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vocanoteを3年間で100本くらい書き続けてきたので濃縮して1本の記事にしてみた

こんばんは。2日連続のさかじょんです。(昨日の記事

今回は、1日出遅れただけで1枠目が満員になった大人気アドベントカレンダー「ボカロリスナー presents Advent Calendar 2024」の2枠目1日目として、がんばって掲題のようなことにチャレンジしてみたいと思います。
obscure.さん(@voca6458)今年もありがとうございます!

↓入れなかった1枠目(ぐぬぬ)

そもそも、私が3年前にnoteを書き始めたのも本企画に参加してえ~って思ったからでありまして、そこから2年ほどは毎週末に記事を書き、今年に入ってからは毎月末に記事を書いてまいりました。思えば遠くにきたもんだ。
今となっては70余名のフォローもいただき、こんな文でも続けていると人々が読んでくださることを大変ありがたく思っております。

さて今回は、そんな3年間を1本に濃縮して煮凝りのような記事を書いてやりたい気持ちになったので、書きます! わはは!

もちろん、初音ミクって皆さん知ってますよね? その話です。


方向性を整理しよう

とはいえ、いきなり走り出すと私の初音ミクへの偏屈お気持ちがスタートダッシュしてしまい、皆さんにとって読むに堪えない記事になってしまいかねませんので、ちょっとだけ交通整理をさせてください。

私の記事は大きく大別すると、以下の3種類に分けられるのではないかと考えました。

 ①ボカロ曲の好き紹介
 ②初音ミクそのもの論
 ③私の初音ミクへの気持ち

もちろん、これ以外も周辺的な記事は多くありますが、いったんコアな方向性としてはこの3つかと。

そいで、①→②→③の順に、偏屈な思いが煮詰まっていきます。よって、その順番で行っちゃうのがいい気がしました。あんまり長くならないようにするから、最後までついてきてくれよな。

①ボカロ曲の好き紹介

本項は「好きなボカロ曲紹介」ではなく「ボカロ曲の好き紹介」なのです。私の「好きな曲」は、もちろん曲それ自体のことを好きな場合も往々にしてありますが、その曲を構成する要素であったり、立てつけであったり、周縁的な風土だったりが好きな場合もあります。なので「ボカロ曲の好き紹介」です。

例えば、「エレクトロニック・ハートビーツ」の曲自体もさることながら、投稿者コメントである「主コメ」が好きだったり、

exボイスって何なんだろうって考えたり、

VOCALOIDの歌唱は人の歌唱ではないのに、exボイスに比べて相対的に自由度が高い部分です。
一方、exボイスはほぼ人の声であるのに、VOCALOIDのよりも固定的である(ある意味、SEに近い)のです。

こうして、より「人の声」に聞こえるexボイスをボカロ曲に混ぜたとはいえ、あくまで「音の選択・挿入」であり、「人ならざるモノの歌唱」の地位は脅かされないということになります。
その結果、exボイスがもりもりの曲であっても、人ならざるモノの歌唱である「ボカロ曲」に感じる魅力は普通に感じられる……となるのかもしれません。

exボイスはこのように、「人ならざるモノの歌唱に、音としての人の声を混ぜる」という不思議な試みであると。この複雑さ・絶妙さにこそ、exボイスボカロ曲の"良さ"があるのかもしれません。

聞き取りにくい調声を讃えたりしてきました。

私は「初音ミクが何言ってるかわかんないギリギリを攻めてる感じの調声」が好きなんですよね~これが。

ともすれば、「聞き取りづらさ」は(「つらい」ので)マイナス評価とも思われるかもしれないのですが、本記事においてマイナスの意図はございませんで、むしろそれを称揚したいというのがこの記事の趣旨です。

ボカロ曲はもちろん聴くのが主な楽しみですが、その中にもいろいろな側面が含まれています。その構成要素を楽しんだり、クローズアップしたりして、いろいろな好きを見出してきました。

でもそれだけじゃあ止まらないんだよな、初音ミクってやつは……。

②初音ミクそのもの論

そんな風にさまざまな側面を包んでいる「合成音声音楽」、その中に金字塔のように立つ、初音ミクという存在。

もちろん、私は初音ミク以外の合成音声(ソフトウェア/キャラクター)のことも大いに好きですが、やはりその中でも初音ミクには特別な思いを持っています。今なお、合成音声のトップを走り続ける初音ミクとはいったい何なのか。

私は「この上なく魅力的で、きわめて可変性・適応性が高い、さまざまなクリエイトの媒体」として、初音ミクの魅力を捉えてきました。

初音ミクは根本的に「うちの子」であると言えます。

クリエイター、リスナーが、「初音ミク」の無限の可能性の中から、自分の信じる「初音ミク」、自分が好きな「初音ミク」(つまり「うちの子」)を創り上げ、信じ、推すわけです。
よって、初音ミクへの思いがある人には、一人一人に多様な「うちの初音ミク」が存在します。そして初音ミクはそれを嫌がりませんし、制限しません(生きていないので)。
これは、楽曲のクリエイターとリスナーに限らず、絵、小説、ゲーム、グッズなど全ての初音ミクとの関わりにおいて言えます

私はそんな底抜けの自由さ・多様さを生み出す初音ミクが丸ごと好きだなあと思います。初音ミクを多く享受しているといわゆる「解釈違い」もあるかもしれませんが、基本的には「うんうん、それもまたあなたの初音ミクだね」と思うようにしています。

初音ミクは、キャラクターとして「人間的な存在感」を持ちながらも、クリエイター/リスナーの意に沿ってその在り方を変える、あくまで媒体だと思っています。でもとても「存在」として魅力的なんだよな。

だから私たちは、ともすると初音ミクは生きているかのような(自覚的/非自覚的な)錯覚を覚え、想定上の初音ミクにさまざまな人間的行為をさせる(ことを考える)ことができます。発声時に初音ミクの喉が震えるとかね。

皆さんの心の中に、初音ミクを物理的に想定してみてください。ディスプレイ上に移っている初音ミクではなく、ディスプレイの中に存在する「存在」としての初音ミクであったり、創作としてディスプレイを飛び出して「マスター」と交流する初音ミクであったりです。

その初音ミクの喉、もとい身体はどのようなあり方をしていますでしょうか?

