『創価学会教学要綱』をめぐる論争 -破和合僧の濫用は法主絶対を組織絶対に言い換えたに過ぎないー
須田晴夫氏の『創価学会教学要綱の考察』での教義改変への批判に対する反論を創価学会教学部ではなく男子部教学室が行っている。一読したが立論が拙劣、詭弁を用い嘘までついていて反論として貧弱だ。須田氏の立場は従前の創価学会教学をふまえつつ、硬直化した日蓮正宗教学ではない本来の日蓮、日興門流の教学と学会教学との止揚を試みたものと筆者はみる。男子部教学室の反論は破和合僧、増上慢、名誉毀損と難詰するだけで中身がない。原田教学部長、逃げるな。
反論の契機は週刊文春の報道
まず、聖教新聞のwebサイトでの反論が10月18日。須田氏の『創価学会教学要綱の考察』(以下、須田『考察』と略す)の出版は8月20日で原田会長への書簡は9月12日。その時点では無視している。ところが週刊文春が須田氏の批判を取り上げたのが10月17日発売号で、文春記事が出た途端に聖教webサイトで反論しており、騒がれるのを嫌っただけで反論の動機が不純といえ、真摯な議論をする気がない。そのことは、須田氏が『創価学会教学要綱』および原田会長に直に疑問を呈しているのに原田稔会長でも原田星一郎教学部長でもなく、記名のない男子部教学室での反論だったり、反論文の冒頭、須田『考察』につきわざわざ「自費出版」と貶めるような紹介をしていたりすることからも明らかだ。
そもそも須田晴夫氏は創価学会副教学部長を務めた人物で現在も役職についており、無記名の男子部教学室の反論は教学部の先輩に対して失礼だ。敬意を表して原田教学部長なり、書簡の送り先である原田会長が直接対応するのが筋ではないか。そして元副教学部長の須田氏が『創価学会教学要綱』の編纂に携わっていなかっただろうことにも驚いている。OBも含めた創価学会教学部の総力を挙げて編纂すべき教学書ではなかったのか。ひょっとして教義改訂にあたって色々と口出しされることを怖れ、教学部OBはむしろ邪魔で厄介な存在として疎んじたのではないかとうがった見方までしてしまう。
筆者には、従来の教学書より高価で装丁等の見栄えだけ整えていてもそれまでの創価学会教学からどういう経緯、理由でこのような教義改訂に至ったのかについての説明が決定的に不足している『創価学会教学要綱』よりも、自腹を切ってでも廉価に設定してすこしでも多くの会員に読んでもらいたいとの意図が感じられる須田『考察』のほうがよほど誠実で良心的な態度に思える。
次に内容についてだが、ここでは三宝と一大秘法について触れておく。教学の根本的な事柄だし、この点は『創価学会教学要綱』の執筆姿勢、現在の創価学会がいかに宗教的誠実さも知的誠実さも失ってしまったかということに関わるものだと筆者も感じていたからだ。たとえそんなものは初めから無かったとしても。
三宝について
仏教徒が帰依すべき三つの宝、すなわち仏・法・僧のこと。 仏とはさとりを開いたもの、法とは仏によって説かれた教え、僧とはその教えに従って生活する集団である。この説明は、WEB版新纂浄土宗大辞典を引用した。なぜ浄土宗大辞典を引いたかというと、三宝の説明につき何を三宝とするかで記述に違いが現れてしまうが、ここではなるべく仏教の共通理解、どの教派によってもできるだけ違いがない説明をする必要があると考えた。特に一教派による結論ありきの独自の表現はできるだけ避けた方が良いと判断したからである。
たとえば『創価学会教学要綱』では、創価学会の三宝として、
と記述しているが、この説明がすでに従前の創価学会教学の三宝論ではない。それだけではなく、日蓮正宗と訣別した後に刊行された『教学の基礎』(2002年)や、教義改訂後に刊行した『教学入門』(2015年)とも違った表現になってしまっている。
日蓮正宗教学に則っていた宗門と訣別する前の『教学の基礎』(1989年)では、
とあり、日蓮正宗と訣別後の『教学の基礎』(2002年)では、
と、記述の内容に大きな違いは見られない。この時点では宗門と別れたとはいえ、基本的な教義について大きな変更を加えることは意図的に避けたものと思われる(『法華経の知恵』や『御書の世界』などでの創価学会教学の深化はあっただろうが)。そのうえで、戒壇本尊を受持しないとの会則改訂後の『教学入門』(2015年)では、
