康本雅子インタビュー【vol.2】 ――自分の感じたことを大切に、私はそれを踊りであらわしたい――
――前回のインタビュー(vol.1)では、コンテンポラリーダンスとは「その人の思想」「その人が何をダンスだと思っているか」「身体をどういう風に捉えているのか」が踊りを通して立ち現れる表現だという言葉がありました。ここから先は、康本さん自身の「思想」についてお聞きできればと思います。 特に『絶交わる子、ポン』(2012、以下『わる子』)以降に発表された作品には、康本さんがダンスを始めた頃にはあまりなかったという「自分の世界」が表現されているように感じます。この『わる子』は、どういうきっかけで制作された作品なのでしょうか。
『わる子』は東日本大震災の翌年に発表したということで、とても思い入れがある作品です。当時は、本当にこの状況で公演をやるのか?という気持ちでした。そもそも、東京に住み続けること自体がとても怖かった。でも、劇場も抑えてキャストも決まって、やっぱりこの段階で中止するわけにはいかないという話になり、制作が進められることになりました。
結局、震災について表現した部分をかなり作ることになりました。作中で詩を読み上げるシーンがあるのですが、そこではまさに、当時一番気になっていることを盛り込んでいました。実際はダンス作品なので、あからさまに震災関連のメッセージが前面に出ていたわけではないのですが、当時は、制作するなら今の状況を出すしかないな、という気持ちでした。
『わる子』は、私の子どもが生まれた後に初めて単独で制作した作品で、一部の観客には男女のやり取りを想起させるあるシーンがあるのですが、そこは実は、子供と遊んでいたときに生まれた身体の動きを採用した個所だったりします。ラストで天井から大量のピンポン玉が降ってくるシーンは、「卵(らん)」を表現していると見る人もいますが、私としては、あそこでわっと降ってきたら面白いよね、くらいに考えて作っただけです。いろんな人がいろんな風に解釈してくれるのはとても面白い。いずれにしても、「親子」や「子育て」は、私自身がちょうど子育てをしていたこともあって、私の中で一貫したテーマの一つでした。
――その後に発表される『子ら子ら』(2017~)は、来年2月にフェニーチェ堺で再演していただくプログラムでもありますが、まさに「親子」や「子育て」がテーマとなっています。そして『子ら子ら』以降、『マジな性教育マジか』(2019~、以下「性教育ワークショップ」)や『全自動煩悩ずいずい図』(2020、以下『ずいずい図』)に至るまで、康本さんの表現したいことは、ずっと地続きになっているように感じています。
「ピュアな欲望」をめぐる探求は、私にとってずっと根っこにあるものです。そして私にとって、踊りたいという気持ちはまさに「ピュアな欲望」だと言っていい。苦しいことがあっても人前で踊るってことは、欲望以外の何物でもないと思います。
私たちは現代社会に生きていると、何が自分にとってピュアな欲望なのかを判別するのは、もはや難しいかもしれません。社長になりたいとか、結婚したいとか、私たちは何かを望んでいたとしても、それを自分が本当に望んでいるのか、社会や環境にそう思わされているのかなんて、だんだん分からなくなってきます。若い子たちと話をしていると、社長になりたいと言っても、社長になって何がしたいのかと聞いても答えられない子が多い。一生懸命にヨガに通っている大人も、健康になりたいというけれども、健康になって何がしたいかと聞かれると困ってしまう。自分はどうなりたいか、どういう状態になると幸せかをみんな深く考えずに、職業や社会的地位に就くことを「自分の欲望」のように感じてしまっています。
突き詰めるとこうしたことに答えなんて出ないのかもしれないけれども、私にとっては、少なくともダンスは、日常生活では絶対に味わえない感覚――アスリートの言葉で言えば、「ゾーン」に入る感覚――を味わいたいから続けている、ピュアな欲望に突き動かされるものだと言い切れます。それは決して「踊る自分であり続けたい」みたいなものではなくて、その感覚を味わいたいから踊るのです。なので、語弊があるかもしれませんが、私は自分のために踊っています。歳を重ねて次第に体力的にしんどくなってくるとしても、振付だけではなく踊り続けようとしているのは、やっぱり踊りでしか得られないものがあるからです。
