・・・」「たがいの信条と方法をもって・・・・・・」とその条件があることだ。学会としては、今までも独自の立場から、これらの人類共通の課題に取り組んできた。今後も、民衆の幸福と平和のための努力は、近視眼的なとらえ方ではなく創価主義を貫く立場で、従来と変わらぬ姿勢で進めていくことになろう。 ファシズムは中道勢力の拡大に -第六項に「双方は、日本に新しいファシズムをめざす潮流が存在しているとの共通の現状認識に立ち・・・・・・」とありますが「ファシズムをめざす潮流」とは? 秋谷 具体的にどの勢力を指すか、というよりも、現代社会の動向のなかに、ファシズムへの危険な潮流がみられるということです。「インフレはファシズムの温床である」といわれているように、長期的、慢性的インフレが、現在、日本列島を覆っていますし"管理社会"といわれる状況への"個"の埋没なども、この兆候でしょう。池田会長が第三十六回本部総会で「私どもがなによりも恐れなければならないのは、現在の様相が、あのナチスの台頭をもたらしたワイマール体制末期の状況に、あまりにも酷似しているという点であります」と述べたように、そうしたファシズムの潮流から"人間の尊厳"を守り抜くことこそ、仏法者の崇高な使命といえましょう。 より具体的に言えば「協定」にあるファシズムの危機を未然に阻止するとは、左右の激突を止め、自由と民主主義を守る日本に安定した中道勢力を拡大することが最善の道である。学会は、この立場で、左右を止揚しながらファシズムの危機を食い止めたい。 -共産党員の人たちが、入会を申し込んできた場合、どうすればいいですか。 秋谷 我々は、従来から政治的な意図や組織利用の目的で入会することを認めません。今回の「協定」でも前文に「相互の組織と運動の独立を侵さない」とある。もし、そのような意図をもって、組織のかくらんを計るようなことがあれば、それは協定に反することになる。私たちは、一人の人を根底から救う着実な折伏はするが、入会は厳格にとの基本方針を厳守してゆく。 -世間では今回のことを、創価学会と共産党とが手を結んだ、ととらえる向きもあるようですが・・・・・・。 秋谷 それは誤りです。今回の協定は、創価学会と共産党が、相互の立場の違いを踏まえつつ、話し合いと理解を重ね、共存の可能性を探ったものであって、組織的共闘を行うとはいっていない。 -今回の「協定」は、昨年十二月に結ばれたが、それがどうして七か月間も発表されなかったのですか。また、発表以外にまだ、合意事項的なものはありますか。 秋谷 「協定」である以上、こちら(学会)側が一方的に発表することはできないからです。また、この「協定」以外に何もありません。 -これによって、公明党の路線が変わるのではないかという意見が一部にありますが・・・・・・。 秋谷 さきに触れたように、今回の「協定」は、公明党の政治路線の在り方や展望にかかわるものではまったくありません。したがって公明党が、共産党との間で、憲法三原理をめぐる憲法論争を続けていくことは、政党間の政策論争として自由であり、当然のことです。 故に、我々も日本の政治の展望を政党間で議論している憲法三原理論争の意義について肯定しています。今回のことによって、公明党の政治路線になんら変わりないことは、公明党幹部も繰り返し明言しているところです。 (引用文の強調は筆者)
昭和50年8月20日 夏期講習会 壮年部代表者集会での池田会長講演 秋谷見解を公式に追認
(前略)一、私が宮本氏と会ったのは、作家の松本清張氏からの再三にわたるすすめがあったからであります。今回の「合意協定」についていえば、まず話し合いをしようということで野崎(総務)・上田(日本共産党常任幹部会委員)両氏の間で対話が進められていく過程で生まれたものであります。 この話し合いや「合意協定」についての学会としての見解は、すでに聖教新聞紙上で明らかにされている通りである。 もとよりこの「合意協定」は、これによってなんらかの具体的行動が成立するというものではなく、人類的視野に立って両者が合意できる点を確認したものであります。 したがってそこには、十年という長期にわたるタイム・テーブルを設定したし、相互の行動は、あくまでもそれぞれの立場で自由をもつものである。その意義から原則論的な合意点をまとめたものであります。 