との一文を三宝の説明の冒頭に加えたうえで、
と、「僧」を「教えを実践する人々」に言い換えてしまっている。日蓮正宗という僧団と激しい衝突を経たうえで訣別し、戒壇本尊も受持しないと教義を改訂した以上、やむをえないことだったのかもしれないが、三宝の仏・法・僧すらそのまま記述できないといった当時の(現在もだが)創価学会の置かれた状況を反映した記述といえ、普遍性を有するとは言い難い。
なので三宝の基本的な説明として創価学会の教学書を用いるのは適当ではないと筆者は判断した。そのことが既に現在の創価学会および創価学会教学に対しての否定的な評価を含むことになるのは承知している。
具体的な創価学会の三宝についても、以前の拙note「創価学会の三宝論の変遷について」で述べたように、仏宝こそ日蓮大聖人であるとの解釈は一貫しているものの、『創価学会教学要綱』ではもはや日蓮を久遠元初の自受用報身如来であるとの位置づけはしていない。また、従前の教学では本門戒壇の大御本尊とされ、破門後は南無妙法蓮華経の御本尊と規定していた法宝についても、全く説明を加えることなくただ「南無妙法蓮華経」と記すのみで御本尊を削り、南無妙法蓮華経の題目を法宝とするため、法宝の説明に唐突に「仏が覚知した根本の法」との記述を加え、僧宝と規定されているにもかかわらず、僧侶や僧団の存在を否定したいがために僧を「実践する教団」と言い換え、日興上人を僧宝と明記するのを止めたものと思われる。
このことは須田『考察』においても、
と、述べられている。
この須田『考察』の批判に対して男子部教学室は「氏は『教学要綱』は法宝と僧宝の内容を変更しているとしているが、そのような批判は当たらない。」という。実際に変更していなければその通りだろうが、法宝=南無妙法蓮華経の御本尊としていたのを法宝=「南無妙法蓮華経」と御本尊を削り、その理由も全く示していないのは須田『考察』の指摘のとおりである(『教学要綱』156頁)。僧宝も日興上人、広い意味では創価学会としていたのを僧宝=創価学会とするだけで以前は僧宝としていた日興上人を「範とし」とはいうものの僧宝と明記せず、これも説明していない。よって須田『考察』の批判はその通りであり、「批判は当たらない」との男子部教学室の反論こそ理由がない。
また、男子部教学室は「これまでの学会教学では、法宝について、『南無妙法蓮華経』と『南無妙法蓮華経の本尊』の二つの側面から説明してきた。」と述べている。はっきり言っておくが、この記述は虚偽である(補注)。法宝についてのそのような説明は、『教学要綱』以前には筆者は見たことも聞いたこともない。当然である。法宝および一大秘法の解釈につき、南無妙法蓮華経の題目とみるか、本門戒壇の大御本尊とみるかで日蓮宗と日蓮正宗は対立してきた歴史がある。創価学会には日蓮正宗教学を踏襲してきた過去があるのに、二つの側面などと並列的にとらえて論じるわけがない。
日蓮正宗との訣別後も2014年の教義条項改訂までは本尊や基本的な教義に変更はないとの認識であったし、池田名誉会長も「大聖人の出世の本懐である一閻浮提総与の大御本尊が信心の根本であることは、これからも少しも変わらない」と言明していた(1993年9月16日アメリカSGI最高会議、聖教新聞紙面での紹介は19日5面)。この名誉会長指導についての言及は教義条項改訂時から現在に至っても全くされておらず、2015年1月の教学部解説もその点についての説明が必須と思われるのに言及がなく、筆者は創価学会、解説を担当した教学部に対して強い不信感を持った。それ以降も創価学会が教学の再構築に熱心に取り組んできたとは筆者にはとても思えない。むしろ遠藤文書、教学部レポートと、教学に関しては混乱、確執、不協和音の方が大きかったとの印象を持っている。
男子部教学室の立論は戒壇本尊、およびいまも創価学会が自前で用意できない御本尊を教義上絶対的に重要なものとみることから離れるための教義以前の、はっきりいってしまえば教団運営上の目的ありきで捏造した虚偽の記述であると筆者は判断している。
傍証として、拙note「創価学会の三宝論の変遷について」の、