自分が感じたことは全部OKだと知ってほしい
――そうした人々がそれぞれ持っているはずのピュアな欲望を、自分たち自身で深めていけるといいな、という思いが『ずいずい図』に反映されているとしたら、他方の「性教育ワークショップ」に関しては、例えば「お金持ちになりたいって、みんなが思うことだよね」と人が抱く欲望に何かしらの共通了解があるとされてしまいがちな世の中で、実はそれぞれが自分の感覚を深掘っていくと、感覚は本来、人それぞれなんだということが、「性教育ワークショップ」を支える思想とも言える気がします。
まず「性教育ワークショップ」では、小学3年生くらいからが対象となるので、そんなに難しい話はしません。先ほど話したような「本当に幸せなあり方」みたいなことは、言っても分からない子もいます。そして、身体に関する科学的・生物学的な知識は学校が教えてくれるし、書籍もいろいろと出版されているので、特に知識の勉強を目的にしてもいません。ただ大切にしていることは、「とにかく自分で考える」ということです。
ワークでは、参加者同士で身体に触ったり触られたりという体験をしてもらいます。当たり前ですが、他人から触られたときにどう思うかは、自分で決めていいんですよ。それが、相手が仲のいい友達だから言えないとか、先生だから言えないとか、そんなのは本当はおかしい。そんなことはなくて、自分の皮膚で感じたことは正解ということを知ってほしい。
他人との距離感でも、「ここまで近寄られるとちょっと嫌だな」とかあるじゃないですか。相手が知らない人だけれど「別に平気だ」という人もいる。その「嫌だ」とか「これは大丈夫」とかって、ものすごく大事。それって頭じゃない、理屈じゃないですよね。それは自分の皮膚感覚であり、自分だけが持っている感覚であり、それがとても大切だということと、嫌だったら伝えていいんだよということを、この「性教育ワークショップ」では気づいてもらおうとしています。このことは子供たちの将来にとって本当に重要なことです。
そして、「嫌だ」というときの伝え方も重要で、例えばワークでは子どもたちに、その時感じたことを「いい感じ」「嫌な感じ」「どちらとも言えない」の三択で伝えさせると、子どもたちなりに一生懸命考えて、考えたうえで答えを出したりします。日頃はそういう機会がなかなかないので、一回でもそういう体験をしておくと、「自分が感じたことを口にして言ってもいいんだ」と分かる体験になります。このワークショップでの体験を踏まえて、今後も人生のいろんな場面で、自分の「好き」「嫌い」という感覚に蓋をせずに、むしろその感受性を高めていってほしいなと思っています。
学校での道徳の授業でも、「いじめ」や「けんか」に対してどう感じるべきか、ある程度正解が用意されているじゃないですか。でも、どう感じるか自体は、本来絶対的に自由であって、そこは侵されるべきではないはずです。自分が仮に、世間的に見て「悪い」考え方を持っているとします。まずは、そういう自分もいるのを認めたうえで、それでも他の人と生活していかないといけないときに人に対してどう振る舞うか、じゃないでしょうか。その時々で人との付き合い方を学べばいいだけで、悪い自分自体を消す必要は全くないと思います。
なのに、学校ではどうしても、上っ面の「いい子」を育てようとしているような感じがして、本当に違和感があります。「人様に迷惑をかけないように」とか言いますが、子供が本来子どもらしくのびのび生きていれば、多かれ少なかれ他人には迷惑をかけるものです。その時に大人がどう子どもを導いてあげるかが大切なのに、最初から何でもかんでも駄目、駄目と、子どもらしさを大人がどんどん削っていく。
だから、せめてこの「性教育ワークショップ」の時には、「自分で感じることは正しいんだよ」「正しい/悪いはなくて、自分が感じたことは全部OKだよ」と伝えています。何よりもまず、私たちは誰しも、「まず自分の気持ちを認めてあげること」がスタートだと思うんです。だって、そこを閉じちゃったら、自分が自分でいる意味なんてないじゃないですか。それならもう、ロボットでもいいくらいです。
