昭和34年の統一地方選と結果、創価学会刊行書籍の不精確さ
54人の文化部員の経歴を調べていく中で、昭和34年4月の統一地方選挙の結果について確認した点についても記しておこうと思う。
昭和34年4月統一地方選 道県議会選挙
4名立候補、3名当選
宮城県議会 (仙台市) 渋谷政蔵
神奈川県議会(川崎市) 鈴木一弘
福岡県議会 (福岡市、早良郡) 鬼木勝利
北海道議会 (函館市) 能条康尊 定数5‐8位 落選
昭和34年4月 東京都議会議員選挙
11名立候補、3名当選
大田区 松尾 喜八郎
板橋区 宮沢 良雄
品川区 竜 年光 以上3名当選
新宿区 宇野津 定三(5‐8位)落選
北区 酒寄 安正(5‐8位)落選
墨田区 赤須 雪秀(4‐8位)落選
江東区 臼井 正男(4‐5位)次点
荒川区 藤野 良雄(4‐7位)落選
足立区 藤田 建吉(5‐6位)次点
葛飾区 片山 嘉太郎(4‐6位)落選
あと一人
世田谷区ではないかと思うも特定に至らず
世田谷区 丸山 忠(8-9位)次点(追加’24.5.25)
昭和34年4月の統一地方選挙、5大市議選
7名立候補、7名当選
横浜市議会 4名当選(神奈川年鑑昭和35年版)
鶴見区 森田悌二(二期目)
西区 小浜新次
南区 千代村彦雄
神奈川区 城台仙市
大阪市議会3名当選(大阪府年鑑昭和35年版)
東淀川区 大井満利
生野区 鳥養国夫
西成区 沖本泰幸
昭和34年統一地方選に言及する創価学会、公明党が発行した書籍の記述がことごとく不精確であることについて
昭和34年の統一地方選挙前半は都議選11、道県議選4、5大市議選のうち横浜市議選4、大阪市議選3の計22人立候補。当選は都議3、県議3、横浜市議4、大阪市議3の計13人。「創価学会年表」の23人立候補、都議選4人当選との記述(185頁)は誤りでこの年立候補しなかった小泉隆を勘定に入れてしまったのではないかと推測している。
人間革命第12巻(旧版)には、昭和「34年の全国地方統一選挙には、287名の学会推薦の候補者を立て、261名が当選をみた。」(403頁)と記されているのだが、この記述は不精確で、統一地方選前半の22人の候補者、13人の当選者を含めずに統一地方選後半の一般市議、特別区議選の候補者、当選者のみの数字が記されている(「創価学会40年史」も290余名の立候補、261名当選とあり、同様の誤りか)。人間革命第12巻(第二版)ではこの点につき、「310人の学会推薦の候補者を立て、275人が当選をみた。」(459頁)と訂正されてはいるのだけれども、それでも不精確で前半の候補23、当選14を前提にしており候補者、当選者を実際より1人多く計算している(「革命の大河創価学会45年史」は333人立候補、289人当選としているがこれは道府県議、5大市議選候補者23人、当選者14人としてそれを二重に計上したが故の誤りではないか)。
前述のように昭和34年統一地方選前半の都議、道府県議、5大市議選については22人立候補、13人当選が事実なので、統一地方選後半の287名立候補、261名当選との記述が精確なものであれば、309人立候補、274人当選という結果が精確な表記だということになろう。精確でないなら今からでも当時の候補者、当選者を一から数え直すしかない。
この点につき、「公明党50年の歩み増訂版」では都議3人と訂正されてはいるが今度は「全国で合計293人の議員数を擁することになった。」(23頁)との記述がわからない。計算が合わないのだ。都議3、県議3、政令市議7、東京特別区議76、一般市議185。特別区議+一般市議=261、3+3+7で13足して274。参議院9人足しても283。統一地方選挙以外の時期に行われた議員の数でも足しているのかとも思ったのだが、28頁には昭和36年の公明政治連盟結成時の議員数として「参院議員9人、都道府県議7人、市区議268人の計284人である。」とあり、昭和34年4月の293人から10人辞職して都議、県議の補選で1人増えないと合わない計算になる。加えて宮城県の渋谷政蔵県議は昭和36年11月26日、公明政治連盟結成の前日に逝去されている。それだと都道府県議7人は2人増えないと計算が合わない。