BSEの教訓を活かして
久しぶりにAmazon prime videoで震える牛を観た。忘れていたことも思い出した。今回のコロナウィルスはどうしてもBSEとかぶってしまう。あのときは畜産業界がピンポイントだったが、コロナウィルスは全世界、全人類が標的で、いつか観た映画の世界が現実になった感じだ。BSEも甚大な被害を出したが収束した。ただし、すぐに収束したわけではない。2001年9月に国内初のBSEの感染の疑いがある牛が発見され、10月に全頭検査が実施された。全月齢全頭検査が終了したのは12年後の2013年だった。つまり、収束に12年かかったということだ。12年の間にいろんなことがあり、乗り越えてきた。いや、乗り越えてきたというのはちょっと違うかも知れない。そんな意識はなかった。生きるために必死に踏ん張った結果がいまであり、みんな同じだと思う。けっして僕だけじゃない。BSEの経過はこちらがわかりやすので参考に張り付けておきます。
BSE、食品偽装、当時の記憶が鮮明に蘇った。2001年9月は僕にとって忘れたくても忘れられない年となった。畜産農家、精肉店、焼肉店など、牛肉関係者は地獄を見た。いつだったか畜産農家の後継者たちの集まりで講演をしたことがる。BSEって知ってるますか、との問いかけに、ほとんどの子が知らないに手を挙げた。おそらく、あなた方の両親もBSEによって大変な目にあったはずだから、帰ったら聞いたほうがいいよ。必ず聞いて。そして、我々が操作できないようなことが今後も必ず起こるから、そのときに何をすべきなのか考えるべきだと思う。実際、いま何も起きていないから実感はないと思うけど必ずなにかしら起こるから。・・・みたいなことを話したように記憶している。
3月10日、ブリアンツァでイベントが開催された。僕は2次会に行かずに青山の某所へ向かった。ライターの松浦さんと会うためだった。そのときのインタビュー記事がこちら ↓
さて、僕がBSEによってどういう道を歩んだのか。この19年、いろんなところで話したしメディアにも多数取り上げられた。なので、またその話かとうんざりされるかもしれないが、もしかしたら、だれかの参考になるかも知れないし、某誌の要望もあるので長文になるが思い出すままに書くことにした。
BSEのおかげで、というと適切な表現ではないかも知れないが、結果的に良い方向へ舵をきることができた。いま精肉店として生き残っている人たちは同じような人がいるかも知れない。ただ、これは偶然やタイミングや運などが重なり合って、たまたまの「そうなった」にすぎない。こんなことは計算できないし、そもそもBSEは計算外のことだらけだったのだから。口蹄疫だってそうだし、今回のコロナウィルスだって計算外のことばかり。ただ、振り返ると、誰もが一歩間違えれば倒産していたし、あそこの信号さえ曲がらなければ事故はしなかったのにと言っているのと同じだ。
ひとつだけ確信していることがある。BSEが収束した時、会社の規模は関係なく、みんながスタートラインに戻された。つまりサイコロ振ってふりだしに戻るようなもの。ただし、一部の人たちが振り出しに戻れなかった。それは、人を騙したり、商品に嘘を乗っけて販売したり、やさしさと逆行していた人たちは振り落とされた。おそらく今回のコロナウィルスが収束した時、そういう人たちは新しい時代のスタートラインには立てないと思う。つまり真っ当な人間しか残れないんじゃないかと思うのです。だって、それが人間の原点だし、商売人の原点だから。
もしBSEがなかったら。これはメディアによく質問された。間違いなく今とは違う形のビジネスをやっていたと思う。格付けで競い合い、価格で競い合い、アイデアで競い合い、他社と競い合い疲れ果てて倒産していたかも知れない。どちらにしても悪いことしか想像できない。それほど僕にとってBSEは人生を大きく変えた、いや、変えられた、岐路であり事件だった。
店に客がこないことがなんとも辛かった。飲食店も縮小や閉店せざるをえない切羽詰まった状況下で、僕も500件近くあった取引先のすべてがなくなった。「え、500件すべてですか?」と驚かれるが、大げさではなくすべてなくなったのです。ただ、一気になくなったのではなく、じわじわと真綿で首を絞められるようになくなったのです。いま、飲食店はもがいている。「キャンセルはありますか」とあるシェフに聞いた。「キャンセルはないですよ。だって予約がないんですから」と泣きそうな声で言われた。
2004年から取引しているレストランがある。お互いBSEを経験した同士でありよき理解者だ。僕の取り組みを知り連絡してくれたのだった。それから取引が続いている。注文はいつも携帯電話のショートメッセージだ。昨夜もシェフからメッセージが入った。注文だと思って内容を確認すると、「さすがにどうにもならないくらい厳しく、お役に立てず申し訳ございません」と書かれていた。「なんとか頑張ります!!」で締めくくられてうたのがせめてもの救いだ。
2001年の年末は好調でした。様子がおかしくなりはじめたのは年が明けてからだ。3年だったか4年ぐらいかけて取引先が減っていき、気がつけばすべてなくなっていたのです。日々戦々恐々のなかでどうすることもできなかったのを覚えています。この仕事をやめたいと思ったのは後にも先にもこのときだけだった。融資も限界まで借りた。もう貸せませんというまで借りた。