との記述を引いておく。これは三宝についてで、『教学要綱』発刊以降も教学用語はしばらくは従前の説明のまま、つまり法宝は南無妙法蓮華経の御本尊と記述されていた。筆者は創価学会HPの教学用語「三宝」の記事を確認したうえで上記の文章を書いた。変えていたらそのように書く。「南無妙法蓮華経と南無妙法蓮華経の本尊の二つの側面から説明されてきた」痕跡などどこにもないのである。
一大秘法について
2014年の会則変更で教義条項が改訂され、戒壇本尊を受持しないとの教義の変更が行われた。2015年1月の教学部解説において、戒壇本尊を受持しないとの教義条項の改訂は、教義の変更ではなく、教義解釈の変更であると説明されているが、信仰の根本である御本尊につきそれまで信仰の根本的な対象としてきた戒壇本尊を信じないというのであるから、教義変更、それも重大な教義変更に他ならない。
宗門と訣別する前はたとえ日蓮の真筆であっても戒壇本尊以外は功徳がないとまで説明してきておいて、それらもすべて本門の本尊だというのなら教学上の位置づけをきちんと行うべきだが、定義づけのみで説明は足りていない。前述した1993年の池田名誉会長の「大聖人の出世の本懐である一閻浮提総与の大御本尊が信心の根本であることは、これからも少しも変わらない」との言明とも矛盾する。
そのうえ、教義条項を改訂した2014年には既に池田名誉会長は表に出なくなっていた。池田名誉会長の了承の下とはいうが、その真偽につき、疑問を持って当然ではないか。日蓮正宗と訣別した以上、創価学会の会員が戒壇本尊の持つカリスマに惹かれないようにするには戒壇本尊や日寛教学の戒壇本尊を絶対とする教義解釈を否定する必要があり、その変更はどうしても池田名誉会長の存命中に行わないといけない。そうしないと会員を納得させられないと考えたのだろうと筆者は思料するが、それは教義上というより、会員を創価学会に繋ぎ留めておくための教団運営上の理由というべきではないだろうか。
日寛の一大秘法=戒壇本尊の解釈は用いずとする教学部解説では、日寛の教義の普遍的な部分と、時代的制約のある部分とを立て分けて論じる必要があるとの解説がされたものの、『教学要綱』においてその立て分けが全て明示されたとは言い難い。また、教義条項の改訂についての教学部解説では以後日寛の一大秘法は本門の本尊であるとの解釈は用いないとするのみで、別の意味付け、たとえば以後一大秘法は南無妙法蓮華経の題目とするとまでは言明していなかった。御書(旧版1032頁)に「一大秘法」と教示されている「曽屋入道殿許御書」を引き一大秘法は「妙法蓮華経の五字」をいうと紹介するにとどめていた。
一大秘法を日寛教学に基づき本門戒壇の大御本尊であるとの解釈を用いないだけでなく、一大秘法=南無妙法蓮華経の題目だと言明すれば、身延派と同じ解釈をするのかとの批判が起こるのを見越していたから2015年の教学部解説の時点ではそのような言明を避けたのではないか。昨年(2023年)発刊された『教学要綱』でも、一大秘法は「南無妙法蓮華経」と言明するのみで、説明はしていない。身延派と同じ解釈であるとの批判を避けたいがため、意図的に説明しないのだと思う。『教学要綱』に教義変更の説明が決定的に欠けている理由は、おそらくどのような説明を試みても過去の歴史において日蓮正宗教学と教義的に対立してきた日蓮系諸門流、身延派などが日蓮正宗を批判してきた教説とどうしても同じになってしまい、そのように批判されるのを避けたいといった思惑があるのだとしか筆者には考えられない。教学の再構築の全体像を示さずに、批判には揚げ足取りに終始するような教学部解説、『教学要綱』、男子部教学室の態度は、姑息な態度であることは一貫していると思う。狡くて卑怯だ。
須田『考察』においても、
よって須田『考察』の、一大秘法を南無妙法蓮華経の題目と解するなら身延派の教義そのものであるとの批判は当然なものといえ、その通りだと筆者も思う。
この点につき、戸田城聖には、三大秘法のうち、一大秘法を南無妙法蓮華経の題目ととらえるのは間違いだと身延派の教義を明確に否定した言明がある。
この戸田の言明は、一大秘法を南無妙法蓮華経の題目ととらえることを明確に否定したものである(もっとも現在ではそのまま紹介することが憚られる差別表現ではあるが)。『教学要綱』が、一大秘法を南無妙法蓮華経の題目ととらえるのであれば、この戸田の言明との矛盾をどのように解するかについての言及は必須で、無視することは許されないと筆者は考えている。
