野島辰次遺稿集「我が心の遍歴」と福田久道「私の小説」 ー語られてこなかった創価教育学会「悪漢倶楽部」ー
野島辰次遺稿集「我が心の遍歴」と、福田久道の手記「私の小説」とを読む。昭和15年頃からの創価教育学会、獄中体験、戦後の再建当初の創価学会や、野島や福田が戸田と袂を分かつ過程について詳細に記されている。特に創価学会が従前全く明らかにしてこなかった戸田をはじめとする経済人たちの酒、金、女に関する不行跡、生活革新同盟倶楽部の宴席では業績が低迷したり、借金が返せなかったりする会員(福田)をさらし者にし、皆で悪罵する等の醜悪ないじめ、時に喧嘩や暴力にまで及んだ(野島188頁)こと等については初めて知ることばかりで、正直筆者は戸田城外および、それを咎めもせず傍観していた牧口常三郎に対しても激しい幻滅と嫌悪を覚えた。野島辰次の手記は三部に分かれ、幸福への路ー有頂天時代ー、獄中記、宝塔崩るる日、からなる。
福田久道の手記は、芝川(編集責任者 廣田頼道)というHPに掲載されている。廣田頼道は正信会僧侶とのことで、創価学会はこの手記をデマだと言いそうだが、筆者は他の資史料に照らしても記述に整合性があるし、当時の状況や、己の心情を赤裸々に述べたもので概ね事実だと判断した。ただ、福田久道の手記のタイトルを編者である高妻明憲は「創価教育学会の回想‐私が接した牧口会長・戸田理事長の実像」としているが、福田自身は手記に「私の小説」と名付け、「my faith document 私の信仰(告白)文書」とも述べているので、今回筆者がこの手記を紹介する際には元の手記名に戻した方がよいと判断した。たしかに福田久道の手記の編者高妻明憲には手記の出版・公開時期(2010年)が日蓮正宗宗門と訣別後互いに激しい批判を行っていた時期のことでもあり、創価教育学会の暗部を告発する意図があったのだろう。しかし、手記を執筆した福田久道には、創価教育学会の実態の記述や、牧口、戸田に対する厳しい批判もみられるものの、それらも含めた彼らを巡る人間模様や、自身の関わりについての心象風景、反省、悔悟などを描いていて、それが「私の小説」といったタイトルにあらわれているのではないかと感じたからである。その意味では父の遺稿に「我が心の遍歴」との表題をつけた野島辰次の子である大和瞳氏も、生前父はこの手記の出版を企図していたと思うとの父の遺志を汲んだだけで、別の意図、例えば自らが創価学会を告発したいがため父の遺稿の出版を企図したというのではなかったのかもしれないと筆者は感じている(もっとも、大和氏の周囲の法華講の人々には戸田氏や創価教育学会の戸田を取り巻く連中の悪癖を告発する意図しかなかったのだろうが・・・)。
そうであるならばこのように著作を紹介することも著者や編者の意図に反すると言うべきか、このnoteを一通り書き上げた後で公開する際に考えてしまい、しばらく時間を置くことにしたのだが、野島辰次遺稿集は自費出版のうえ、すでに絶版と思われ、福田久道の手記もやはり戦前の創価教育学会を巡る状況を描いたものとして非常に希少で貴重な資料だとあらためて考えるに至り、筆者の読後感を記したものとして公開しておくことにした。
戸田の創価教育学会の会員相手の金融で事業家として息を吹き返すことができたのが野島辰次だとすれば、逆にそれでも業績が好転せず、蜘蛛の巣にからめとられ、蟻地獄のように借金また借金にハマっていったのが福田久道だといえよう。なので、野島辰次はやがて創価教育学会でも幹部(副理事長)として頭角を現し、福田久道は創価教育学会内の出版人が集う生活革新同盟倶楽部の夜毎の酒席で常に周りからの悪罵、吊し上げに遭い、福田久道の創価教育学会での思い出は何かにつけて陰惨で思い返すたびに我慢できないといった後悔の体験になっていってしまう。
野島辰次は創価教育学会内の戸田を中心とする経済人たちが会員相手に行っていた金融業や、戸田はじめ連中の酒癖の悪さ、女遊びの行状の酷さが創価教育学会や牧口会長の社会的評価を下げ、当局による一斉検挙を招いたとして、戦後、戸田に総括を求めた。しかし満足いく回答を戸田から得られず、戸田の再建しようとした戦後の創価学会に加わることをよしとせず、法華講にて自身の信仰を全うした。
野島は手記で戸田と経済人連中の酒、女遊びを「待合びたり」と批判した。待合とはいわゆるお茶屋遊びと、そこでの買春行為を指す。なじみの料亭の女中に待合をやらせたりもしたと。戸田は妾を自らの会社の金庫番にし、子もいた。会員相手の金融も戦後、東京建設信用組合の破たんで会内は混乱、一時的に戸田城正と改名したり、債権者から逃げるため身を隠し、雲隠れしたりもした。のちの大蔵商事の金融も余裕のある学会員から出資を募り、それをまた学会員に貸し付けるといった業態であった。戸田の酒癖、妾関係、それを真似て恥じない戸田の周囲の経済人たち。「さてこそ彼の本妻はいつも寂しそうな顔をしていたのだ。」(189頁)との一文。