なので私はこの時点の都道府県議7人というのは都議4、県議3の誤った数のまま計算してこの時点の精確な議員数を調べ直した記述ではないと推測している。なぜかというと「公明党50年の歩み」23頁の「293人」、28頁の「284人」という記述はいずれも昭和44年刊行の「公明党の歩み」(松島淑、谷口卓三編、公明党機関誌局発行)の記述をそのまま孫引きしたものだと思うからだ。ただ「公明党の歩み」では昭和34年の議員数につき「合計293人の地方議会議員」と記していて統一地方選以外の時期に選出された議員を数に加えているようにも読めるのに昭和36年の議員数を市区議268+都県議7+参議院9=284人とするのでは矛盾する。統一地方選以外に選出された議員を加えれば昭和36年には300人くらいにはなっているのではないか。せっかく歴史をたどり、本にまとめるなら孫引きなどせず少しは身を入れて史資料を吟味して編纂すべきだと思うがそのような努力の跡はみられない。
昭和34年の統一地方選挙の結果については創価学会および公明党の発行したどの書籍においても何かしらの誤りがみられ、精確な記述がされているとはとても言い難い。創価学会40年史、創価学会年表、革命の大河、人間革命第12巻の旧版、第二版と、どれ一つとして選挙結果を精確に記している書籍はない。数字が錯綜し、計上もれ、二重計上、不精確な結果の記述など、どの数字が精確なものか一読では判断がつかない。昭和34年4月前半の都道府県議選、5大市議選に22人立候補、13人当選と、後半の一般市議、特別区議選に287人立候補、261人当選との記述が軸になると思う。ただ、後半の一般市議、特別区議選は筆者も全てを確かめたわけではない。
これだけ結果の記述が違ったまま現在にいたっているという事実自体も驚きだが、すくなくとも人間革命第12巻の第二版は正確を期して記述したのであろうから、それでもきちんと訂正できていないということが選挙の結果すら当選のみ報じ、落選には極力触れず、事実をありのままにきちんと報じようとしてこなかったことの顛末と言えるのではないか。結局、過去を記録して残す、事実を精確に記述するという史資料をまとめるにあたっての基本すらいつの間にか、いや、もうすでにできなくなってしまっていることの証のように筆者には思えた。
追記 昭和34年聖教新聞縮刷版を踏まえた訂正と筆者の記述も不精確であったことの反省
幸運にも昭和34年聖教新聞縮刷版を参照することができ、疑問もある程度解消することができたのだけれども、新たな疑問も生じた。当初は本文を訂正して対応しようと思ったのだが、それではどうして筆者がこういう不精確な記述をしてしまったのかもわからなくなると考え、記述は基本そのまま(ただし世田谷区の候補者だった丸山忠の名と結果のみ本文に記載)で新たに判明した点を追記することにした。
まず、昭和34年4月の東京都議会議員選挙において創価学会推薦候補は12名、当選者は4名であった。したがって、「創価学会年表」の23人立候補、都議選4人当選との記述(185頁)は誤っておらず、精確であった。
ただし、現在では昭和34年当時、創価学会推薦候補として都議選に台東区から立候補し、当選した大久保重直について全く紹介せず、例えば「公明党50年の歩み増訂版」のように都議3人当選とおそらく大久保を除いた結果を記述している。大久保重直が昭和34年都議選において創価学会推薦候補として立候補し、当選した過去をなかったかのように消去しているので「創価学会年表」の23人立候補、都議選4人当選の記述が誤っているように思え、公明党50年の歩みが誤りを訂正したように思えていたということになる。大久保重直は戦前からの政治家で公職追放も受け、昭和38年からは都議会議長を務めてもいる。昭和34年の都議選立候補時には前東京都議、台東区総ブロック幹事と紹介されているが、おそらく選挙のために創価学会に入会し、当選後(1位当選であった)は創価学会推薦議員と行動を共にせず、自民党に所属したというような経緯だったのではなかろうか。
