大いなる未知への畏敬 ~野尻抱介の世界~

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 2002年、『太陽の簒奪者』刊行に合わせて、『SFマガジン』に書いたもの。その後の野尻さんの活躍については、皆さんよくご存じの通り。いまや、ボカロ界隈では知らぬ人のない「尻P」その人ですから。
(なお、最後についている著作リストは2002年当時のものです)

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 野尻抱介はデビュー以来、ヤングアダルトという青少年向けのジャンルで、しっかりとした科学描写を基調とし、宇宙を舞台としたSFを一貫して書き続けているハードSF作家である。

 そしてまた彼は、強烈な幻視力を持つ希有なヴィジョナリイ(幻視者)でもある。もちろん、彼が描き出すヴィジョンは常に、「あり得るかもしれない」光景としての説得力を持ち合わせている。それこそ、野尻抱介が優れたサイエンス・フィクションの書き手であることの証明に他ならない。
 今春、そんな彼がついに一般読者向けの長篇『太陽の簒奪者』を発刊することになった。これは、すべてのSFファンにとっての朗報であると言っても過言ではなかろう。もちろん、本誌の愛読者にとっては、短篇版「太陽の簒奪者」(《SFマガジン》1999年9月増刊号『星ぼしのフロンティアへ』掲載)以来、ハードSFの魅力に溢れた野尻作品はすっかりお馴染みのものとなっているはずだが、本稿ではそんな野尻作品の特徴を、その変遷を追いながら解読していきたい。
 野尻抱介は一九六一年生まれ。本人のホームページ「野尻抱介リファレンス・マニュアル」 (http://www.asahi-net.or.jp/~XB2N-AOK/) の記述によれば、「文科系大学を出て、計測制御・CADのプログラマー、ゲームデザイナーをへて専業作家になる」ということになる。世代的にも、経歴的にも、またアニメやマンガに親しんでいるというところからも、(実は筆者もそうだが)いわゆる「おたく」世代の一つの典型と言えるだろう。
 野尻抱介は筆名で、大仏次郎の兄で星や星座についての随筆で知られる野尻抱影の名前からとっており、そこからも野尻がもともと宇宙へのあこがれを強く持っていたことが想像できる。
 そんな野尻の処女長篇は、当時ゲームデザイナーとして勤めていたゲームメーカーが出していたRPG《クレギオン》のノベライズ『ヴェイスの盲点』だった。ノベライズとはいっても、この作品は、背景となる世界の大まかな設定だけをゲームから借り、あとは登場人物も舞台も野尻自身が創作したほとんどオリジナルといっていいものだった。そして、第一作以降、野尻は同じ登場人物たちが活躍するシリーズを続けて発表していく。
 このシリーズの基本的なスタイルは、超光速航法を実現した人類が太陽系外に進出している遙かな未来、オンボロ宇宙船一隻しか持たない零細会社ミリガン運送の面々が、行く先々で出会うトラブルを解決していく、というものだ。
 ここで野尻は、超光速航法を採用することで宇宙旅行自体のリアリティは放棄している代わり、毎回バラエティ豊かでなおかつリアリティのある星系や惑星を設定することに成功している。
 たとえば『ヴェイスの盲点』では、ニーヴン&バーンズの『アナンシ号の降下』に出てくるテザーによる軌道上の物体の接続を一ひねりして見せているし、『サリバン家のお引越し』では、スペース・コロニー内での戦闘を、アニメなどでは無視されがちなコリオリの力を考慮してリアルに描いているのである。
 処女作が宇宙SFであったことには、多分に偶然の要素が含まれているのかもしれないが、それがリアリティ溢れる現代的なスペースオペラとなったのは、野尻自身の指向性が最初からはっきりとしていたためだろう。
 そんな野尻作品の、最初のターニング・ポイントとなったのが第二のシリーズである《ロケットガール》シリーズの第一作『ロケットガール』(1995)だ。
 積載重量の小さいロケットしか作れないのなら、宇宙飛行士自体を軽くて小さい人物にすればいい。そういう発想から、日本製有人宇宙船の宇宙飛行士に選ばれた女子高生の活躍を描くこのシリーズは、SF的な発想(日本製有人宇宙船の開発)とヤングアダルト的な発想(女子高生宇宙飛行士)を無理なく組み合わせることに成功した快作である。
《クレギオン》とは対照的に、舞台を地球近傍に限定し、宇宙空間や宇宙船自体の描写は徹底的にリアルに徹してみせたところがミソで、だからこそ登場人物たちが見せるドタバタ風のユーモアが映えるようになっている。
『ロケットガール』以降、九九年まで野尻は《クレギオン》と《ロケットガール》の二シリーズを交互に書いていくことになるが、その過程で《クレギオン》もまた明確に変化していく。この時期に書かれた『アフナスの貴石』(1996)と『ベクフットの虜』(1998)では、舞台となる世界の設定が主人公たちへの試練となるだけではなく、それ自体が大きな謎を秘めたSF的な仕掛けとして機能しているのである。その謎が明かされるとき、登場人物たちは、人類の理解を遙かに超えた未知の存在に対して、畏敬の念をもって対峙することとなる。そこには、SFでしか味わえない感動がある。
 そして九八年、野尻作品の第二のターニング・ポイントとなった短篇「沈黙のフライバイ」が、《SFオンライン》に掲載された。この作品で野尻は、《ロケットガール》の近未来リアル指向をさらに推し進め、電波望遠鏡による異星人探査、いわゆるSETI計画と、異星人とのファースト・コンタクトを絡めて描いており、短篇ながらも、超光速航法のない世界における太陽系外文明との接触の様子をリアルに追求した野尻版『コンタクト』とも言うべき傑作であり、読者対象をヤングアダルト層に絞らない、初の一般向け小説であった。
