検察庁法改正騒動の裏側が見えてくる〜村山治著「安倍・菅政権vs検察庁」
村山治さんの「安倍・菅政権vs検察庁〜暗闘のクロニクル」を読みました。村山さんは朝日新聞在籍中から検察を取材してきた記者で、フリーランスとなられた今もその最新動向を書いておられます。私は去年の笛美さんの「 #検察庁法改正案に抗議します 」Twitterデモの際に、運動が大きなうねりとなったことに感動しつつ、そもそも検察庁ってどういう組織なのか気になり、村山さんがWEBメディア「法と経済のジャーナル」で書いていた一連の記事を読んで参考にしました。
何が気になったか。例えばこの時まで検察官が法務省と人事的に繋がっているなんて知らなかった。検事総長が検察のトップの役職なのは知っていましたが、その前に法務省の事務次官を務めてから東京高検検事長になり、総長になるのがコースというのも初めて知りました。各省で一番偉いのが事務次官なのに、検事総長はその上であり、出世のゴールではなく通過点というのも不思議です。去年の騒動の時によく言われましたが公務員として行政も担いながら司法の一翼も担う。三権分立のうちの二つに跨った仕事で、考えてみると奇妙なシステムです。そんな奇妙な検察というシステムをもっと知りたいものだと思いました。
もうひとつ、この時もっと不思議に思ったことがあります。この騒動で悪人にしか見えなかった黒川弘務氏。「安倍政権の守護神」と呼ばれ、政権がダークな疑惑で追及されかねないのを、彼が検察中枢にいて守ってきたのだと言われていました。例えば2018年に近畿財務局の赤木俊夫さんが自殺し、公文書改竄が露呈した時、近畿財務局や財務省の誰も起訴されずに終わったわけですが、これも大阪地検特捜部は起訴する気満々だったのを黒川氏が潰したのだと、半ば事実のように語るジャーナリストが大勢いました。「守護神」だからと言うのですが、疑問が残ります。この時、黒川氏は法務事務次官。当時の東京高検検事長は稲田伸夫、検事総長は西川克行という人です。いくら黒川氏が大阪特捜部の動きを封じようとしても、格上である稲田氏や西川氏まで抑え込めるものなの?しかも事務次官が検察の判断に直接介入するってのも変じゃない?
マスメディアの記者の人たちは、検察のことをよく知っているようで、いまいちわかってもいないんじゃないか。記者たちの検察に対する態度は、畏怖しつつ身内意識もある複雑なものだと感じていました。何しろ貴重な情報源、ネタ元です。一方、検察もマスコミを利用して自分たちが直接できない情報発信をさせているように見えていました。それが露見したのが、文春による黒川氏の賭け麻雀スクープです。麻雀の相手は新聞記者でした。そこまでしてでも真実を暴けばいいのだ、という人もいるでしょうけど、私にはキモチ悪いとしか思えませんでした。そこまでしないと真実が暴けないのなら、その構造がおかしいんじゃないか。
そんなモヤモヤを、村山さんのネット上の記事で少しずつ晴らしてきたのですが、今回の「安倍・菅政権vs検察庁」を読むことで、スカッと晴れました。何がどう晴れるのかは、みなさんも読んでもらうのが一番ですが、ポイントだけいくつか書いてみます。
「黒川=安倍政権の守護神」はマスコミの誤解らしい
「 #検察庁法改正案に抗議します 」の絡みでいちばん知っておきたいのは、「黒川守護神」はどうやらマスコミが描いてしまったイメージに過ぎないらしいことです。
この本では2000年前後の検察改革の頃から黒川氏と、その同期でありライバルでもある林真琴氏について書いています。村山さんは二人を龍虎に例え、それぞれ優秀で活躍したからこそライバル視もされていたことを紹介します。そして二人は上司により検察改革の推進役に抜擢され、成果も出す。ライバルとはいえお互いに一目おきリスペクトし合ういい関係だったようです。村山さんの目から見た黒川氏は、出世の野望を抱く悪辣な人物ではなく、検察をより良く改革していく高い志を持つ人物として描かれています。
ところが彼が2011年から法務省で大臣官房長になると、翌年第二次安倍政権が誕生。そこで優秀さが仇となります。村山さんによると官房長の仕事は「政権の危機管理の一翼を担い、また、検察の捜査や人事で政治の側からの介入を阻む、という難しい役回り」なのだそうです。検事ではなく官僚としても能力が高い黒川氏は、対政権でも上手に立ち回ります。法案を通す際にも与党とも野党ともうまくつきあい、結果的に政府が法案を通すのに役立つ働きをした。その結果、政権側から「あいつ使えるやつ」と評価されてしまった。検察側も彼が政権対応してくれると都合がいいので官房長を長く務めさせた。それが政権の勝手な「黒川は味方」意識を強めたようです。
