「追撃の手をゆるめるな」は戸田城聖の遺言ではない

「追撃の手をゆるめるな!」

 戸田城聖逝去の翌日、昭和33年4月3日の豊島公会堂での本部幹部会において池田参謀室長は、「追撃の手をゆるめるな!」との戸田の最後の指示を受けたと紹介し、自らの挨拶を締めくくるにあたって、以下のように述べた。

 青年部に最後の指示をくださったのは、三月の二十九日、この日、ある人物がお小僧さんをいじめ創価学会を非常にバカにしている存在の人がおりました。その人物と青年部は戦いました。その報告を会長先生に申し上げましたところ、おやすみになっておられた会長先生は、毅然としたお姿で、
『一歩も退いてはならんぞ、追撃の手をゆるめるな、一歩も退いてはならんぞ、追撃の手をゆるめるな!』というご指示を受けたのでございます。
 この先生の御指示を、広宣流布の日まで、わが青年部の闘争の源泉としていくことを決意といたしまして、終わりとします。(当時、参謀室長)(「会長講演集第三巻」創価学会 昭和36年11月5日初版発行 272-274頁)

「あれはオレがつくったんだ」と

 しかし、原島嵩著「池田大作先生への手紙」に、原島が池田本人に直接聞いた話として、以下の証言がある。

たとえば、戸田先生が最後に遺言として残されたとする有名な言葉「追撃の手をゆるめるな」というのは、池田先生がつくった言葉です。有名な的場事件(ご僧侶つるしあげ事件=事の真相は学会で説明しているのとは違うが、省略します 筆者注)があったときに、池田先生が戸田先生に伺った言葉として、それが一つの学会精神のバックボーンになっていったのですが……。それは私にも他の人にも「あれはオレがつくったんだよ」と明確に、真実を語ってくれました。もちろん、一般会員の方にそんな”真相”は明かしません。あのとき戸田先生は「みんなで仲良くやっていきなさい」といわれたというのです。
原島嵩「池田大作先生への手紙」晩声社 昭和55年発行 106頁(引用文の強調は筆者)

 この事については、原島嵩著「池田大作・創価学会の真実」においても、同様のことが、時期や人物等、より詳細に記されている。

たとえば、戸田会長が昭和三十三年四月二日に逝去されます。そのときの最後の遺言は「追撃の手をゆるめるな」ということになっています。私は、今にも亡くなっていく、衰弱しきった戸田会長が、このような遺言をするはずがないと思い、昭和47年ごろ、池田に直接確認したのです。「先生、本当に戸田先生は”追撃の手をゆるめるな”と言われたのでしょうか」といった質問をしました。それに対し、池田は平然と「あの言葉はオレが作ったんだ」と語ったことがありました。私はびっくりしました。あれだけ創価学会員ならだれでも知っている戸田会長の遺言「追撃の手をゆるめるな」が、誰あろう池田の作った言葉だったとは!この言葉は、時として宗門に向けられたり、創価学会を批判する人たちに向けられたりしました。それより以後になりますが、昭和55年当時、中西治雄総務(すでに私は造反者として扱われ、中西氏が私の窓口になっていた)にも同じ質問をしました。「戸田先生の最後の遺言は何だったのですか」と中西氏に同様の質問をぶつけると中西氏は、「みんな仲良くということだった」と答えたのです。(以下略)
「池田大作・創価学会の真実」2002年刊行 74-75頁。