 さらにこれ以降、野尻はシリーズ作品から離れ、次々に新しい作品世界を構築していく。九九年の「太陽の簒奪者」から《SFマガジン》に断続的に短篇を掲載し始め、二〇〇〇年にはSETIそのものを扱った初のノンフィクション『SETI@homeファンブック おうちのパソコンで宇宙人探し』と、第三のシリーズ《銀河博物誌》の第一作『ピニェルの振り子』を、翌二〇〇一年には初の単発長篇『ふわふわの泉』を、それぞれ発表している。
《銀河博物誌》は、野尻が宇宙開発や考古学と共に大きな関心を寄せているもう一つの学術分野、博物学の知識が盛り込まれた新たなシリーズだ。
 謎の異星文明によって十七~十九世紀の地球から連れてこられた人類が、いくつもの星々で暮らしている世界。それらの星々では、恒星間航行こそ異星人の残した宇宙船によって可能とされているが、それ以外の科学技術は近世ヨーロッパのレベルで止まったまま。そして、地球では二十世紀の到来と共に各分野の科学に分かれ消えていった博物学が、脈々と生きていた。このシリーズでは、そんな博物学人気を商売のネタにしている博物商と、その下で働く画工と採集人が、珍しい動植物や鉱物を採集するために奇妙な惑星に立ち寄っては、その星の謎を解き明かしていくことになる(はずだが、まだ二作目以降は発表されていないのが残念)。その世界観や物語の構造は、《クレギオン》で培ってきた異世界生態系構築をさらに推し進めたもので、山田正紀の『超・博物誌』を想わせる。
 そして『ふわふわの泉』は、タイトルからもわかるとおり、クラークの傑作『楽園の泉』を視野に入れて書かれている近未来SFだ。
 ある日、偶然にダイヤより硬く空気より軽い新素材を発明してしまった主人公の女子高生は、「ふわふわ」と名づけたその新素材を使ってお金を儲け、楽な人生を送ろうと思い立つが、彼女の発明は次々に人類社会全体を変えていき、ついには本格的な宇宙進出の道までも生み出していく、というのがこの作品の筋立てで、文字通り「ふわふわ」と軽やかに、面倒くさい慣習やくだらない常識から逃走しつつ自らの信念に従って世界を変えていく主人公の、実はふわふわどころではない強固な意志が魅力的である。その姿には、やはりなるべく軽やかに現実世界の些末な問題から遁走しつつも、きちんと世の中との接触を続けていこうとする野尻自身の、したたかでしぶとい姿が二重写しになって見える。現実に呑み込まれず、さりとて現実から乖離せず。こうした良い意味での「おたく」っぽさもまた、野尻作品の大きな特徴の一つである。
 またこの作品では、「ふわふわ」という未知の素材がもし存在したら、という一点だけから出発して、それを使って社会がいかに変容していくかを徹底的に外挿(エクストラポレート)しており、その手際のすばらしさはハインラインが提唱したSFの定義そのものだ。
 さらに言えば、野尻は創作に際して、科学者や科学ライターなどの専門家たちに相談してアイデアを補強することが多い。これらの特徴から見て、野尻は、日本のSF作家と言うよりも、欧米型、それもアナログ型のSF作家に近い存在なのだと筆者は考える。
 さて、これら野尻作品は、脇役として科学者や技術者たちが数多く登場するのも、その特徴の一つである。彼らが自らの夢を語る場面には、作者である野尻自身の夢が、そして真情が込められているのではないだろうか。
 たとえば『ふわふわの泉』には、宇宙研の的山教授(この人のモデルは間違いなく現実の宇宙研の的川教授だ)が、新素材ふわふわを使った技術応用で火星への植民を夢見るところがある。
「……ふわふわでドーム都市を作って基礎工業を自立させて。そこまでいけばもう大丈夫。もう大丈夫だなあ。……」
 ここで、教授が「大丈夫」と言っているのは火星植民だけではなく、人類の未来そのものなのは明白だろう。このなにげないセリフの繰り返しに、作者である野尻の思いが込められているというのは、あながちうがちすぎな感想とも言えまい。
 筆者が一番好きなのは『天使は結果オーライ』のラスト直前、NASAの無人冥王星探査機の故障を見事に修理した宇宙飛行士の一人である茜に、探査計画の責任者であるオレアリー博士が連絡し、こう言う場面だ。
「……私はさっきまで、生きて冥王星の近接写真を見ることに絶望しかけてたんだ。だが--決めたぞ。今日から煙草とドーナツはあきらめよう!(中略)君のおかげだよ。ほんとうに、ありがとう」
 このあと、野尻はこう文章を続ける。
『交信が終わっても、茜はしばらく動かなかった。見ると泣いていた』
 これらの実に簡潔な文章に込められた、大いなるロマンチシズム。これこそ、野尻SFの神髄なのだ。
 すべての野尻作品に共通しているのは、人間のスケール感とはどうしようもないほどかけ離れた宇宙の、寂寥とした広大さと真正面から対峙し、人類の目前にぽんと置かれたあまりにも大きな未知に対して畏敬の念を抱きながらも、なおかつその大宇宙へ出ていこうとする前向きで強固な意志だろう。野尻作品に登場する科学者や技術者たちは、そんな人類の名もなき先陣たちなのである。
 最新長篇である『太陽の簒奪者』は、今まで書いてきた野尻作品の特徴が存分に盛り込まれた、集大成的な作品である。
 この作品は、《SFマガジン》誌上に掲載された短篇連作に、大幅な加筆修正を加えて完成されたもので、すでに短篇版を読んでおられる読者も必読。これを読まずして、二一世紀の日本SFを語ることはできない。そういう作品だと筆者は確信している。
 さらに言えば、この作品を通過して、野尻抱介は次にどこへと向かうのだろうか。それを見るのが今から楽しみでならない(いや、ファンとしては既存シリーズの新作ももちろん読みたいのだが)。

