創共協定または共創協定について (破)② 協定締結まで
交渉の経緯 昭和49年10月20日~12月28日・29日 1974年(昭和49年)第一次オイル・ショックの真っただ中
野崎・志村両氏は交渉当初の強気で楽観的な姿勢から徐々に悲愴感を帯びていく。二人とも池田会長の求心力・指導力を過信、交渉を楽観視し、公明党や池田会長以外の創価学会執行部の反対を予想していなかったようだ。たとえば松本清張氏に共産党との対談につき公明党を説得できるかと懸念を示されても、志村「・・・公明党のほうはなんとかなる」と。また先輩だらけの公明党にも辛辣で、野崎「・・・(公明党は)会長の考えていることからみると次元が低い。」と切り捨て、公明党の反共からの方針転換も、野崎「・・・公明党を新しい学会の方針に従わせるには時間がかかる。しかし、必ず実現させる」と。説明には明らかな虚偽も。野崎「・・・会長も(政教)分離以来一度も公明党幹部と会っていない。」と言うのだが、これは矢野氏の著作から定期的な面会、会食が昭和45年の言論出版妨害事件の謝罪・党と学会の役職兼任解消以降も続いていたことが明かされており「政教分離」の体裁を取り繕うためのウソ、か。たまに会食する程度には会っているで別に問題なかったのではと思うが。党のことは党に任せると言っておいて、その後も会っていれば、何らかの指示を出しているのだろうと勘繰られるのが嫌だったのだろうか。池田会長に傷をつけたくない一心からだとしても、実際指示も出しているのだから取り繕っても意味がない。あるいは池田会長に対して直接公明党の説得をなどと言わせないための予防線だったのかもしれない。
ただ、交渉過程での野崎・志村氏の姿勢の変化は両氏の見通しが甘かったというより、両氏のみならず松本清張氏も宮本委員長も池田会長さえ合意すれば、会長の鶴の一声で創価学会はもちろん公明党もどうにでもなると思っていたはずで、それどころか当の池田会長自身も自らが結んだ協定をのちに骨抜きにされるほど周囲に反対されるとは考えていなかったようだ。実際、昭和49年12月29日、協定締結の翌日、宮本委員長との対談時、池田会長は松本清張氏と宮本委員長に協定の件について「北条はびっくりしたが、諒承した。学会幹部もこれに従うだろう。これで学会は協定の線に固まると思う」と述べた。しかし、その翌々日(12月31日)には竹入委員長、矢野書記長に協定締結の知らせが入り、そこから協定を骨抜きにするべく猛烈な巻き返しが始まる。昭和50年頃、言論出版妨害事件を引き起こし、謝罪に追い込まれた池田会長の指導力・求心力は本人が思っていた以上に落ち込んでいたとみるべきか。
池田氏の会長就任後、破竹の勢いで伸張した創価学会であったが、昭和45年以降、言論出版妨害事件の責任問題が尾を引き、池田会長は自身の会長辞任を避けるべく竹入委員長を更迭しようと試みたがうまくいかず(注)、そのうち日中国交回復がなり、国交回復に尽力した竹入委員長を辞めさせる大義名分もなくなる。そこで、政治の玄人らしくはなったものの、結党当初の理想を失ったかにみえた公明党の現状にも不満を感じていた池田会長が、松本清張氏の仲介を渡りに船とばかりに共産党との交渉を仕掛け、人事も含めた公明党の路線変更をもくろみ、もって言論出版妨害事件で損なわれた自らの指導力を回復しようとした。そのために、反共姿勢が明確だった公明党の竹入委員長が共産党との交渉を知れば反対することが容易に予想されるので、北条・秋谷氏といった竹入・矢野氏のカウンターパートにあたっていた会内の実力者を避け、若手で頭角を現してきた野崎氏を共産党との交渉に抜擢した、と筆者はみる。
あるいは昭和45年から54年までの一連の池田会長の辞任への流れとみるべきか。昭和54年の池田氏の創価学会会長の辞任は、52年路線(日蓮正宗との確執)だけが原因ではなかったはずで、言論出版妨害事件、本尊模刻事件、創共協定、52年路線と、この時期の池田会長は打つ手打つ手が裏目裏目でうまくいかなかったようにもみえる。この頃の池田会長の急進的な振舞いには、青年部はともかく、同世代の執行部、公明党首脳はついていけなかったということなのだろうか。たとえば言論出版妨害事件では証人喚問を避けるため、会長(私)を守れと周囲にあたりちらしたと。初めて見せる醜態に側近幹部たちの失望、幻滅、求心力の低下があり、それがひいては後の会長辞任に結びついた、とみることもできよう。