したがって、共闘の問題についてうんぬんされているが、宮本氏もそんな低い次元や狭い了見からではないことを私は知っている。 我々は日本共産党と共闘する意思はない。またいわゆる国民統一戦線に加わることも考えておりません(大拍手)。 共産党には共産党の目的と方法がありましょう。我々には「立正安国」という使命がある。すなわち、仏法の信仰をもちながら、人間革命とそれに基づく最高の文化社会の実現という仏法者の目的と方法がある。 我々はあくまでも我々の立場で平和・文化の建設に、また広宣流布に貢献できるよう、努力を重ねていきたい。 ここに盛られた緊張緩和(デタント)の精神が、どれだけ深化され、徹底されてゆくかを、十年間にわたって試みていく考えであります。ともかく、宗教と社会主義との共存ということは、まぎれもなく文明論的な課題である。双方、忍耐強く長い時間をかけて努力を続けていくべきものである、というのが、私のいつわらざる心境であります。 公明党を温かく支援 一、すでに各所で私の所信を明らかにしたところでありますが、政教分離を前提としたうえでの創価学会と公明党の支援関係は、従来といささかも変わりません(大拍手)。党を支える代表として、党の関係者と会えば、永年の同志、友人として激励もしたいと思っております。 一、また党が国民・社会のために真剣に努力していることは高く評価もしておりますし、今日の大発展を導いてきた現在の党の首脳並びに党員各位に対しては、心から敬意を表します。 また、党の方針については、党の民主的決定にしたがって思う存分やっていただきたい。とともに、短期間の間に、国民の間に広く定着した中道革新の信頼される国民政党として、更に国民のために成長し、歴史の流れのなかであくまでも国民の願望する方向を志向しながら、更に前進の活躍を祈るものであります。 どうか、激動しゆく日本の将来をあやまたないよう、確固たる展望を抱きながら、進んでいっていただきたい。そのためにも、我々はこれまで以上に応援もいたし、また、せねばならないと思っております。(後略) 於 創価大学体育館 聖教新聞 昭和50年8月21日(引用文の強調は筆者)
公表、即死文化「共闘なき共存」秋谷見解、その後、池田会長も秋谷見解を追認。しかし、共闘なき共存であれば、わざわざ協定を結ぶ必要がない。秋谷見解や野崎氏は、共産党に信教の自由を認めさせたのが重要というが、そのように片務的なものか。ご都合主義ではないか。敵視せずはどうなるのか。池田氏も死文化などしていないと。自らは反故にして、相手の誹謗しないなどの義務のみ言い募る、不誠実な態度といえよう。公明党は従来の反共路線を一層進めると。共産党の不満は当然だがもはや交渉担当者の野崎・志村両氏は雲隠れし、共産党とも仲介者の松本清張氏とも連絡を取れなくしてしまう。問題が起きれば話し合うと協定で定めたのにもかかわらず、話し合いにも応じず。
池田氏は話す人によって態度を使い分けている。ものわかりのいい外面、共産党宮本委員長や松本清張氏への態度と、内向きでは超強気・攻撃的に豹変する態度。矢野氏への言動も氏を説得するためあえてのものか。昭和50年1月6日、池田会長のアメリカ行きの前に車中で協定締結後の善後策を話した矢野・池田間の会話。本気で共産党と協力するんですかと問う矢野氏に「バカを言うな」「あいつらと本気で仲良くする気なんかあるものか。表面だけだよ。お前よく考えてみろ。自民党と共産党、両方敵に回せるか」「10年間、共産党を黙らせるんだ」と(「私が愛した池田大作」188頁)あげくのちに池田氏は公明党はもっと共産批判しろと竹入に言おうか、と。「自分から協定を結ばせておいて、この二枚舌。ひどい話である。」と矢野氏(同書193頁 2021.3.2引用を明記し、修正しました)
宮本委員長の皮肉
青木論文、協定の公表、公表と同時に協定を骨抜きにするような秋谷見解、翌月の池田会長の秋谷見解追認の後、その年(昭和50年)の暮れ、協定締結のほぼ一年後に共産党が第七回中央員会総会決議(1975年12月23日)で「共・創協定の一年間の経過にたって」を発表し(宗教問題についての日本共産党の見解と態度 所収- 51-58頁、1976年9月6日初刷 日本共産党中央委員会出版局)、創価学会と公明党の態度を批判。のち1980年(昭和55年)に協定は有効として5年後の再協定に言及した池田氏(前年に創価学会会長を辞任、当時は創価学会名誉会長)に対して、その感想を記者に問われた宮本委員長の発言を引用しておく。