【野尻抱介著作リスト】
長篇
1.『ヴェイスの盲点』(1992)*
2.『フェイダーリンクの鯨』(1992)*
3.『アンクスの海賊』(1993)*
4.『サリバン家のお引っ越し』(1993)*
5.『タリファの子守り歌』(1994)*
6.『ロケットガール』(1995)**
7.『MAGIUS ロケットガールRPG』(1995)
8.『アフナスの貴石』(1996)*
9.『天使は結果オーライ』(1996)**
10.『ベクフットの虜』(1998)*
11.『私と月につきあって』(1999)**
12.『SETI@homeファンブック おうちのパソコンで宇宙人探し』(2000)
13.『ピニェルの振り子』(2000)***
14.『ふわふわの泉』(2001)
15.『太陽の簒奪者』(2002)

短篇
1.「クリスマス・ミッション」(《ドラゴンマガジン》1997年2月号掲載)**
2.「沈黙のフライバイ」(《SFオンライン》1998年11月24日号掲載)
3.「ムーンフェイスをぶっとばせ」(《ドラゴンマガジン》1999年9月号掲載)**
4.「太陽の簒奪者」(《SFマガジン》1999年9月増刊号『星ぼしのフロンティアへ』掲載)
5.「月に祈るもの」(《異形コレクション15》『宇宙生物ゾーン』(2000)所収)
6.「蒼白の黒体輻射」(《SFマガジン》2000年2月号掲載)
7.「喪われた思索」(《SFマガジン》2000年9月号掲載)
8.「轍の先にあるもの」(《SFマガジン》2001年5月号掲載)
9.「片道切符」(《SFマガジン》2002年2月号掲載)

*クレギオン
**ロケットガール
***銀河博物誌

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