創共協定あるいは共創協定について  参考文献と追記

参考文献

松本清張 「『仲介』者の立場について」東京新聞 1975年8月9日 「松本清張 社会評論集」所収 講談社文庫 昭和54年(1979)10月15日 第1刷発行   松本清張 「『創共協定』経過メモ」文藝春秋 昭和55年(1980)1月号      松本清張「作家の手帖」所収  文藝春秋 1981年3月25日 第1刷

「宗教問題についての日本共産党の見解と態度」 日本共産党中央委員会出版局 1976年9月6日 初刷                      山下文男 「共・創会談記」新日本出版社 1980年6月15日 初版

「聖教新聞縮刷版」 昭和50年7月~8月 通巻第80号 聖教新聞社 昭和50年(1975)10月1日発行                        「創価学会年表」 聖教新聞社 1976年7月3日発行                            「年譜 池田大作」 第三文明社 昭和56年(1981)1月2日 初版第1刷発行      

野崎勲 高瀬廣居「対論 日本における政治と宗教」財界通信社 1995年5月31日 第1刷発行                            矢野絢也「私の愛した池田大作 」講談社 2009年12月21日 第1刷発行       矢野絢也「二重権力・闇の流れ」文藝春秋 1994年9月1日 第1刷             矢野絢也「黒い手帖」講談社 2009年2月28日 第1刷発行                   矢野絢也「乱か変か 」毎日新聞社 1994年3月1日発行                          矢野絢也vs 島田裕巳「創価学会 もうひとつのニッポン」講談社 2010年11月18日 第1刷発行

外山四郎「矢野絢也全人像」行政問題研究所 1981年2月1日             外山四郎 飯塚繁太郎共著「宮本顕治と池田大作」 一光社 1975年8月15日 初版

室生忠「創価学会・立正佼成会 新興宗教の内幕」三一書房 1979年1月31日第1版第1刷発行

河田貴志「新公明党論」 新日本新書 1980年3月30日初版

有田芳生「現代公明党論」 白石書店 1985年11月5日 第1刷発行 

追記1 創共協定の動機について 大石寺の違法手続きによる土地大量取得問題 農地から別の用途への転用は難しく、権利移転や転用には農地法上、知事等の許可が必要。にもかかわらず大石寺は昭和30年以降土地を取得する際、無許可や他人名義等、違法な手続きで取得を重ね、帳簿等もずさんで、正本堂設立の際の土地取得と合わせ対策の必要性が生じていた。昭和49年4月の山崎(正友)・八尋によるレポートでは、大石寺の土地大量取得につき共産党が地元議会等で取り上げ、問題にされる危険性を報告している。この問題で共産党に批判される現実の危険性を池田会長は感じたはず。昭和49年は妙信講(現在の富士大石寺顕正会)との第二次抗争時で日蓮正宗ともかなりぎくしゃくしており、その上共産党にこの問題をつかれると宗門とも余計こじれることが予想され、何が何でもそのような状況に陥ることは避けたいと考えても不思議ではない。むしろそのために協定を結んで、党はともかく、少なくとも学会と共産党とは休戦できればと思ったのだろうか。大石寺の土地取得手続きを共産党が取り上げて社会問題化するのを避けたいという狙いが共産党との接近の動機のすべてではないにしても、一つの要因としてあったのではないか。

追記2 共・創会談の3条件 創価学会による言論出版妨害事件の頃の実現しなかった池田・宮本会談の試みの際に、仲介者(松本清張氏や五島昇氏)からか共産党からかは不明だがとして矢野氏が挙げた3条件①言論妨害を認め、謝罪する②政教分離or自民党寄りを改める③竹入委員長の更迭、につき山下氏は「とんでもないデマだ。」としており(共・創会談記 160頁)、山下氏の主張が事実であれば、仲介者も共産党もそのような条件を出していないこともあり得る。その場合は池田会長か池田会長の意向を忖度した側近が、池田会長との間に言論問題の処理を巡って確執の生じた竹入委員長の更迭をもくろみ、公明党サイドに相手からの条件と偽って竹入委員長の辞任を促そうとした可能性が考えられる。政教分離の建前から辞めさせたくても辞めろと直接言うわけにはいかなくなり、宮本委員長と対談して共産党からの批判を逃れたい、ついては会談実現のため、反共姿勢が強硬な竹入委員長は退いてほしいと言ったが対談自体が流れてこの試みはうまくいかなかったということか。昭和45年の言論出版妨害事件の発覚時、昭和47年の衆議院選挙の惨敗、昭和50年の創共協定の公表前後と数年にわたって竹入委員長の更迭論はくすぶり続けた。結局、竹入委員長を更迭する前に池田会長自身が昭和54年に創価学会会長を辞すことになる。

追記3 総務会代表者会議 「学会の発表によると、十年協定は調印の前日、つまり七四年十二月二十七日に、北条浩理事長の主宰で四一名の総務会代表者会議がもたれ、その席上で調印を了承したことになっている。」(創価学会・立正佼成会84-85頁 共・創会談記)とある。しかし、この総務会代表者会議、実際に開かれたのか、開かれたとしても共産党との協定につき説明、調印を了承したものか疑問が残る。実際に開かれ、41人も出席者がいれば出席者の誰かから当日のうちに竹入・矢野氏の耳に入ったはずではないか。公明党の竹入、矢野氏は協定締結から3日後の昭和49年12月31日、竹入委員長は北条理事長が直接公明党本部に説明に赴いて北条理事長から協定締結の事実を知り、矢野氏は大阪に帰省中、党本部の竹入氏に年末の挨拶の電話をした際に竹入氏から協定締結につき知らされたとしており、その際、「あまりのことに受話器を取り落とすところだった。」と記している(矢野絢也「私が愛した池田大作」182頁)。年表で確認できる総務代表者会議の日付は12月26日(創価学会年表)。27日との記述は「創価学会・立正佼成会」と同書を引用した「共・創会談記」。1日違いとはいえ、気になる。松本清張氏も山下文男氏も協定締結直前のこの時期の出来事を詳細に記しているのに野崎氏から総務会で了承を得た旨の報告を受けたとの記述は両者ともない。学会の説明は虚偽か、総務会が形骸化し、出席者も内容がよくわからないような儀礼的にすぎないものであったか、41名もの出席者がいてたった数日でも公明党の議員、特に竹入、矢野氏には絶対に漏らすなとかん口令を敷けたものか。調印を了承と言っても、26日夜の話し合いでも協定の合意ができず、27日に双方持ち帰りトップの意向を聞き、28日に至ってもまだ「創価学会は公明党を支持する云々」との一文を入れる入れないで議論している。結局、捺印もその日に両者の法人印にしてはどうかとの松本氏の助言を受けて池田宮本対談が行われる翌29日に持ち越すなど、協定の成立自体が締結直前まで破談寸前で先が見通せない状態だったことも併せ考えると、総務会代表者会議が26日27日のいずれであったとしても、了承すべき協定がその時点では確定していないのだから、野崎氏は、北条理事長のみに話して法人印を拝借しただけで、総務会代表者会議を開いて協定を承認というのは事後、外部向けの建前だったのではないかと思えてならない。その後の野崎・志村両氏のはしごの外されようからしても。47年後の今となってはもはや知るすべはないのかもしれないけれども。

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