 原島嵩は、山崎正友と並んで反逆者の双璧だと筆者などは教えられてきたが、「池田大作先生への手紙」を読むと真面目で責任感の強い性格が窺える。池田大作氏と創価学会への愛憎が強く感じられ、同書に記された池田大作語録としての多くの証言は側近として仕える間に原島が池田から直接聞いた事実なのだろう。本人が”心の叫び”と記すだけはある。例えば言論出版妨害事件の謝罪にあたっても、「関係者の方々に直接お詫びにいきたい」というのをどうしても入れたい、と言いつつ原島には、「『タカシ!いいか!必ず仇をうて、いつか、この本は何だ!と本人の前にたたきつけるのだ』と、それは恐ろしいけんまくで言うのでした。」(「池田大作先生への手紙」40頁、43頁)と。この証言は、関係者への謝罪がついぞされないどころか創価新報で既に逝去した後にもかかわらず藤原弘達氏への激しい批判が蒸し返されたことからしても池田氏の本心がどちらにあったかは明らかだ。筆者も、過去「仇を討て!」と言われた会合に居合わせ、池田氏の紙面等での誠実な言説とは裏腹な社会に対する屈折した、激しい憎悪を示す氏の二面性を強く感じさせられたことがある。

 原島嵩氏は昭和13年生まれで翌14年、1歳で創価教育学会に入信。母、原島せいさんは夫、原島宏冶氏の酒癖の悪さと生まれたばかりの次男嵩氏が病弱であったことに悩んで日蓮正宗、創価教育学会に入信したというのであるから、原島嵩氏が入信のきっかけといえ、嵩氏は最初の創価学会二世とでもいうべき存在である。
 創価学会で純粋培養され、世間知らずで皆の顰蹙をかう言動も多く、特異性格の持ち主だが学会を愛し、「先生」への忠誠は一途だったとは福島源次郎氏の評。また福島氏は山崎弁護士の離反は彼の行状や人となりから不思議ではないが原島君は生え抜きの池田門下生で、原島氏の離反は少年の頃から彼を可愛がり、若くして要職に抜擢した池田氏の責任も大きいと述べている(福島源次郎「蘇生への選択」鷹書房 平成2年刊行 51-53頁)。

 実際、原島嵩氏は池田大作氏が創価学会会長に就任した翌日、昭和35年5月4日に原島宅を訪れた池田氏に師弟の道を説かれ、「君は私の弟子になるか。弟子というものは、師匠が地獄の相で死んでいったとしても、疑わず、自分も共に地獄へ行くというのが弟子だ。その決意が君にあるか。」と問われ、瞬間、「はい」と答えて池田会長の弟子として生きることを氏に誓ったという(「池田大作先生への手紙」180頁)。中学生の頃から御書を読み、創価学会の教学部長を昭和43年、30歳の時から務めてきただけあって、同書での御書や教義を挙げての指摘は現在読んでも説得力がある。法四依、依法不依人に基づく池田大作、創価学会批判は反論しようがないとも思う。しかし同書における池田大作批判、創価学会批判は同時に過去の自分を過ちと断じ否定することでもある。同書出版後の原島嵩氏の動向を見るにつけ、筆者は自己批判のあまりの重圧に原島氏自身が耐えきれず、自壊してしまったとの印象を受けた。

「みんな仲良く」

 逝去の前、「妙法の広布の旅は遠けれど 共に励まし とも共に征かなむ」と詠んだ戸田城聖が、遺言として残した言葉が「追撃の手をゆるめるな」か、「みんなで仲良くやっていきなさい」だったかは一目瞭然だと思われる。原島嵩の証言を疑うまでもないことなのではないか?
 はたして創価学会は、戸田城聖の真の遺言通り、「みんな仲良く」やってこれただろうか?