しかし私にとって初音ミクはどこまで行っても媒体です。だからこそ、表現者/享受者は、そこに自分を織り込むことができます。そうして初音ミクの世界は広がっていきます。そこに良さを感じる。

さて、これらの例からもわかるように、初音ミクには中核(デフォ)寄りのミクがいると私は捉えています。

そしてこれはあくまで中核「寄り」であり、絶対的に「正統な」ミクがいるというわけではないと私は信じています。たとえそれは「16歳で158cmで42kg」であっても、KEIさんの絵柄で描かれていて、2007年に発売された音声合成ソフトウェアのパッケージに描かれていても、それは「極めて中核・正統・伝統寄りの初音ミク」であって、「1つの正しい初音ミク」ではないと信じています。それができるというのが、私が初音ミクのことを好きな所以だから、私はそう信じるより他ないのです。

そして、その「中核寄りの初音ミク」が支配的な初音ミクであることも確かです。プロセカのデフォミクや、マジミラの歌って踊れるミクさんは、この支配的な初音ミクに近く配置されるのではないかと思います。

でもね、16歳じゃなくてもいいじゃん。158cmじゃなくてもいいじゃん。42kgじゃなくてもいいじゃん。そう思います。そうすると、その初音ミクはだんだん周縁寄りのミクになっていきます。

そうしてだんだん、これは初音ミクなのだろうかというラインを攻めていけます。それはどんどん初音ミクの周縁を狙っていくということです。ツインテじゃない、青緑髪じゃない、女の子じゃない、人の形をしていない

結局みんな初音ミクのことが好きなんです(主語デカ)。そして、私はその中でも比較的初音ミクのことが割と好きな方に位置するかとは思います。そんな私の偏愛も、大目に見てやってくださいな。

③私の初音ミクへの気持ち

でも、初音ミクの声を聴いているとき、私の心は初音ミクのために働く必要はありません。
だって生きてないんだもん。

私の心は初音ミクから声をもらうにもかかわらず、私は初音ミクに対して何も渡す必要がないのです。

初音ミクが生きていないことによって、私は初音ミクから声だけをもらい、心のへこみにその声を聴かせることができるのです。

初音ミクの歌声で心を埋めているとき、私はその歌声の主に心を働かせることもないまま、私の心は音で埋まります。
そうすることで、私は自分自身という人間に対して心を働かせることまでをも誤魔化すことができるのです。

(目次より)
私にとって初音ミクは「歌声を聴かせてくれる人っぽいモノ」という価値を持っている(そして私はそこに心地よさを感じる)

初音ミクを「自分で定義できる」と定義すること(捉えようによっては、それはずるいことだという自覚をもって)

そんな風に、私はマジミラに行くために行動を起こさない「不誠実な」ファンを長年続けているわけですが、それでもなお、私は初音ミクという存在を好いているとは思うし、そんなファンの在り方を否定しないでいられることを必死に祈っています。

その点、初音ミクは優しいです。生きていないので。

初音ミクは、私がライブに来てくれないことを悲しむことはありません(そう私は信じています)。悲しんでいるふりはできると思いますが、全部言わされてるので。

初音ミクの根っこが音声合成ソフトウェアであり、生きていないというセーフティラインがあるからこそ、私は不誠実であっても、(比較的)安心して初音ミクのファンを続けることができます。私にとって、初音ミクの「そういうところ」も好きなところです。

初音ミクはいろんなことができます。私たちは初音ミクを通していろんな気持ちになれるし、いろんなことを伝えられるし、いろんなことを考えられます。その一つ一つが初音ミクであり、全部初音ミクなんだけど、私たちは初音ミクに対して気を遣う必要はないし、「初音ミクの全部が好きだよ」って言わなくてもいいんです。人間じゃないので。(そう私は信じています)

私は「そんな好き」ができる(やりやすい)初音ミクのことが好きなんだよなあ。

おわりです

③は引用ばかりになってしまってすみません。でも大体書きたいことは書きたいときに書いてるので、その時々の言葉を受け取ってくださるのがいちばん助かります。

さてだんだんとしっとりとしてきてしまいましたが、全体を通して、いろいろありますが私は初音ミクのことが好きです。こんな私でももうすぐ15年くらい、初音ミクの声を聴き続けてくることができました。それはひとえに初音ミクの奥深さと、懐の深さに助けられてのものです。

合成音声音楽にはいろいろな魅力があります。だからこそ、いろいろな視点から(理性的に・感情的に)ものを考えてしまいます。そのうえで、初音ミクは生きていないので、ただの媒体なので、そんな私の偏屈な思いを意に介することはありません(意がありません)。でもそれでいいし、それがいい。それが私と初音ミクの、私にとってちょうどいい距離感なのです。

初音ミクさん、どうぞこれからもよろしくお願いいたします。お身体には気を付けて、長生きしてくださいね。それでは。

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さかじょん
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