そんな中、黒川氏が昇進して法務事務次官を務めた時期に森友事件、加計学園事件という二つの疑惑が起こった。森友事件では検察が官僚を起訴するかどうかが耳目を集め、結果は起訴しなかった。安倍政権が黒川氏をかっていることも記者たちに伝わってきています。それがマスコミによる「黒川守護神」イメージを生んだのではないか。村山さんはそこまで断定はしてませんが、この本を読むとそう解釈していいのだろうと思いました。
これを理解するキーワードとして村山さんは「起訴基準」という言葉を使っています。検察庁が「起訴するかどうか」には法律と照らし合わせる以外にも実は様々な実情やその後の影響なども鑑み判断していて、そこには検察内で積み重ねてきた「基準」がある。それは誰か個人が判断するものでもなく、検察庁という組織として「基準」を満たすかどうかを見る。黒川氏がその「基準」に反して起訴すべき事案を不起訴にすることはありえない、ということのようです。つまり森友事件の公文書改竄が不起訴になったのは、「起訴基準」を満たさないと検察が組織として判断したからだろう、ということです。村山さんはそう書く一方で、自身の見解としては「違和感が残った」と書いています。さらに「黒川と任官同期の元検事正」が自分なら「絶対やっている」つまり起訴すべきだったと発言したことも書かれているので、かなり微妙な判断だったのかもしれません。
検察庁法改正案騒動が、黒川氏の賭け麻雀発覚で終わったことと、元々の「黒川守護神説」が結びついて、黒川弘務氏がとんでもない大悪人のように思われてしまいました。でも真実はずいぶんちがうようだぞ、というのがこの本の第一の感想です。また、「黒川守護神説」を断定的に語る記者が多くその前提の記事も当時よく見かけましたが、マスコミがイメージを事実として扱った結果だったのだと私は思います。誰ともなく言い出したことを、みんなが言ってるんだからと事実と受け止めてしまうのでしょう。私たちは、贔屓のマスコミや記者が言ったことでも「あれ?でもちょっとどうなの?」と思ったら鵜呑みにしないほうがいいのです。別の視点で書かれたものを探したり、心に留めておいて別の機会に掘り起こしたりするといいのでしょうね。その意味でもこの本は、もう一つの判断材料を提供してくれます。
定年延長と検察庁法改正はなぜ出てきたか?
「黒川守護神説」はこの本のサイドストーリーで、本筋は検察人事に関する政権と検察のまさに「暗闘」です。去年の騒動までに何があったか、実に詳細に、そしてエキサイティングな物語として描かれています。村山さんの語り口は淡々として、事実だけを書き並べていくスタイルです。それなのに起伏あるストーリーになっていることがこの本の読み物としての面白さです。
そもそも検察人事は、検察内で決めてきました。ただ、行政官として任命は内閣が行う。つまりこれまでは検察内で決めた人事を内閣が”慣例として”追認してきたわけです。どこかで聞いた話ですね。
2016年7月、当時の法務事務次官・稲田伸夫氏は次の事務次官に林真琴氏を就任させる人事案を持って行ったところ、菅官房長官に反対されてしまいます。菅氏は黒川氏を事務次官にしろと言ってきた。前代未聞の、検察人事への政治介入のはじまりです。何しろ、法務事務次官、東京高検検事長を経験することが検事総長へのレールです。この時の検察側(村山さんは「法務・検察」との表現を使っていますが)は、稲田さんを検事総長にし、その次は林さん、と考えていました。そのレールが崩れかねない。
そこから「暗闘」がはじまります。紆余曲折ありすぎで、滑稽でもある。「暗闘」というとカッコいいけど、要はなんだか知らないけど黒川氏を闇雲に出世させたがる政権側に対し、はっきりものを言わずにオロオロするわりに意地を通そうとする検察側の、とんだコメディとも読めます。
政権側は、しつこくしつこく黒川氏を推してくる。2016年以降も何度も人事の機会が生じ、そのたびに何かと黒川推し。先述の通り、黒川氏によって起訴が免れたわけではなかったし、実は忠誠心もないわけです。黒川氏はむしろギリギリまで林氏を推そうとしていました。黒川氏が政権に検事総長にしてくれと頼んだわけではなさそう。それでも政権側はひたすら、林氏をレールから外し黒川氏を代わりに乗せようとしてきます。
これに対し、稲田さんは何度か黒川氏でいくのを呑んでおいて「やっぱりいやだ」と翻意しています。村山さんはそこまでは書いていないけど、私は優柔不断な人だと感じました。政権の要求をはねつけるなら胸を張って堂々と言えばいいのに。
