知性こそ最大の武器 ~デイヴィッド・ブリンの世界~

【投げ銭システム:有料に設定されていますが、無料で最後まで読めます。最後まで読んで「気に入ったから投げ銭あげてもいいよ」と思ったら、購入してやってください】

 2001年、『SFマガジン』に書いたもの。
 ブリンは大好きな作家で、ノン・シリーズの作品もどれも好きなのですが、とはいえ、《知性化》シリーズの続編、というより、完結編は読みたいなあ。もう書かないのかなあ。というか、10年ぶりのノンシリーズ新作長篇「Existence」(2012)の翻訳はまだですか?

--------------------------------

 英米のSF作家の中には、自然科学系の博士号を持つ「科学者作家」が何人もいる。たとえば、アイザック・アシモフ、ハル・クレメント、フレッド・ホイル、グレゴリイ・ベンフォード、ロバート・L・フォワード、チャールズ・シェフィールド、ルーディ・ラッカー……。
 化学、物理学、天文学、数学等々、専門こそそれぞれ違えど、彼らの多くは科学的事実を重視し、作品内に最先端の科学知識を取り入れ、その延長線上に想像力を働かせることで、驚くべき異世界や異文化を描き出してみせる、いわゆる「ハードSF」の書き手である。
 本稿で取り上げるデイヴィッド・ブリンもまた、物理の博士号を持つ科学者作家だ。
 ブリンは一九五〇年、カリフォルニア州グレンデイル生まれ。七三年にカリフォルニア工科大学で学位取得後、いったん卒業してヒューズ航空機研究所に入社するが、七五年にカリフォルニア大学サンディエゴ校(UCSD)で修士号を取得、会社を辞めてそのままUCSDの大学院に残り、八一年に宇宙物理学の博士号を取得する。
 大学院在学中の八〇年、処女長篇である『サンダイバー』で作家デビュー。その後数年間はポスドクとしてUCSDに残りつつ、サンディエゴ大学で講師を務めるという二足ならぬ三足のわらじをはいた兼業作家生活を経て、現在もカリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)、NASAのジェット推進研究所(JPL)などいくつかの研究期間に籍を置く現役科学者作家として活動を続けている。

 だが彼は、先に挙げた他の科学者作家たちとずいぶん作風が違う。端的に言ってしまえば、ブリンはハードSFというよりは非常にストレートな冒険SFの書き手なのだ。
 ブリンの作品には数多くのSF的ガジェットが登場するが、いずれも作品世界内での整合性はきちんととれてはいるものの、緻密な科学考証や詳細な疑似科学的設定が披露されることはない。どちらかというとSFファンにはなじみ深い小道具大道具を、現代風にアレンジして提示している感が強いのだ。
 典型的なのが、彼の代表作である《知性化》シリーズに登場する異星人たちだろう。植物型や鳥類型から毛むくじゃらのぬいぐるみのような者まで、多種多彩な異星人たちのオンパレードは、まさに往年のスペースオペラのような楽しさに満ちているが、それぞれの種族の生物学的特徴については、あまり厳密な科学考証がなされているとは思えない。どちらかといえば絵面優先で、設定はあとから必要に応じて付け加えているようにも見える。
 同じことは彼らが用いる超光速航法にも言える。異星人たちはその種族ごとに異なる方式の超光速方法を採用しているのだが、これがそれぞれにユニークで、現実を否定することによって超光速に達する種族までいる。これもまた、科学的整合性よりもアイデアのおもしろさを優先している例だろう。

 とはいえ、ブリンの作品が荒唐無稽なものだということではない。作品世界内における論理の整合性は、律儀すぎるくらいきちんとしているところも、彼の作品の特徴なのである。
 たとえば、初期の佳作である『プラクティス・エフェクト』は、主人公が魔法が支配する(ように見える)異世界へと放り出され、カルチャー・ギャップに悩まされながらもこちらの世界の知識を頼りに冒険をする羽目になるという、ユーモア・ファンタジイの典型のような話だが、この異世界における不思議な力にはきちんとした法則性があり、なんでもありの便利な小道具にはなっていない。設定の論理的な矛盾や御都合主義は排されているのである。
 このあたりの感覚は、かなりアシモフの作風に近い感じがする。先に挙げた科学者作家らのうち、アシモフは自分の専門である化学にこだわらず、論理のみを基本に架空のSF的な設定を構築するという作風(その代表的な例が〈ロボット工学三原則〉だろう)だったからだ。もっとも、それでもアシモフの作品の基調は論理的なアクロバットにあって、冒険活劇を指向するブリンとは大いに違うのだが。