『創価学会教学要綱』は、教学再構築への努力を放棄したもの ーいわば「寝た子を起こすな」教学ー
創価学会にとって都合の悪くなった教義=戒壇本尊、御本尊、日蓮本仏論、日寛教学、六巻抄、人法一箇、三大秘法、一大秘法、三宝、久遠元初、血脈論、真筆のない御書、相伝書の数々。
戒壇本尊→日蓮正宗と訣別し、和解する余地もないので受持する理由がない
御本尊→日蓮正宗法主書写の本尊以外を本尊とすることができないとしても、もはや教義上重要な意味を持たせたくない→三宝の法宝、一大秘法を(戒壇)本尊ではなく、南無妙法蓮華経の題目に置き換える
日蓮本仏論→海外布教の妨げになるので、議論を実益のないものとし、国内外でダブルスタンダード(本仏につき国内は日蓮、海外は釈尊)でよい、会員には知らせない
日寛教学→戒壇本尊を絶対視する教説をすべて時代的制約として否定する
六巻抄→一大秘法も六大秘法も否定、教学の基本、重要な教義書とはみない
人法一箇→人本尊(日蓮)と法本尊(御本尊)を同一のものとする教理から離れる算段、人本尊(釈尊)、法本尊(南無妙法蓮華経)なら人法体別となるので以後この教理は用いない(『教学要綱』が明示的に人法一箇を用いないと言明している訳ではないが、実際に使用していない)。人法一箇を使用しない理由としては上記の日蓮本仏論放棄の布石ではないか。日本の創価学会と世界SGIの教義が違ってもかまわないとするため?人法一箇なら仏宝を釈尊と解することはできないので以後、人法一箇の用語は用いない。
しかし、人法一箇は開目抄を人本尊開顕の書、観心本尊抄を法本尊開顕の書として理解してきた学会教学の基本的用語、それを以後用いないとして本当によいのだろうか?
一大秘法→本門戒壇の大御本尊→南無妙法蓮華経の御本尊→南無妙法蓮華経
三宝→仏・法・僧
仏→日蓮大聖人、ただし久遠元初自受用報身如来はもちいず、日蓮本仏論放棄の布石か、法→南無妙法蓮華経の御本尊→南無妙法蓮華経、僧→日興上人・広い意味では創価学会→創価学会(日興上人を明記せず、説明なし)
血脈論→法主絶対論の否定、真筆のない御書→日蓮宗(大崎ルール、真蹟遺文中心主義)、相伝書→日蓮正宗の正統性の否定、等々。
しかし、これらは過去に創価学会が社会において絶対に正しいと散々宣揚してきたものでもある。現在に至ってもそれらの教義を創価学会の教義だと信じている昔からの会員はまだ大勢いる。実際、教義の変更は座談会などで徹底されていない。筆者の周囲でも、「新聞にいろいろ出てるけど、私達のやることは以前と何も変わらないから」みたいな説明で納得し、「この点を変えている」と説明しても「そんなはずない」とか「それなら身延と一緒だ。そんなことする訳ない」といった反応で、「もうやめて、混乱させないで」と止められた。幹部の人とも幾たびか議論したが、筆者のような疑問を提起する会員と個別に話はするものの、関心を示さない会員には詳細に説明して寝た子を起こすような結果になるのは避けたい、だから君との議論にはつきあうけど皆の前ではあまりそういう話はしないでくれ…という態度に思えた。
都合が悪くなった教義、それらをすべて独善的な日蓮正宗教学のものとして退け、自分達とは初めから無関係だったかのような態度、それこそが独善的で無責任、宗教的誠実さも知的誠実さも欠ける態度というほかなく、宗教者としての社会的責任に鑑みて妥当なものとは思えないし、社会の理解を得られるとも思えない。教義を見直すだけではなく、過去に犯した誤ちも誤ちとして、かつての創価学会が社会に対して行ってきた非常識なふるまいや独善的な態度の数々についても、謝罪することが必須ではないだろうか。
説明しない態度は社会的責任の放棄 宗教団体として無責任