筆者注 的場事件について 原島嵩氏は著作にて事件の説明を省略していた。自ら直接池田氏に質した原島氏には「あの言葉はオレがつくったんだ」との返事で十分だったのだろうが、「追撃の手をゆるめるな」との言葉が戸田の遺言か否かについては的場事件がどういう事件だったのか、学会と的場氏双方の言い分を検討することが必要ではないかと筆者は考える。
 日蓮正宗大石寺の所化頭、的場正順氏が酔って所化を苛めているのを諫めたというのが当時の池田参謀室長、創価学会側の説明なのだが、事件の真相は違うようだ。昭和33年3月29日(溝口敦「池田大作権力者の構造」講談社+α文庫 2005年183-185頁で引用された的場正順氏の一僧侶にあてた手記によれば3月23日)、大講堂落慶法要の際、大石寺の大坊に宿泊していた青年部員たちが、僧の卵ともいうべき所化にチップがわりに菓子やソバ代を出すなどしてタバコを買いに行かせるといった使い走りや私用を言いつけ、「正宗の坊主も邪宗の坊主となんら変わりない。ものさえ与えれば、いうことを聞く」などと話しているのを見聞きするに及んで、所化を指導する立場である所化頭の的場氏が青年部に「大坊は一人前でない僧が法主の指南で修行する場所であって、本来が青年部員の起居するところではない。教育にさわるような真似はやめてほしい。」などと再三注意を促したところ、反省の意が見られないので、さらに戸田の「宗教界の王者は私だ」との発言は日蓮や本尊、宗門の法主をさしおいて僭越ではないか、寺内は下馬下乗、法主でさえ山門を出るまでは乗り物は利用できないのに車駕に乗るとはどういうことだ、などと糺したところ、青年部は謝るどころか池田参謀室長の指令の下、意趣返しとして大人数で的場氏を吊し上げ、白衣を脱がせ、かわるがわる馬乗りになりながら的場氏の顔を川の水の中に漬けるといった私刑(リンチ)まがいのことを行ったというものである。的場氏の手記が事実であれば的場正順氏には全く非がなく、本来なら青年部の方が謝罪して以後行動を改めるべき事件だった。この事件を正当化するために所化頭が酔って所化を苛めていたなどと事実と異なるウソをついたり、戸田の「追撃の手をゆるめるな」との言ってもいない遺言を捏造したりしたものと思われる。特に的場氏に車駕の乗り入れを批判されたことは、自身も戸田に車駕の件で叱られ、痛い所をつかれて青年部の手前面子をつぶされた形の池田氏にとっては我慢ならなかったのだろう(週刊文春昭和52年9月1日号に的場正順氏の手記が載っていると。孫引きで不本意だが、溝口敦「池田大作権力者の構造」183-185頁、web上の記事では「気楽に語ろう創価学会非活のブログ」 2018年12月20日記事「的場正順氏の身に起こったこと」が参考になる)。また、逝去数日前の戸田城聖はとても会話ができる状態ではなかった、3月29日は体調を崩していた戸田が静養する理境坊に池田大作は姿を見せていない、との原島昭(原島嵩の兄)「池田大作と原島家」による証言もある(同書110-119頁)。
 正直に言うと、筆者自身も池田大作氏は戸田城聖が逝去した翌日に本当にウソを言ったのか、師の遺言を捏造するほど非常識で恩知らずな人だったのか、という思いを持ってはいる。しかし、以前の拙note「会長就任挨拶のウソ」でも検証したように、池田大作という人はここぞという時に平気でウソがつける人物だったとしか評価のしようがない。「追撃の手をゆるめるな」は、突然の戸田の訃報に接し悲嘆にくれる会員たちを勇気づけ、鼓舞したのだろうし、「あと7年で300万世帯」は会員に具体的な目標を与え、「時来らば衆議院にも出よ」は飛ぶ鳥を落とす勢いだった当時の創価学会員の総意であったろう。一方で数多の選挙違反事件、言論出版妨害事件、宮本顕治共産党委員長宅盗聴事件、本尊模刻や教義違背がもたらした二度にわたる日蓮正宗宗門との激しい抗争、狂乱財務や乱脈経理、幹部の腐敗や学会自体の金銭的不祥事、多くの弟子達や最高幹部の離反と彼らに対する常軌を逸した誹謗中傷……
 池田大作氏の真の評価は歴史がするのだろう。その為に事実が何か、筆者はあくまでも事実を検証したい。たとえそれが自らの意に沿わない、正視するのに耐え難いものであったとしても。


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