 また、ブリンが最新の科学技術に鈍感だというわけでもない。単に波瀾万丈の物語性の方が優先度が高いだけなのだ。
 ブリンの作品中、もっとも科学技術的な先見性が高かったものに『ガイア』がある。
 この作品が発表されたのは一九九〇年。当時、日本はもちろんアメリカでもインターネットはまだまだ一般には普及しておらず、大学や研究機関、そしてコンピュータ系企業の一部の人々のみが電子メイルとニュースグループを利用していたにすぎなかった(WWWやホームページといった概念そのものがまだなかった)。にもかかわらず、『ガイア』の中では、全世界に張り巡らされたコンピュータ・ネットワークによって人々がコミュニケーションを行っている社会の様子が、その良い面も悪い面も含めて克明に描写されており、かなりの正確さで現在のインターネット(技術的にはさらに進んだものをブリンは想定しているが)の有り様を予言している。
 これは、ブリンが現役の科学者として黎明期から電子メイルを使用していたからこそできたことであり、ブリンの科学者作家としての側面が大いに発揮された例だと言えよう。

 ブリンの作風のもう一つの大きな特徴は、近代合理主義と民主主義への大きな信頼に基づいた、理想の人間像としての近代的「市民」観が、強烈なメッセージとしてすべての作品に盛り込まれているところにある。
 たとえば『ポストマン』は、泥棒同然の主人公が、小さな勘違いから人々の希望の象徴となってしまい、正体を隠すため嘘をつき続けるうちに、演じている役柄になりきっていくことで、周囲を幸福にし、自身も成長するというきわめて類型的な人情ものである。だが、ここで重要なのは主人公が扮するのが、偉大な英雄でも天才でもなんでもない、普通の「郵便配達人」だという点にある。彼の姿は、荒廃しきったホロコースト後の世界において、「郵便」というかつて存在した平和な文明の象徴となっていくのである。そこに人々は、個々人が自分の意志で自己の人生を営むことで、その集積として構築される「現代文明」の理想を見出し、その一員足らんと立ち上がっていく。これは、まさにアメリカ的民主主義の理想の追求なのだ。
 だからこそ、主人公は精神的に成長を遂げ、肉体的に鍛えられても、なおも「普通の人」の枠からはみ出して「ヒーロー」化したりしない。いや、あえてブリンは彼を「ただの人」のままにしている。
 したがって、物語のクライマックスにおいて超人的な敵役を斥けるのは主人公ではなく、決起したフェミニストたちであり、隠棲していた「超人」となる。このため、物語の最大の山場において主人公が活躍しないというねじれが生じているのだが、それを承知でブリンは武力衝突において主人公を無力なまま放置し、武力よりも集団の結束の尊さを説いている。このことを全く無視し、主人公をヒーロー化した映画版がとんでもない愚作となったのは、当然といえば当然のことだろう。
 同じことは『ガイア』にも言える。ここでも主要登場人物の多くは、それぞれに力を合わせて地球規模の災害に対処すべく努力を重ねるが、一番の敵役であるエコテロリストと対峙するのは、コンピュータネットを我がもののように操る超人的な老女一人なのだ。
 個人主義的な近代合理主義と民主主義の礼賛というと、ハインラインの諸作品が思い起こされるが、ブリンにはハインラインに見られたようなエリート主義はあまり感じられない。むしろ、一部の能力の高い人々ではなく、自覚ある市民の団結を強調している。このような、純粋というかある種無邪気な理想主義は、自然科学一筋で生きてきたブリンの実直さの現れではないだろうか。

 科学技術そのものに対するニュートラルな立場が作品内に見え隠れするのも、ブリンが根本的には科学者作家であることの証しだろう。
 たとえば『グローリー・シーズン』では、クローニングによって人口調節を行い、男性の数を制限している女系社会が登場するが、その社会の異質性をディストピア気味に描きつつも、その基盤を為しているクローニング技術の是非については、あえて判断を下そうとしていない。
 また、《知性化》シリーズの鍵である他種族の「知性化」という行為そのものについても、ブリンは善悪の判断を放棄している。
 ただし作品中では、人類以外の異星種族は、自分たちが知性化した種族を「類族」と称して奴隷同様に扱っていたり、人類によって知性化されたイルカたちが、ことあるごとに知性よりも野生の呼び声に引き寄せられたりと、「知性化」によって引き起こされる弊害についていくつもの言及が為されている。