野島の手記は現在では決して語られることのない創価教育学会の暗部を赤裸々に描いている。そしてそれは野島がどうしても書き残しておきたかった事なのだろう。
野島辰次氏は創価教育学会理事、のち副理事長。戦前の創価教育学会では会長牧口、理事長戸田に次ぐ立場の幹部だったようだ。特高の取り調べについても自分が日蓮正宗、牧口の価値論について説明しないと刑事は理解できないだろうと対応していた様子が窺える。以下に遺稿集の著者略歴を引用しておく。
明治25年(1892年)東京本郷元町松平伯邸内にて出生、父三八郎(松平家の家臣)母せいの四男。明治32年(1899年)本郷尋常高等小学校―京華中学―慶大理財科中退。大正9年(1920年)―大正15年(1926年)時事新報記者、その傍ら文筆生活をする。「現代文学」「芸術運動」「太陽」等に作品をのせる。大正14年ー昭和4年「不同調」同人となる。昭和4年5月―8月「今日」を編集発行する、出版社「章華社」の編集業務にたずさわる。昭和7年、「日本ファシズム連盟」結成、機関誌「ファシズム」発行。昭和11年章華社編集長を辞任、同年出版社「大都書房」を創業。昭和15年創価教育学会に入会。昭和18年7月20日治安維持法違反容疑で逮捕される(創価教育学会弾圧により)、それより昭和19年8月まで13ヶ月間、四谷警察署、巣鴨拘置所にて拘留生活。昭和20年4月14日の東京空襲で罹災、蔵書多数消失す。昭和22年創価学会の在り方をめぐり、戸田城外と議論の後、学会を離れる、日蓮正宗法華講に入講、その間参学社出版所経営、昭和40年(1965年)2月4日没、73才。野島辰次遺稿集「我が心の遍歴」260頁(引用者注 年号の漢数字のみ算用数字で表記しました。)
野島は戸田より7年年長、牧口を獄死に至らしめたのは戸田自身の不行跡が原因ではないかとの怒りもあったようだ。創価教育学会の弾圧も信仰を隠れ蓑にした高利貸し、詐欺集団だったから当局に一網打尽にされたとの悪評を出獄後野島自身が周囲から聞き及ぶにいたり、戦後も同じことを続けようとする戸田の態度を見かねて野島は戸田に諫言する。そこには神札を受けなかったこととは別の弾圧を招いた原因が示されている。これも真実、今の私はそう思う。けれど現在の創価学会はその事実を決して認めようとはしないだろう。
手記では戸田の会員相手の金融業について、自身も借り金利も安く期限も長く助かりもしたが、貸方借方とも日蓮正宗の信徒に限った金融で信徒になるのが条件だったと記しており、大蔵商事の原型のようだ。牧口は退職後の生活の面倒を戸田にみてもらっていて、強く言えなかったのだろうとも述べている。牧口は書籍の出版費用も戸田に負っており、事実と思う。ただし、戸田ら経済人の集まり、生活革新同盟倶楽部を牧口は「悪漢倶楽部」と名付けたり、戸田の酒癖の悪さを福田久道(出版業、六芸社経営。おもに外国書の翻訳に携わる。創価教育学会の理事であったが一斉検挙の際、逮捕されなかった。自ら手記で記していたように昭和17年暮れの堀米師つるし上げ事件を機に学会と距離をおいていたからかと思われる。)に「戸田君は酒ばかり飲んでいて駄目なんだ」と嘆いていたりしていたと福田は手記に記している。
牧口「戸田君は酒ばかり飲んでいて駄目なんだ」
もし、戸田城聖が出獄後に酒を断つことができていれば、58歳という短命で生涯を終えることはなかったのではないか。戸田の死因につき、現在では肝硬変には決してふれようとしない。しかし、戸田の死因は間違いなくアルコール依存症による酒の飲み過ぎと、それによる肝硬変、糖尿病などによって引き起こされた衰弱死であろう。戸田城聖が、牧口常三郎を獄死させたものへの仇を本当に取りたいと思っていたのであれば、自らの出獄後、酒を断つべきであった。それなら、野島や福田の戸田を見る目も少しは違ったのではないだろうか。
矢島周平のように、入牢が余程バツが悪かったのか、福田に会ったとたん開口一番「あんた、それで退転したのかね。」では福田は入牢を経てもそのような物言いしかできぬ矢島を通して出獄後の戸田を判断しただろう。その事だけが理由ではないのだろうが、福田久道は戸田城聖が再建した創価学会にも進んで関わろうとはしなかった(昭和21年に寄付した形跡はある。創価学会秘史226頁)。野島辰次も同様で、二人とも戦後は法華講にて自身の信仰を全うし、創価教育学会および牧口、戸田に手記にて辛辣な批判を浴びせた。創価教育学会には牧口常三郎の獄中での死が現証だと総括し、再建当初の創価学会にも戸田の創価教育学会時代から改まることのない暴君ぶりを批判した。この点は野島、福田とも認識が共通していて奇妙な符合か、当然の帰結というべきか。なにしろ史料は乏しくいまだ測りかねるところもあるのだけれど、このあたりでいったんこの稿を閉じておこうと思う。