どうしたら今の気持ちとフィットできるものになるか
――公演やワークショップを通じて考えていることをここまで言語化されるようになったのは、何よりもダンス経験の蓄積であり、そして子育てを中心に康本さんご自身のライフステージが変わってきたからだと思います。
来年2月に上演していただく『子ら子ら』は、振付が決まっている意味では再演ということになります。他方で、初演から現在に至るまでの間の体験を踏まえて、今だったらこんなことを表現してみたいとか、こういうことに挑戦したいとかいうことはありますか。
初演が2017年なので、来年2月には6年が経つことになるわけです。実は、私は「再演」というのが本当に難しいタイプのダンサーなんです。やっぱり作品の旬というものがあるし、2年前に作った『ずいずい図』でさえ、再演はきついなぁと思うことがあります。やっぱり、当時のフレッシュな気持ちで制作・実演したからこそ成り立ったというところがあるので。どの作品も、その時に一番やりたいことを詰め込んでいるんです。だから、どうしたら今の自分の気持ちとフィットできるものになるか、というのを考えたいと思っています。
他方で、それができるのはとても楽しいことだとも思っています。共演する小倉笑ちゃん(1996~)も当時は22歳でしたが、今では26歳でちょっとお姉さんになっています。すると作品の雰囲気もまた少し変わります。昨日、来年2月に使用する会場を下見することができて、空間や背景が面白いと感じましたし、ちょっと美術的な想像も膨らみました。なので、今回の堺バージョンをどういう風にしようかなと、楽しみに考えています。
舞台なんだから、何が起きたっていい
――ありがとうございます。主催者としてもとても楽しみにしています。ところで、今「美術的な想像」という話が出たことについてです。康本さんのダンスについては、何か舞踏の方法論から構築されたものという風に見ようとするのは違う気がしますし、〇〇派などと何かの系譜の中で語ろうとすることもおかしなことのように思っています。
他方で、康本さんのダンスには、例えば『子ら子ら』には机やピアノがあってセリフもあります。それは他のダンスにはないとまでは言いませんが、言ってみれば演劇とダンスが架橋されているような作風に対しては、何かから影響を受けているのか、などと考えてしまいます。康本さん自身、ご自身の作品で言葉や舞台セットを用いることについて、何か考えていることや、意識していることはありますか。
舞台美術に関して言えば、自分自身で作りこむことはないのですが、あるとやはり舞台がガラッと変わるので、大切な要素だと思っています。『子ら子ら』について言えば、笑ちゃんがピアノを弾けて、かつ初演の会場が京都にあるUrBANGUILD(アバンギルド)というライブハウスで、そこにピアノがあったので、じゃあピアノを入れよう、ということになりました。あとは、座ってしゃべるシーンがほしかったから机が必要だと思って用意しました。
若い頃は、舞台セットにはそこまで興味もなくて、衣装も別にどんなものでもいいじゃないかと思っていました。けれども、今となっては、観客のスイッチが入る要素、舞台に引き込まれるきっかけって、ダンスの公演であっても踊りだけじゃないよね、と思うようになりました。その人がダンスを観慣れていないならば、それは音楽かもしれないし、衣装かもしれないし、舞台美術かもしれない。でも、そこが取っ掛かりになって、ダンスにも目が行くことがあるはずです。なので、空間全体を考えることは実はとても重要だと思うのです。
――言葉についてもそうですか。
『子ら子ら』にはやはり、ここは言葉がないとしょうがないよねというシーンがあって、そこにはセリフがあります。『わる子』にも、がっつりと詩を朗読するシーンがあります。私は、言葉を使うことには以前から全く抵抗がありません。もちろん、そのシーンだけは言葉が指す意味の世界になるので、それが演劇だと言われれば演劇なのかも知れませんが、私は別に、演劇かダンスかということを、そもそもあまり気にしていません。