 ここでおもしろいのは、翻訳では行為そのものを表す「知性化」という言葉が当てられているが、原文では「アップリフト」すなわち「階梯を上がる」という意味の単語が用いられている点だ。つまり、この作品世界内では、知性の獲得によって一段上級の生物へと「変化」したことになると考えられているのである。これは、たとえばクラークの『幼年期の終わり』などと同じく、より高等な生物へと変化することが「進化」であるという誤った進化思想によって、《知性化》シリーズの作品世界が支配されているということの象徴であろう。そして、この思想によって思考が硬直化した異星人たちによって人種的ヒエラルキーが形成され、人類が抑圧や迫害を受けてしまっていることを考えれば、ブリンが「アップリフト」という言葉をどれだけ皮肉な意味合いで使っているかわかろうというものである。

 ところがブリンは、これだけいろいろ仕掛けをおいておきながら、「知性化」という技術そのものの是非については結論を出そうとしていないのだ。
 ブリン本人によれば、クローニングにしても知性化にしても、科学技術それ自体が悪であるかのように言われることに対して、本当にそうなのか敢えて設定として取り上げてみたということなのだが、この姿勢にこそ、ブリンの自然科学者としての主張がこもっていると考えるべきだろう。

 もっとも、「知性化」という行為そのものについての判断は敢えて保留しているブリンだが、「知性」そのものを重要視しているのは間違いない。それを端的に表しているのが短編「誘惑」(『遙かなる地平』所収)だ。実は《知性化》シリーズの最新作であるこの短編では、イルカたちがある存在によって万能とも言える力を授けようと誘惑されるというものなのだが、ここでブリンが主張しているのは、無制限の現実離れした幻想に対する徹底的な拒絶なのだ。
 世界をありのままに受け入れ、なおかつその中で努力するしか、個人の、ひいては種全体のアイデンティティは保てない。そしてそのためには、世界を見据えるための装置として、知性のみが有効である。全世界を相手に戦うとき、知性こそが最大の武器となるのだ。
「誘惑」におけるブリンの主張を少々過激にまとめると、以上のようになるだろう。
 これもまた、世界を常に理論と実験の繰り返しの結果によってのみ捉えようという自然科学者らしい意見だろう。

 つまり、最初に述べたことと矛盾するかもしれないが、一見ストレートな冒険SFのように見えるブリンの作品には、科学者作家としてのこだわりががっちりと存在しているのである。

 さて、そんなブリンの新作だが、いよいよ日本での翻訳版刊行が始まる《知性化の嵐》三部作に続いてアメリカで刊行されたのが、ベンフォード、ベアのあとを継いで書き上げた《新・銀河帝国興亡史》完結編のFoundation's Triumphだ。その結末では、アシモフによる原典《銀河帝国興亡史》の物語すべてをも包含する壮大なビジョンが展開するとか。
 また、ブリン本人は基本設定を手がけただけで、小説自体は他の作家に任せたものにOut of Timeシリーズがある。すでに三作が刊行されているこのシリーズは、異星人に支配された未来の地球へとタイムトラベルした若者たちが、人類の未来を賭けて活躍するというヤングアダルト向けの作品で、青少年の教育問題と若年層へのSFの普及の双方を視野に入れた、ブリンらしいプロジェクトだ。各巻の執筆をナンシー・クレスやロジャー・マクブライド・アレンといった中堅どころが担当しているところが気になるシリーズだ。
 一方、肝心のブリン本人の新作だが、今年中にKiln Peopleという長篇がアメリカで刊行される予定らしい。ブリン本人のウェブサイトの情報では、普通の人々が(ゴーレムのように)泥人形に命を吹き込み、操ることができるようになった近未来を舞台にしているとのことで、残念ながら《知性化》シリーズの新作ではないようだが、どんな変わった未来世界を描き出してくれるのか、大変興味深い。
 ところで、実はこれら以外に、来月アメリカで発売されるブリンの新作が存在する。
 DCコミックスから出版されるForgivenessというタイトルのアメコミがそれ。「新スタートレック」のアメコミ版新作で、おなじみのピカード艦長たちの冒険が描かれているらしい。ブリンはもちろんコミック用のオリジナルストーリーを担当している。考えてみれば、勇気と理性と友情が世界を発展させていくというスタトレのメッセージは、ブリンの作風ともぴったりマッチしているので、かなり期待できそうだ。普通のアメコミと違ってハードカバーの一巻本なので、日本にも入荷する可能性が高いから、ファンの人は洋書屋などを覗いてみてはいかがだろう。

【本文はここでおしまいです。内容を気に入っていただけたなら、投げ銭に100円玉を放ってるところをイメージしつつ、購入ボタンを押してやっていただけると、すごく嬉しいです。よろしく~】

ここから先は

0字

¥ 100

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?