その結果、振り回されるのが検察側の事務方です。最終的に困り果てたのが2019年から法務事務次官となった辻裕教氏。検察側は検事総長を稲田-林ラインに着地することで一貫してきたのですが、政権が認めてくれないので辻さんはめんどくさくなったらしい。稲田さんに振り回されたのもあるでしょう。態度不鮮明になっちゃって、しまいにはむしろ黒川検事総長に向けて動いてしまいます。
一方、政権側は勝手に黒川検事総長が実現するものと盛り上がっている。自分たちが任命するのだからそうできると思い込んでいる。稲田さんは一旦は林さんを諦めて黒川さんに譲っていい、みたいな態度をとるんですね。ところが翻意する。やっぱりやーめた。検事総長は定年が来ない限り、自分で辞める時期を決められるそうです。そうこうするうちに黒川さんの定年が先に近づいてきた。検事総長は65歳定年、でも検事長は63歳なので先に定年になってしまう。稲田さんがいつまで経っても辞めないので困り果てた辻さんが繰り出したウルトラCが「定年延長」でした。
これについては去年も話題になったように、国家公務員法では確かに定年延長はできるけど、検察庁法では検察官の定年延長はできない。そして検察庁法は国家公務員法より優先する特別法。法に詳しい人なら誰もがそう言うのに、法務省のしかも事務次官という誰よりも法に則るべき辻氏が定年延長を言い出したわけです。内閣は、法務省の官僚が言うならと閣議決定してしまう。
なおかつ、この定年延長で国会が大揉めに揉めた熱も冷めないうちに「検察庁法改正案」をこれも辻氏が策として出してきた。なぜ立て続けに筋の悪い策を繰り出してきたのでしょう。村山さんは辻氏に取材を申請したのですが断られたそうです。いろんな裏事情が明らかになったこの本で、残った最大の謎がここにあります。辻さん、何考えてたの?まあ、政権と稲田さんの間に挟まって押しつぶされそうな中、「これだ!この手ならいける!」と思い込んじゃったのかもしれません。
そう言えば、去年の騒動の際にジャーナリストの櫻井よしこ氏が、「定年延長について安倍さんは自分たちが言い出したのではない、法務省の官僚が言い出したと言ってました。自分として法務省にも取材したが、その通りだったようです」とテレビで言ってました。実際、そうだったわけですね。そもそも黒川氏と検察人事についてこの本では当時の菅官房長官と、副官房長官の杉田和博氏の名前ばかり出てきます。安倍首相自身がとりわけ黒川氏にこだわったというより、菅-杉田コンビでこだわったのかもしれません。安倍さんからするととばっちりと言えばとばっちり。でも菅-杉田が黒川さんを検事総長にしたがっていたのは安倍さんも知ってたでしょうし、だから辻氏が定年延長を言い出したのもわかってたはずです。官僚が言ってきたことなので自分は知らない、みたいな言い方は一国の首相としてまったく褒められたものではないですね。
検察を信頼でつなぎとめたTwitterデモ
いずれにせよ、よくわかったのは黒川氏が悪で、さらに悪の権化が安倍政権で、それに抗する稲田氏初め検察は正義だ、と善悪の二元論で解釈するのは間違いだとあらためて思いました。誰が正義だと決めつけない方がいいし、悪巧みばかり考えている悪人が誰か、と考えても何も見つからないでしょう。
検察には政治家が法を犯した際に摘発しようとする面もあれば、起訴したら絶対に有罪にしようとする怖い面もあります。反権力の顔も持つ、権力機構に属する組織なのです。黒川さんは悪者だ。稲田さんは正義の味方だ。そんな水戸黄門みたいな見方はあまりにも幼稚ですよね。
村山さんは検察を「体制の守護神」とも書いています。黒川氏は「安倍政権の守護神」ではなさそうだけど、検察というシステムは体制を守っているわけです。この辺りの村山さんの検察の見方は大変に学ぶべき点があります。あまり読んだことのない検察観ですが説得力がある。さすがに検察を長らく取材対象にしてきた方です。検察をネタ元として頼りにし、どこかうまく使われちゃってる他の記者たちとは違う。村山氏の論を辿っていくと、検察の権力は国民の信頼が裏打ちするものだと強く認識させられます。森友事件での文書改竄も「起訴基準」を遵守しすぎて国民感情と距離のある不起訴の判断を検察全体でしてしまった。私たちの信頼を損なう判断だったのではないでしょうか。
私たちは検察を「信頼できるか」で見るべきなのでしょう。政権の人事介入に(結果としてですが)屈しなかった姿勢は信頼できる。でもやはり公文書の改竄がなされた時に自分たちが培ってきた「起訴基準」にそぐわないからと不起訴にするようでは信頼できない。信頼できる検察であるかどうかをこそ、私たちはチェックするべきでしょう。