「・・・池田さんが共創協定は死んでいない、将来も残していきたい、それから社会主義・共産主義と宗教は共存できるものだ、そういうことをいっていること自体は、むしろその積極面に注目したい。しかし、実際の共創協定の現実というのは、なにも解釈の違いがあって、一つは共闘といった、一つは共存といった、それが合わないからということで死文化したということではなくて、発表すると同時に、私どもからいえば理解しがたい態度を創価学会がとり始めた。いろいろな意見の違いがあった場合には、会って話そうということになっているのに、会うこともこばみ、従来の直接の当事者も直接連絡も避ける、そして事実上、共産党批判があの直接の公明党の重点的政策になったことが示すように、協定はふみにじられた、死文化しているというのがわれわれの解釈であります。 ただ池田氏の発言で、さきほどいった積極面があると同時に、非常に矛盾しているのは、一方においてそういいながら、公明党のいまの路線というのは、これは結構だと万事を肯定するといいますか、これはわれわれからいえば理解できない。共創協定の精神というのは、平和であるとか、反ファシズムであるとか、国民の福祉の擁護であるとか、そして相互の立場の尊重であるとか、共産党排除を明けても暮れてもいうような公明党のいまの反共路線とはおよそ両立しないものなのです。その公明党の路線も結構、竹入氏も結構、共創協定も結構、何もかも結構というのは、あまり大慈大悲がすぎて、われわれ凡人にはわかりかねるというのが感想であります。」
1980年3月13日 日本記者クラブ(共・創会談記 180頁)池田氏への痛烈な皮肉といえる。
評価
私は、前稿の最後に「勿論、創価学会の側に多大な反省と日本共産党、松本清張氏に対する真摯な謝罪がなされる必要があることも論じていきたい。」と記した。それは、創価学会の側から共産党に働きかけておきながら、協定を締結した後に創価学会が公明党の説得ができないからと自分たちの都合で反故にしようとしたり、協定を骨抜きにしたことにある。公明党との調整は創価学会において行うと約したはず。なのに公明党との調整を放棄、公明党とは政教分離しているからと開き直り、公明党の反共路線を放置し、協定は有効として共産党が創価学会を政教一致と批判しない義務があるとのみいいつのる。あまりにご都合主義な創価学会の態度。また、協定を反故にするため、「共闘なき共存」などという、意味不明な言葉で協定の内容を骨抜きにするような解釈、いわゆる「秋谷見解」を発表し、翌月、池田会長もその内容を追認する講演を行ない、協定は無内容なものと化す。その後、昭和55年(1980年)には、創価学会顧問弁護士であった山崎正友氏により昭和45年の宮本顕治宅盗聴事件が山崎氏主導のもと創価学会により引き起こされたことが暴露されるにおよび、両者の亀裂は決定的なものとなってしまった。協定が締結されただけでほとんど機能しなかった責任の所在は創価学会にある。
はたして池田大作氏は宮本顕治氏と真剣に対話する用意があったのか。当面の批判をかわせればよいとの懐柔策だったのではないか。また池田会長は配下の山崎正友創価学会顧問弁護士(当時)が中心となって行った昭和45年の宮本顕治宅盗聴事件を知っていたのではないか。知っていたなら共産党に対して不誠実のそしりは免れない。まして指示までしていれば協定それ自体が謀略というほかない。盗聴事件につき、北条氏が昭和45年の時点で山崎正友氏から報告を受けていたのは矢野氏が記している。(「二重権力・闇の流れ」206頁 文藝春秋 1994年9月1日 第一刷 発行)前述(破②で紹介した池田会長の宮本委員長、松本清張氏に対する発言)の、「北条はびっくりした」というのはその辺の事情もからんでいるように思える。北条氏の心労はいかばかりのものだったろうか。
共産党の山下文男氏は協定締結後、これで肩の荷がおりたと、歴史に残るであろう自身の仕事をかみしめながら祝杯を挙げていた。その後、協定が骨抜きにされてゆくのをどのような思いで見ていたのか。締結後の野崎・志村両氏の態度は変節にしかみえなかったであろう。そのあたりについては「共・創会談記」を読んでほしい。協定締結の過程につき創価学会から公表しない約束だとの批判に対し、山下氏の反論「守るべきは協定そのもの」はもっともで、返す言葉がないはず。それでも山下氏は「共・創会談記」で、「池田、野崎、志村は真剣だった、だますつもりには見えなかった」とも述べている。真面目で誠実な人柄を感じさせる記述で、私の眼にはむしろ共産党の山下氏の方が人の好い宗教家のように映る。宗教者は誠実であるべき、と。言葉もない。(2021.3.2 協定締結の過程につき以下一行ほど加えました)