対照的な創価学会と共産党の交渉姿勢 あたかも使者と委任のよう
共産党は上田・山下氏に交渉を任せ、宮本委員長、不破書記局長も交渉の経緯を把握しており、宮本委員長は、要所で上田、山下氏に的確なアドバイスをしている。組織としても常幹会議=常任幹部会会議、幹部会会議でも報告などされ、交渉当初から共産党全体の議題、検討事項として扱っていた。協定締結後、第五回中央委員会総会にて「共創会談」の経過を報告、締結された協定を総会にて承認(昭和50年1月18日)。きちんと内部手続きも踏み、組織として意思統一したうえで協定に対処している。対して創価学会の側は池田会長が野崎氏に全て任せると言いつつ肝心の権限がないかのようだ。池田会長は執行部に諮らず、独断で野崎氏に交渉させた模様で、野崎氏は北条理事長にも協定締結直前にしか話していない。「この予備会談は北条副会長にだけは報告する。(野崎)」と。(松本清張 作家の手帖 322頁)公明党には締結後の事後報告で後の祭りだった。後輩(野崎)に自らの頭越しの交渉では竹入・矢野氏の強い不満もやむなしか。創価学会内では共産党との協定の締結が野崎氏の手柄となることへの先輩幹部の嫉妬・警戒もあったはずで、組織として協定に対処していなかったことが、のちにはしごを外されたり、協定を空文化するなど反対派が工作する余地を残してしまった。ただ、やはり公明党に事前になんの根回しもなく共産党と交渉してうまくいったかは疑問で、結局いかんともしがたかったというべきなのだろうか。
協定締結直前まで尾を引いた創価学会の公明党一党支持問題。交渉は暗礁に乗り上げ、破談寸前だった。この問題を突き詰めていくと、協定は成り立たず、結局、協定の文言に直接、明示しない形で落とし込まれる。「三、双方は、たがいに信義を守り、今後、政治的態度の問題をふくめて、いっさい双方間の誹謗中傷はおこなわない。」と。この文言をのちに創価学会は共産党が創価学会の公明党支持につき、批判しないと認めたと解釈し、共産党はそれを否定した。(強調は筆者)
それが故、協定の締結はなった。たしかに協定を破談させず、締結に導くための苦肉の策だったのだろうが、この時にもっと突き詰めて考えるべきだったのではなかったか。共産党の懸念こそ正当なものだったのではないか、と筆者は感じている。現在も会員の政治活動の自由より優位にあるかたちで創価学会の公明党支持が行われており、理由付けはともかく事実上、創価学会や公明党の政治姿勢、政策判断に異議を唱える会員を処分、除名等の手法で排除し続けていることを仄聞するたび、会員の政党支持は自由という建前とのあまりの乖離に情けなく思う。会員の政党支持は自由という言葉の意味を現在の創価学会・公明党の首脳はどう理解しているのか。団体としての創価学会・公明党の政治的主張に反しない限りという制限がついたものなのだとすれば、それは自由とは言わない。
(注)竹入義勝公明党委員長は昭和45年、池田会長の言論出版妨害事件についての謝罪表明の直後にいったん辞意を表明している。言論出版妨害事件のけじめということだろう。その際、公明党委員長辞任に至らなかったのは、もし竹入委員長が公明党委員長を辞すれば、公明党から仲介を頼み、藤原弘達氏に著作の買取を提案して断られた自由民主党の田中角栄幹事長の責任問題にまで波及するので思いとどまらせるような動きが自民党田中派の側からあったようだ。昭和47年に田中角栄氏は首相に就任している。昭和45年当時、佐藤栄作氏の次の首相の有力候補であった田中幹事長に傷をつけるようなことは避けたかったはずで、創価学会・公明党としては借りを作った田中角栄氏に迷惑をかけられない。よってこの時点での竹入氏の公明党委員長辞任は立ち消えになったのだろう。そしてそのことに池田会長は本音では不満だったのだろう。(昭和45年のの竹入氏の辞意表明については、創価学会年表 631頁 聖教新聞社 1976年7月3日発行 創価学会・立正佼成会 室生忠著 64頁 三一書房 1979年1月31日第1版第1刷発行 新公明党論 河田貴志著 50頁 新日本新書 1980年3月30日発行 参照)
(つづく)