そしてこの本を読んであらためて「 #検察庁法改正案に抗議します 」のムーブメントが起こってよかったと思えました。検察庁法改正案はどう考えても筋が通らない。その一点のみを「抗議します」と落ち着いた言い方で怒りを表明している。きちんとした主張だととらえられます。実際、この本の一番最初にこのハッシュタグによるTwitterデモのことが書かれています。「「笛美」のハンドルネームを名乗る女性が」と笛美さんの名前まで出てきます。村山さんの目から見ても印象的だったのでしょう。検察と国民の信頼関係を再構築できるか、という事件に映ったのではないでしょうか。
その結果、検察への信頼を取り戻した、というより、国民の草の根の力によって検察を信頼できる組織として認めてあげたのだと言った方がいいかもしれません。もしあの時、改正案が通っていたら、私たちにとって検察は決して信頼できない組織に成り下がっていたでしょう。権力者が犯罪を犯したら摘発すべき組織の人事を、権力者が握ってしまったら。そんな組織は誰も信頼しなくなるはずです。検察にとって正念場だった。だからOBたちも声をあげたのでしょう。国民と検察との信頼関係を繋ぎ止めたのが、笛美さんと私たちであることは、私たちにとって誇るべきことだと思います。国家権力の重要な部分を担う組織を、政治家から守ったのは国民だった。大袈裟でなく、一種の革命が達成されたのだと私は思っています。
NHKと私たちの信頼関係は再構築できるか
さてこのメディア酔談で「安倍・菅政権vs検察庁」について語ったのはなぜでしょう。「安倍・菅政権」はNHKの人事にも介入しています。こちらはとうの昔に成功していると言っていいのです。
検察人事と、日本学術会議のへの人事介入、NHKへの人事介入はとてもよく似ています。いずれも、長らく内部的に決めた人事を政権が追認する”慣習”でやってきたのに、内閣が任命すると法律に書かれているからと、慣習を破って介入してきたのです。その中でもっとも早い時期に介入してきたのがNHKでした。
NHKの経営委員は内閣総理大臣が任命すると放送法に書かれています。でもずっと、NHK内部で考えた人事案を承認して形式的な任命で済ませてきたのです。これを初めて変えて、法律通り自ら任命したのが2006年-2007年の第一次安倍政権での安倍首相でした。そしてNHKを管轄する総務大臣は菅氏でした。
菅氏は去年の首相就任時にも、人事掌握が大事だと主張していたことが話題になりましたよね。その最初の取り組みがNHKだったと言えます。うまくいったわけです。それまで形式的だったのを、政治が人事を掌握し何らか影響を及ぼすことができる。組織操縦の手法として法律に書かれた人事権を最大限活用する。NHKでやってみたら、実際できちゃった。
さらに第二次安倍政権では内閣人事局ができて、官僚全体の人事を掌握できるようになった。元々、官僚主導の政治を見直すために準備してきた内閣人事局の制度がたまたま安倍さんが再び首相になった時に形になり、菅さんが官房長官として政権の中枢に入った。総務大臣の時にやってみてうまくいったNHKの掌握に続いて、官僚機構全体を掌握した。さらに検察をも掌握しようと動いたのが2016年にはじまる検察人事介入だったかもしれません。その手法は去年問題になった日本学術会議の人事にも続いていったのでしょう。
検察と国民の関係は、笛美さんの呼びかけがきっかけで政権に奪われずにすみました。だったらNHKも、と思っています。
NHKは経営委員会が掌握されている割には、現場まで政権に支配されているとは思いません。それはNHKの現場の人たちと接していれば肌で感じます。一部の人が言うほど政権寄りにはなってない。でも、時に圧力がかかっているのも間違いないようです。
「公共放送」であるのに、経営委員会が総理大臣の任命になっているのはおかしな話です。それでは国営放送と言われてもおかしくない。私は、制度として間違っていると思います。ではNHKが名実ともに公共放送となるにはどうしたらいいか。それを考えていきたい。みなさんと議論していきたい。そしてあるべき姿を発信していきたい。メディア酔談はもともと、そんな想いではじめました。
原点に戻って、もう一度メディア酔談をはじめてみたいと考えています。具体的にはちょっと考え中です。3月までには形をお見せしたいと思っています。もちろんYouTubeでライブ配信をやる、という意味ですよ。少し時間がかかりますが、よかったらまた見てください!
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