組織対組織の交渉を、総務会等の正規の手続きを踏まず(調印時は総務会に諮ったというも)、青年部首脳のみに諮って相手のある話を進めた独断(意図的であろうが)。創価学会の内部対立、公明党への不信、竹入委員長の更迭をもくろみ、池田会長と青年部で政治に対しての主導権を奪い返そうとし、失敗。求心力を失い、さらに52年路線で辞任へ。池田・宮本対談だけなら、日程調整、対談事項・範囲のとりきめだけならば野崎・志村氏が交渉を担当したままでよかったのかもしれない。しかし、両組織で協定をとなった時点で創価学会は執行部で意思統一し、公明党との事前調整も必要であったはず。この辺は松本清張氏も入れ込み過ぎにみえる。へたに公明党に話さない方が良いと。しかし、共産党が政党である以上、創価学会と共産党との協定は勿論、宮本・池田対談でさえ、一定の政治性を帯びることは不可避だったはず。創価学会と公明党が分離されたといっても組織の末端で活動する人間が同じである以上、やはり創価学会と公明党は一体というべきで、宗教から、政治からといった事柄から眺めた場合の映り方の違いに過ぎず、一方が他方を抜きに何かをしようとしてもうまくいかなかった。それが図らずも露呈したのが創共協定、共創協定の顛末だったのではないか。そして細川連立政権を経て、自公政権から20余年がたった現在からみれば、その是非は別として、協定が頓挫したのも必然だったというべきか。協定が守られていれば、本格的な非自民政権が創価学会・公明党と共産党を軸にして誕生していたかもしれないというのは、あまりに夢想が過ぎよう。また、それは会員を今以上の政治闘争に駆り立てる修羅の道であったのでは。信義という意味では協定を貫くべきだったとはいえ、内部に盗聴などを行う連中をかかえているなら協定をいう前にまず綱紀粛正をしなければ話にならなかった。
池田氏を尊敬するあまり、氏を無謬の存在として責任を問いたくない人々の中には秋谷氏や公明党の竹入・矢野氏が池田氏の崇高な構想を理解せず協定を潰したと言い、池田氏を批判せず、秋谷氏や当時の公明党執行部の責任だと主張する人たちもいる。しかし、彼らは事実を精確に理解していないし、理解しようともしない。率直に事実を精査することから目を背けている。池田会長が8月20日の講演で共産党との共闘も、統一戦線への参加も否定した発言は創価学会の会長として、協定公表の翌日に出された秋谷見解を追認するもので、協定の空文化を認めるものであった。池田氏があくまで協定の実効性を求める立場であったなら、そのような発言はする必要がなかった。協定を反故にする気がなければ、あくまで協定の遵守を呼びかけるのが筋だったはず。公明党の竹入・矢野氏や学会執行部の秋谷・青木氏などの反対や懸念の表明で、池田会長も心変わりしたか当面の批判を封じることには成功し、当初の目的を果たしたと判断しての追認だったのだろう。
結び
北条浩氏、野崎勲氏は既に故人となり、竹入義勝氏、矢野絢也氏も政界引退後、かつての同僚や後輩たちに激しく悪罵され、創価学会を去った。秋谷栄之助(城栄)氏も総括され、会員の目の前で自己批判させられ、あげく会長を追われた。池田大作氏はお元気とだけ伝えられるが、もう何年も表舞台には出ず、たまに聖教新聞で紹介される写真も遠くからのもので本人かどうかも判別できない。現在の創価学会執行部が池田氏の現況につき末端会員に知られたくないし、知らせる気もないのは明らかだ。ジョージ・オーウェルの「1984」のように、今も都合の悪い歴史は次々と書き換えられていき、過去の事実を検証するには多大な労力を割かなければならない。無謬の「歴史」に疑いを持たねば平穏に暮らせようが、その「ムラ」は年々人が減る一方で、もはや永くは続かないとみるべきだ。
「おもしろうて やがてかなしき鵜舟哉」と矢野氏は芭蕉の句を引く。細川政権時の政局を評した「乱か変か」においてだが、筆者には鵜飼いの鵜と自らを自嘲気味に重ねているようにも読めた。(おわり)