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無知を認める

私たちは思っているほど多くを知りません。
でも、すべてを知ることなんて不可能です。
何から何まで自分で詳しく調べるわけにはいきません。
そもそもそんな時間もないし、知ろうとしてもすべてを理解することは不可能です。
だからこそ、せめて自分の好きなこと(お気に入りの情報)くらいは調べて・知っていてはいいんじゃないかなと思います。

何も知ろうとしないっていうのは絶対にダメです。
ダメというか、人生においてマイナスしかありません。
でもそのような人の多いこと。

情弱者は搾取されます。これは大きなマイナスですよね。

人がここまで発展できたのは、集団で暮らし、一緒に考えてきたからです。
人間はめったに単独では考えません。
人間は、昔から常に集団で考えてきました。
子育ても、道具発明も、争いの解決も、病院を治すのも、集団で行ってきました。
「早く行きたければ一人で行け。遠くに行きたければみんなで行け」
と言葉があるように、遠くに行きたければ、みんなで考え・行くことです。

で、今日の話で一番大事なのは、『まずは一人一人が自らの無知を認めること』です。

私たちは、この世界について情けないほどわずかしか知らないし、歴史が進むにつれて、個人の知識はますます乏しくなっていっています。
これからもどんどん乏しくなっていきます。
世の中はますます複雑になっているのに、人々は自分がいかに無知であるかに気づけていないんです。(これが問題!)

でも多くの人が、多くを知っていると思っているのですが、個人として、知っていることははるかに少ない。
必要とするもののほぼすべてを他者の専門技術や知識に頼っているのが現実です。
つまり、他者の頭の中にある知識を、まるで自分のもののように扱っています。
これは悪いわけではなく、私たちはこうやって生きているんです。
これが集団生活です。(むしろこれをうまく使えばいいと思う)

宗教、イデオロギー、世界観など自らが信じているものでも、失敗・誤り・過ち、自身の無知を認めること。
知らないことは「知らない」、わからないことは「わからない」と認めることが大事だし、認めることで楽になります。

そして、無知であることを認めることでもっと学ぶようになります。
しょうもないプライドは早めに捨てましょう。

人々が自分の無知を正しく認識することは滅多にありません。
決まった環境、自分の興味のある情報を選択するなど、世界が狭いため、自分の情報の正当性が問われることっていうのは稀です。
なかなか気付けないんですよね。

近代以降の歴史上で最大の犯罪は、『無知』と『無関心』。
知ろうという真摯な努力をしない人の意図には、どこか不適切なところがあります。

一人一人が自らの無知を認め、自分の好きなことはしっかりと調べて勉強し、わからないことは人と協力してやっていきましょう。
一人一人が少し変わることで世界は良くなっていきます。

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