無知の限界
先生、人が人を殺します。
この事実は、第二次世界大戦の終戦から時間が経てば経つほど、
日に日に残酷に、難解になり、日々誰かの足首を掴んで離しません。
先生、人が人を殺します。
この事実に対し、僕はまだ大人になれません。いい加減、こんなことで悲しまずに、
朝起きて、歯を磨いて、朝食を作りドアを開け繰り出す、まず身の回りを大切にできる、
働き者な大人になりたいです。
先生、人が人を殺します。
どこにいても、何をしていても、日々明るい出口が閉ざされ、徐々に、どこかに閉じ込められていくような、そんなニュースばかりです。僕らが大人になった頃には、あまりにも手遅れで、自分の若さに対し、正直になれません。未だ、空気を読んでしまいます。どこ行っても、ありのままではいられないのです。
先生、人が、人を殺しています。
人間が、人間に向けて、人間を殺すように仕向けるのです。何故かは分かりません。命が何なのか分かりません。真実に飢えた人が、日に日に増えていくようで、一日一日の経過を実感するたび、想像力が、僕の心を騒つかせることにしか機能しないのは、結局のところ暇だからでしょうか。自分の身の回りの平和も、生まれ育った家庭環境も、楽しかった思い出も、素直に受け止めきれず、生きていくことへのプレッシャーが日々増すのは、僕が暇だからでしょうか。自分を罰し、罪に甘えたくなるのは。そういった陶酔から覚めた時、悲しくなるのは。そういうことでしょうか。
先生、先生、人が、人を殺してしまいます。
悲しんでもしょうがないのです。悲しくても、悲しくても、ただ時間が過ぎるばかりです。今日も誰かが、しぶとく、しぶとく、人を殺し続けているにも関わらず。人間はなぜ、愚かな一面を手放せないんでしょうか。過去の恐れはどうして、消えてしまうのでしょうか。世界が負った傷口は、癒えてしまったのでしょうか。なぜ、世界の傷は癒えてしまうのでしょうか。大切な人を殺された人間の傷口は癒えないのに、何故。このまま、傷を負って癒えてを繰り返すのでしょうか。それで済むでしょうか。いつか取り返しのつかない事が起きる気がしてならないのは、僕が無知なだけでしょうか?脅威ではなく、恐れがこの世界に鎮座することは不可能なのでしょうか。
先生、人が人を殺します。
何のために殺すのでしょうか。何を求めて殺すのでしょうか。何故殺すのでしょうか。何が人を殺すのでしょうか。取り戻せない命が、何のために奪われるのでしょうか。取り戻せないから奪ってはいけないのでしょうか。愚かな選択ではなかったのでしょうか。僕たちに殺し合いが必要でしょうか。それは、愚かさを手放せないからでしょうか。本能と言ったところで、何も解決しないんです。だったら、僕らが今、生きている月日の何割が本能によるものだったのでしょうか。僕らは月日の中でどういう本能を飼い慣らしていて、今日まで飼い慣らせなかった本能があるとするならば、そこには一体どういう理由があったのでしょうか。僕らから殺し合いを奪うことは、何がいけないのでしょうか。殺し合いを奪うことは、何を意味するのでしょうか。分かりません。分かりたくありません。先生、僕はひどく無知です。理解することが怖いです。もしもこの戦争が、必要に感じてしまったらどうしようと怯えています。もしも、僕らが今日まで本能的に、何の疑いもなく感じてきた幸福や、快楽、先に、破壊や殺戮があったなら、その2つがつながってしまったら、その時点で自分がこの問題について考えることを諦めてしまわないか、怯えています。そうなるくらいなら、漠然としたまま、嫌悪していたいです。この現象が起きる事を、いつまでも、いつまでも、嫌悪していたいです。人間だからしょうがないなんて、考えたくもなくて、異常な出来事として捉えていたいです。不思議な人間が起こす残酷な出来事として捉え、嫌悪していたいです。いつまでも、いつまでも。けれど、もう限界です。限界です。限界なんです。僕がいる今ここが、僕の人生においての、無知の限界です。思考と妄想で、どれだけ幸せを願っても、行き着く先はどれも他人事だったことに気づいたからです。その範疇では、死ぬまで願えても、その願いが叶う気がしないのです。そうなる事は不本意ですから、僕は。やっぱり、願うだけじゃ、この心の空白が満ちる事は、あり得ないんだということが、世界にこんなにも多角的に追い詰められて、やっと、やっと、やっと分かったんです。生まれて25、6年。些細な疑問から始まり、勤勉な日でも、怠惰な日でも、やっぱり優しい人間として生きたい、本当の意味で優しくなりたいという思いの先で、傷を負う事と、傷つける事を避けられなかった今日、この部屋、この時間、この瞬間がきっと、僕の人生においての、無知の限界です。