ただ、そうすると昭和34年の統一地方選挙における立候補者数および当選者数を表示するにあたり、大久保重直を立候補者及び当選者に含めて計算するか除いて計算するかにつききちんと説明しておかないと数字が合わなくなる。筆者が「創価学会年表」の23人立候補、4人当選の記述が精確なのに誤りだと誤認したのは大久保重直が昭和34年都議選において創価学会推薦候補として立候補し、当選した事実を知らなかったからである。よって、その後の動静も含めて立候補者および当選者数を記すとなるとこのように事実がわからなくなる。やはり最初からいなかったことにするのではなく、勘定に入れたうえでその後の顛末も記すというのが妥当な記述態度なのではないか。
結局、昭和34年の統一地方選挙については、前半は都議選12、道県議選4、5大市議選のうち横浜市議選4、大阪市議選3の計23人立候補。当選は都議4、県議3、横浜市議4、大阪市議3の計14人。「創価学会年表」の23人立候補、都議選4人当選との記述(185頁)の通りだが、台東区選出の都議、大久保重直は創価学会推薦候補として立候補し当選したものの、その後は創価学会推薦議員と行動を共にせず、自民党に所属してしまったということか。
統一地方選後半は一般市議、特別区議選に287人立候補、261人当選し、全体としては、人間革命第12巻(第二版)の「310人の学会推薦の候補者を立て、275人が当選をみた」のだが、上記のように都議1人が自民党に所属し、創価学会推薦議員としては活動しなくなったので、実質的には309人立候補、274人当選というような結果になり、その事実が不都合なので大久保の存在をなかったかのようにしていくうちに精確な人数を検証することが難しくなっていってしまったという事だと思う。
また、昭和36年の公明政治連盟結成時の議員数として「公明党50年の歩み増訂版」に「参院議員9人、都道府県議7人、市区議268人の計284人である。」とあるのはおそらく昭和34年の統一地方選挙の当選者275人に参議院議員9人を加えた284人という数であり、都道府県議7人には大久保重直も公明政治連盟結成の前日逝去したはずの渋谷政蔵も議員数に加えているものと思われる。なので統一地方選挙の時期以外に行われて当選した議員はやはり勘定に入っておらず、公明政治連盟結成時の精確な議員数を知りたければ今からでも勘定し直すしかないということなのだろう。聖教新聞縮刷版があと4冊あれば・・・・・・
追記2 大久保重直と大久保との関係について
台東区に再び都議会議員候補(森川清次)を立てたのは昭和40年。昭和38年には候補を立てず、大久保重直を推薦してもいない。「公明党の歩み」では昭和34年都議選は11人立候補、3人当選とすでに大久保を除いている(14頁)。 大久保重直は創価学会に非常に顔が利くとの記述がある。文化評論(昭和51年)ただし本文は未見。どうやら喧嘩別れではなく、協議離婚のようなものだったのか。都議会議長になった大久保のもとに水道料金値上げ反対の請願の署名を届けるようなこともしている(「公明党の歩み」61頁)。大久保は、都議会議長になるだけあってしたたかな人物だったようで、敵対するよりなかったこととして収めたのだろうかと思う。
それはそれでかまわないとしても、事実をなかったことにする態度はいただけない。昭和34年の都議選では推薦したがこういういきさつで以後は創価学会の推薦は受けず(あるいは公明政治連盟には加入せず)、自民党に行った等の説明をすべきだった。昭和34年の都議選が12人中4人しか当選できず、敗北というほかなかっただけに余計語られなくなってしまったのだろうか。参考の為、大久保重直の政治経歴を記しておく。
大久保重直(明治29年-昭和41年 享年69歳)山梨県、昭和2年下谷区議、昭和9年浅草区議、昭和12年東京市議、昭和15年東京府議、昭和18年東京都議会議員(浅草区)、昭和22年公職追放、都議失職、昭和26年都議2期(台東区、無所属)、昭和30年都議3期(台東区、無所属、5位最下位当選)、昭和34年創価学会推薦、都議4期(台東区、1位当選)、昭和38年都議5期(台東区、自民党、4位)都議会議長(第19代、昭和40年まで)、昭和40年都議6期(台東区、自民党、4位)、昭和41年任期中逝去。