見出し画像

21年目の「言いだしっぺ」の思い ~ 戸塚区、泉区、瀬谷区とともに歩んだ活動 ~

私が自民党の支部長という衆議院選挙の候補予定者の立場を初めていただいてから、先月で丸20年となりました。戸塚区、泉区、瀬谷区で政治活動をスタートさせて20年ということになります。そして、今月から21年目に入ります。
衆議院議員という現職でいた期間が通算で14年と10ヶ月。つまり5年強の期間はバッヂがなかったわけです。
誰ひとり知人のいなかった神奈川五区で20年、今振り返っても冷や汗が出てくる場面も多くあり、この間よく議員として働かせていただいているなと、改めてお力をいただいた皆さまに感謝するところです。

■ 落選期間を支えてくれたもの

当時、「10年間は何があっても歯を食いしばり、政治活動を継続し、選挙に挑戦し続けよう」との覚悟でスタートしましたが、2回目の挑戦で郵政選挙となり、当選させていただいたのはすごく幸運でした。
逆に、議員2期目のチャレンジは政権交代選挙となり、バッヂを失いました。しかし、めげることなく平日毎朝の駅頭をはじめとした活動を続けることにより、「落選しても地元に居続けているなら、地元代表として信用できるのではないか」と言ってくださる方も出てきました。ある意味、候補者として認めてくださり、正面から相対してくれる方が増えてきた時期だった気がします。
同時期に議員浪人していた仲間の中には「人がどんどん離れていって、本当に辛かった」という人がいます。確かに大変であったことは事実ですが、多くの方々に支えられているという実感を強く持てたことで精神的なつらさは微塵も感じませんでした。
また、当時は『みんなの党』が登場し、第3極として期待されていました。当選同期でも自民党を離党し、みんなの党に移る人もおり、地元では「沈む船に乗っていないで、みんなの党へ移った方がいい」と私に強く勧めてくる人もいました。しかし私は「完全に沈む前に、まだできることはある」と考え、全く心が動かなかったのを今でもよく覚えています。
結局私は落選し、「ほら、見たことか」とも言われましたが、短期の視点で損得勘定をして動くというよりは、筋を通し、その中で改革・改善を目指していくという方が性に合って納得できるので、今後も自分が納得できる選択を勇気を持って決断していきたいと、この節目の時機に改めて思っています。

選挙に初挑戦するため、駅頭活動を始めた2003年8月の戸塚駅前

■ 政務の経験がもたらしたこと

私は政務という行政府のポジションとして、国土交通大臣・復興大臣政務官、財務副大臣、総務副大臣・内閣府副大臣、そして内閣官房副長官を経験させていただきました。幸い、それぞれの時期に出会いやご縁があった方々とのお付き合いも増えてきて、相談事をはじめ、私が仕事をする上で、サポートしてくれています。
特に官房副長官の仕事はコロナ禍で、恐らく本来業務の1/3ほどしか経験できなかったのではないかと思いますが、それでも官邸の中にいる4人の政治家の内の一人として、貴重な経験を積むことができました。
毎回の閣議に出席するのはもちろんのこと、官邸で行われる政策会議もほとんど出席しましたし、政府専用機に乗って総理の外遊に同行もしました。特に、各役所間の調整機能は内閣官房しか持たないので(大臣で言うと内閣官房長官)、そこを眼前で体験できたのはそれ以後の私の動きに大きな影響を与えてくれました。
例えば、現在取り組んでいる「支援をしてくれる人のいない一人暮らしの人に関わる問題(いわゆる、おひとり様問題)」を初めて相談されたとき、内政担当の内閣官房副長官補とまず一番に打ち合わせ、最初の段階としてデータ集積・現状認識を厚労省にやってもらおうということにしました。このように、今まで担当部署がなかった課題に担当を決めることができたのも、副長官として経験があったからです。これからも地元に少しずつこうした経験を通してご恩返しをしていかなくてはと考えています。

菅義偉総理(当時)の初めての海外訪問に、内閣官房副長官として同行

■ これからも地域と共に

20年前の戸塚、泉、瀬谷も今とはかなり違っています。一口に20年と言いますが、その長さを実感させられる変化がやはりあります。
戸塚駅は再開発前で、旭町通商店街が昔ながらの商店街の姿で残っていましたし、日立の戸塚工場もありました。長後街道もあちらこちらが片道一車線で、長い渋滞が当たり前でした。立場駅前のイトーヨーカ堂も開店前でしたし、瀬谷駅には北口と南口の往来のための「通行券」がありました。深谷・上瀬谷通信隊は米軍が管理しており、上瀬谷では春に米軍主催のサクラ祭りが行われ、住民に開放されていたことを思い出します。
そして、東日本大震災がありました。そのときには復興支援グループ『ゆいっこ横浜言いだしっぺ支部』を立ち上げ、地元の方々と募金や支援物資のお願いをし、岩手県大槌町に運び込んだり、炊き出しをしに行きました。そして瀬谷の仲間が『瀬谷丸プロジェクト』をスタートし、新おおつち漁協に漁船『瀬谷丸』を寄贈しました。以来、ご縁をいただいた地域の災害の際には、地元の方々から「ゆいっこで支援しよう」と活動を促していただけるほどになりました。

2011年東日本大震災発災後、募金活動をしながら、横浜市の停電・断水情報をご案内

また、子どもの通う中学校のPTA会長も経験し、生徒たちの動き、地域と学校の連携など、教育や地域づくりに必要なことを実体験をもって知りました。同時に我が子も地域に育てていただいたと感謝しています。
今後も今まで以上のスピードで時代が変化し、街も制度も変わって行かざるを得ないと思っています。その際、過去にも思いを馳せながら、それ以上に未来を見据えて判断していきたいと考えます。
引き続き皆さまのご支援をお願いします。

駅でお配りしている『時報紙9月号 NO242-1』はこちらから。

あなたのご意見をお聞かせください→info@sakaimanabu.com
(全角文字で表記されていますので、半角に直してアドレス入力をお願いします)

あなたの声が政治を変える。
意見集約型政治を目指します。


2003年の旭町通商店街

いいなと思ったら応援しよう!