ピナ・バウシュ(1940~2009)の作品は結構昔から観ているのですが、「タンツテアター(ダンス的演劇)」と呼ばれたピナの作品にも、作中で様々な言語によるセリフがあります。そういうのを知っていたので、ダンス作品に言葉があることについて、自分では違和感がないわけですけれども、観る人によっては不思議に思う方がいるかもしれません。
言葉じゃないと伝わらない部分はあると思うし、反対に、言葉を使わないでできる、あるいは言葉を使わない方がいいダンスも絶対あると思います。『わる子』にしても『子ら子ら』にしても、ここは言葉で言わなあかんやろ、みたいな個所があり、そこを言葉にしています。
私は言葉を考えるのが結構好きだから、振付を考えるように考えています。もちろん「言葉」なので論理的な意味の世界になってしまうのですが、それだけにならないように、ちょっと言葉遊びなども入れたりしています。言葉があるシーンであっても、私はそれを演劇だは思っていないのですが、他方で、言葉だからこそ伝わる領域が絶対あると思ってそうしたシーンを作っています。「ダンスだから言葉は使っちゃ駄目」「ダンスは言葉を使わないで身体で表現しましょう」というのはナンセンスだとすら思います。舞台なんだから、何が起きたっていい。ダンスに演劇が入ろうが、歌が入ろうが、映像が入ろうが、全然かまわない。
――いろんなところに観客にとってのフックがあって、例えば言葉でふっと引っ込まれた後に、さらにダンスを観るようになるとか、そういうことが起こるわけですね。いずれにしても、ダンスだけれどもダンスだけじゃないっていうところが、康本さんの作品の楽しみポイントなのかなと思いました。
最後に、読者の方に対して何かメッセージをいただけますでしょうか。
『子ら子ら』は、直近の上演から数えて約2年ぶりとなります。この作品を世に出してから、私の子どももかなり成長していて、今はまた違う気持ちでこの作品と向き合うことになるのですが、他方で、当初この作品を手掛けたときの感覚は、今もありありと思い出すことができます。逆に今だったらあんな作品は絶対に作れない。では、その時の気持ちを冷凍保存したものを出すのかというと、それは違うと思っていて、今自分が感じているリアルな気持ちを、今度の公演では付け加えたいと思います。
もちろん、多くの皆さんは始めてご覧になるわけですので、あまり細かいところは気にしていただかなくともいいのですが、私としては、今の私を踊りたいなと思っていて、それも楽しみにしていてもらえれば嬉しいです。
『子ら子ら』は母親と子どもとの関係がテーマの作品ですが、子どもがいない人には関係ないと思ってほしくないです。だって、みんな誰かの子どもじゃないですか。もちろん、自分の親のことを覚えている人もそうでない人もいるとは思いますが。それでも、観る人がそれぞれ、家族のことを想像する時間になればいいし、そうじゃない全然関係ないことを想像するのもいいし、とにかく、「すべての子ども」に観てほしいなと思います。
公募ワークショップの内容はこれから相談して決めていくことになると思いますが、現時点で担当の方からは、子育てに疲れていたり、悩んだりしている母親に向き合うような内容にしたいと聞いています。ワークショップでは、参加者が母親という役割を一時忘れて、一人の個人として解放されて、その時間をたっぷり味わってもらいたいなと思っています。
――今回お話を伺い、改めて、2月の公演とワークショップを通じて、コンテンポラリーダンスっていいなと思ってくれる市民の方が一人でも多く現れるように、財団職員一同頑張っていきたいと思いました。このたびはインタビューにお答えいただき、ありがとうございました。2月までどうぞ、よろしくお願いします。
ありがとうございました。よろしくお願いします。(了)
2022年7月3日 フェニーチェ堺文化交流室にて
インタビュー・テクスト:常盤成紀
相川幸子
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