教義の変更の理由を説明しない態度、戒壇本尊を受持しない、日寛教学の都合の悪い所は取らないとの言明のみでは新たな教学体系の全体像が示されているとはとても言い難い。説明すればどこかで過去、創価学会が批判してきた日蓮宗教学と同じ結論、理由付けをとるのかとの批判がされることは容易に予想できる。おそらくどの日蓮系教団とも違う教学体系など示せない。なんだかんだいって日蓮宗各派には、それぞれの教説に違いがあるとはいえどこも日蓮の教えをもとに教学を構築してきた歴史がある。日蓮正宗と訣別したものの、教義の再構築は緒に就いたばかり、本尊はいまだ日蓮正宗法主の書写した本尊を本尊とするしかない創価学会には教義論争は不利だ。なので理由を付さず、結論だけ示し、批判されてから批判に対処する方がよいと後だしジャンケン、後付けの理由にならざるを得ないのだろう。しかし、それは宗門と訣別して30年以上経ってもいまだ確固たる独自の教学体系を持ち得ていないと自白するのと同じだ。現在の創価学会にとって都合の悪い教説を全て日寛教学の時代的制約のせいとするのでは、それこそ現在の創価学会の置かれた状況、時代的制約故の立論と、後世に禍根を残すことになろう。
破和合僧の濫用は法主絶対を組織絶対に置き換えたに過ぎない。
男子部教学室は須田氏への侮蔑的態度が過ぎ、いまも創価学会の役職についている先輩に対し、まるで退転者・反逆者扱いで、そのような処分を前提にした物言いに聞こえる。
増上慢、破和合僧、名誉毀損。しかし、須田氏の問題提起、批判は真剣なものだと筆者も感じるし、的外れどころではなく、問題の本質をとらえたいわば芯を捉えた批判というべきである。創価学会、原田会長、原田教学部長は拙劣な反論しか加えることのできない男子部教学室などに議論を任せず、もっと誠実に須田氏の疑問に応じるべきだ。狭量で無慈悲な態度、これのどこが不軽菩薩、万人尊敬の実践なのかと思う。疑問や批判を的外れ、増上慢、破和合僧で退けるのみでは創価学会教学も、日蓮正宗の法主絶対論を無謬の組織絶対に置き換えただけの印籠教学の模倣に過ぎない。それで査問や処分、会員相手の訴訟の濫発では創価ルネサンスが聞いて呆れる。それでは中世さながらの創価学会暗黒時代の到来に他ならないと諫言しておきたい。
(補注)三宝の法宝について
このnoteの投稿後、旧ツィッターにおいて、富士の山さんに『池田名誉会長の法華経方便品・寿量品講義完③寿量品2』1996年6月6日発行 180頁に、「法宝は三大秘法の南無妙法蓮華経」と記述されているとご教示いただき、道弘方四さんに、池田名誉会長の法華経方便品・寿量品講義が連載された聖教新聞(1996年2月21日)の初出の文章も「法宝は三大秘法の南無妙法蓮華経」と記されているとご教示いただいた。
富士の山さんには『池田大作全集』第35巻においては「法宝は三大秘法の南無妙法蓮華経の御本尊」と記されているとも教えていただき、筆者も全集収録後の『普及版法華経方便品・寿量品講義下巻』2013年2月11日発行209頁には、「法宝は三大秘法の南無妙法蓮華経の御本尊」と記述されていることを確認した。ただ、この記述が、法宝を三大秘法の南無妙法蓮華経から三大秘法の南無妙法蓮華経の御本尊と訂正する意味を持つのか否かがわからない。法宝は南無妙法蓮華経なのか、南無妙法蓮華経の御本尊なのか、記述が一貫せず、その事に関して説明もされていない。なぜこのような一貫しない記述になったのかもわからない。日蓮正宗教学を踏襲していた頃の三宝理解では、法宝は本門戒壇の大御本尊としてきたので、宗門と訣別後の法宝の解釈が定まっていなかったのかもしれない。しかし、南無妙法蓮華経と南無妙法蓮華経の御本尊の二つの側面から説明しているわけではない。記述に一貫性がないだけである。
したがって、この記述をもって「これまでの学会教学では、法宝について、『南無妙法蓮華経』と『南無妙法蓮華経の本尊』の二つの側面から説明してきた」論拠にはならないものと筆者は考えている。
(参考)上記の記述は法宝にのみ焦点を当てて記述したのでわかりにくいかもしれない。参考のため、『池田名誉会長の法華経方便品・寿量品講義』と『普及版法華経方便品・寿量品講義』における三宝の説明を引用しておく。
ちなみにこれも富士の山さんに教えていただいたのだが、2022年の『新版 法華経 方便品・自我偈講義 』においては、「すなわち、仏宝は末法の御本仏日蓮大聖人、法宝は三大秘法の南無妙法蓮華経(の御本尊)、僧宝は日興上人にほかなりません。」の記述は削除されているとのこと。
三宝を尊重するどころか、弄んでやしないか?