ミニマリストのやめた育児【死生観を隠すのはやめた】大きすぎる3つのメリット
はじめましての方もはじめましてじゃない方もこんにちは。ミニマリストの阪口ゆうこです。
子どもを産んで育ててもうすぐ20年。それって必要?これってやらなくても良くない?そんなふうに思うことが多かった。
雑誌やメディアで「常識」と言われることを考えることなく脳死状態でやるのをやめて、「自分たちには必要なのか?」を考えて、不要なことはやらない育児をしてきました。
育児をする上でやめて良かったことをミニマリストの観点からエゴだらけで発信しようと思う。
親子間で御法度とされる話題がある
子どもの前ではタブーと言われる話題が多い。パッと思いつくのは、エロに関すること、モラルに反すること、そして「死」に関すること。
友だちの間では話すのに、なんなら深夜のエロ話なんて盛り上がり散らかすのに、親子間 感では御法度の空気が漂う。
その理由はまず、リアクションに困るといった点だろう。
実際、実親のエロ話は想像しただけで非常に厳しいものがあり、どんな顔をして聞くのが正解かわからない。
他にも理由はあって、エロ話をすると相手のエロシーンが頭に浮かんだり、モラルから外れた発言をすると相手との付き合いが怖くなったり、死生観を聞くと相手がいなくなることを考えて寂しくなったりと、マイナスな感情を招く想像を避けたくなるのだ。
そんな理由で御法度の話題は親子間で存在し、日常的に話す人は少ない。
でも、どれも大事な話題だとは思っていた私は、この御法度をやめた。
今回は「死生観」は隠さなくても良かったというお話をする。
死生観は普段から口に出す
ミニマリストになってからよく聞く言葉がある。
それは、「ものを減らすのは自分が死んだ後に家族が困らないため」という言葉だ。
当たり前のことだが、死んでしまったら自分の後片付けをするのは自分以外の誰かなのだから、それに関しては私も「たしかに〜」という共感が止まらない。
他人の片付けをすると、知らなくてもいいことをたくさん知るに決まっているし、手紙やら日記やらプライベートなものを発見して気まずい思いもするだろう。
それに伴い、悲しくて寂しくて元気がなくなる可能性も高い。
故人の後片付けを経験した人には、元の暮らしに戻るまでに時間を要すると聞く。
実際に祖母が亡くなった後、膨大な量の遺品の片付けをした私の母は、ストレスと過労で倒れた。知らない土地の権利書なども出てきて、後処理はまあまあ大変だったらしい。
そんな経験をした母が私に言った。「死ぬ前に、家族には言うことは言っとけ」と。
衰弱しまくった母を見て私は素直に思った。「ホンマそれ」と。
子どもに「死」をどう伝えるか
「死」は悲しいことなのだが、必ず誰にも来るもの。ましてや、いつそうなるかわからないことだから、説明は必要だと思う。
ちなみに私は、保育園児の頃に母からはじめて「死」を教わった。膝に白い粉をふいて、「うんこ」で笑い転げていた時代である。
「ゆうこ。人間ってな、生まれた瞬間から死に向かって走るねんで。生まれたら絶対死ぬねん。お母さんも死ぬしあんたも絶対死ぬ。」
最初に聞いた時は耳を疑った。
「こんな早いうちに、大人からこんなこと言われる?」と思った。一字一句覚えているのは子どもながらにドン引いたからである。
恐る恐る「死んだらどうなるの?」と聞いたら「さあ、人は生き返ることがないから、死んだ人には聞けへんねん。お母さんは【無】ちゃうかなと思ってるよ」と返ってきた。このセリフも事細かに覚えているのは、忘れないうちに私が我が子にそっくりそのまんま伝えてきたからだ。
死生観を日常的に話すメリット
祖母の死があった後、母方の祖母の死が待っていた。
もう何年も話すことができない植物状態だったので、意思の疎通はできなかった。私の母が中心となって介護をして、ゆっくりと「死」を待つイメージだった。しかし、そんな状態でも「亡くなった時」の話をするのは憚はばかられた。悲しい気持ちになるのが嫌で、話したくないのだ。
病気や事故、死を近くに感じる状況だと、人は「死」について話すことに抵抗が出ることを学んだ。
それから私は我が子に「死生観」を隠さないことにした。
私にも我が子にも感じるメリットは以下だ。
①抵抗がなくなる
上記の経験から「死」を連想する状況になると、死生観は話題にしづらいことがわかった。当事者から話そうとしても「縁起が悪い」といって周りが聞きづらくなるのもわかった。
実際、私の兄が最近脳幹出血で倒れたのだが、「今夜がやまです」というドラマでしか聞いたことがない言葉を聞いてパニックに陥ってしまった。控えめに言ってあんな状況で「死」に関する話なんて無理である。
しかし、日常的に「死生観」を話していればもっと冷静でいられたと感じた。
あ、兄は奇跡的に後遺症もなく回復してます。
②人生に前向きになる
日常的に「必ず人生には終わりがある」と話していたら、我が子たちは全うした先に待つ「死」に対して恐怖が少ないように感じている。
「前世も来世もない。死ぬと人は【無】になる」。この母の受け売りを話せば、やり直しができないのが人生で、その1回を真剣に生きようと思ってくれるのも、私からすれば大きすぎるメリットだ。
③おそらく楽になる
子どもたちに死生観を話し始めたのは小学生の低学年の時からだった。
テレビでYoutubeを観ながら「今死んだら、お葬式のBGMはこれにして」。
盛れた自撮りが撮れたら「今お母さんが亡くなったら遺影はこれにしてよ」。
花屋さんで可愛い花を知ったら「棺桶は一番安いやつでいいから、この花飾って!」。
免許更新のたびに「臓器提供全部丸してるからね」。
その度に我が子からは「こんなパンクをBGMにしたら参列する人びっくりするで」
「美白加工した画像って遺影にしてええの?」「花の名前と色、メモして残しといて」「酒飲みの肝臓を提供するなんて図々しいで」などとつっこまれながらも、本当にカジュアルに話せている。
ここからは想像の域だが、これだけ日常的に話していれば私が亡くなった後の片付けも比較的容易だと思う。我が子たちは、「面白い母だった」というイメージだけで残りの人生を生きてくれるだろう。自分では子ども孝行だと信じている。
10年間発信活動をしてきて、片付けに関わる執筆や活動が多かった私だが、片付けは終わらないものだと言い続けている。
最後の片付けは「自分自身」であり、絶対に自分ではできないから誰かに頼むしかない。だから、自分の片付けをしてくれる誰かには伝えておく必要があるのだ。
だから私は、これからも「死生観」を隠さない。