BSEはいずれ収束するだろう。しかし体力的に(お金)そこまで持ちこたえられるのか。毎日不安しかなかった。月末の支払いを済ませて通帳を見ると50円だった。50円ってなに?。思わず声に出た。ただ、やれることをやるしかないので、いつも通りに朝来て肉を切ってショーケースに並べてを繰り返した。収束すればきっと畜産業界は大きく変わるだろう、安全を担保にした新しい制度ができるはず。そんなことを思いながら、なんとかチャンスに変えられないかとインターネットに活路を見出した。店に客が来ないのだから仕方がない。いま飲食店がテイクアウトをやっているのと同じだ。とにかくできることをやろうと。しかし、急にインターネットに目覚めたところで肉が売れるはずもない。そんなに簡単に売れれば苦労しない。インターネットでモノを売ることを簡単に考えている人がいるけど、とんでもない。実店舗と同じくらい労力がいる。資金だって店舗作るのと同じくらいいるんですから。ホームページを作ればモノが売れると思っている人がいるけど、そんなに甘くない。
コロナもいつかは収束するだろう。しかし、それがいつなのか見えない。BSEのとき、政府が「安全宣言」をださないから、客が来るはずがない。たまに来ても買うのは鶏肉と豚肉。閉店後のレジ集計はあっという間に終わる日々。このとき思った。1000円売ることがこんなに大変だったのかと。
先月あたりから、飲食店のテイクアウトをあちこちで見かけるようになった。もちろん僕も応援してますよ。しかし、SNSに流れてくる告知みたいなのを見てると「えぇぇ、あの店もテイクアウトやるの?!」ってビックリするような店もまぁまぁあります。いやぁー怖いわ食中毒。だって厨房汚いんですもん。まずね掃除しましょうよ。ほんとに。発送とかも怖いです。先にも書きましたがインターネットでモノを売るってそんなに簡単じゃないですよ。僕は20年ほどECやってますが、食品は注文聞いて送るだけじゃないので、神経質なくらい衛生面および梱包1つとっても蓄積したノウハウがいります。納品書1つ出すにもシステム導入したり、決済方法だった代引き、クレジットなどお客様にとっての便利さを追求した結果が仕組みとなって1つのECサイトが成り立っているのです。あと、飲食店がセットでワインを販売するのも違法ですよ。「提供」はいいけど「販売」は一般酒類小売業免許が必要です。僕も20年前にインターネットで酒を販売して注意されてことがあります。酒販免許持ってたから問題ないと思っていたのですが、通販で売るには別の申請が必要だということを知らなかったのです。とまぁ、こんなふうに、テイクアウトにしろ通販にしろ、もう少し慎重にならなければコロナに隠れてまったく予想だにしていないことが起こる可能性だってあるということです。
農家を回りながらいろんなことにチャレンジしました。すぐに売り上げにつながることはなかったけど、いかに安全なのか、安心なのかを発信することを最優先にした。意地もあった。なにも見えない中で動き回るが結果はすぐにはでなかった。ただ、動きながらなんとなく方向性が見えてきた。このころ、BSEからすでに3年が経っていた。まだまだBSEの影響はすさまじく、こういうのって直後の被害ではなく、じわじわとくるのだと学んだ。今回のコロナもおそらく収束してからが大変だと思う。それまで持ちこたえられるのかと心配な人も多いだろう。でも、大丈夫。持ちこたえられます。何の根拠もないけど、まじめに料理作ってた人は神様が見捨てません。そこを見捨てれば日本は終わってしまいます。だから大丈夫です。ただ、踏ん張ることを忘れてはいけません。いま、できることを苦しみながらでもやらなければ明日はないです。本来なら終息という文字を使いたいところだが、完全に終わりではなく一旦終わりという意味であえて収束なんです。
BSEが収束しても新たに起こる危機的な状況に備えて、僕は小さなネットワークを作ることにした。まずは生産者と僕と料理人のネットワークだ。その後に消費者も加わるイメージ。いまやってるわくわく定期便もこのころ考えていたものだ。僕の身近な人たちだけでも、正確な情報を伝えたい。そのうえで僕が扱う肉を選んでくれるもよし、参考にしながら他で買うもよし。とにかく情報過多の時代なので、正しいことを言葉を選ばずに書こうとブログもほぼ毎日のように更新した。
話を少し前に戻すと、一緒に取り組む生産者は見つかった。この頃の農家は牛を出荷したら仕事は終わりで、その先の問屋や精肉店などと交わることはなかった。そもそも興味すらない。これは農家が農協に飼育以外のすべてを任せていたからだ。いまはSNSによって農家も自分の存在をアピールしやすくなったが、当時はまったく顔が見えなかった。まず、この流れを変えることからはじめた。セリや問屋から肉を仕入れるのではなく、相対での取引を始めた。つまり農家と僕の直接取引だ。もちろん農協は嫌がった。でも、僕は農協と取引もなければシガラミもない。そのあたりは老舗にはない強みなかも知れない。
次に、近江牛を扱う限り僕のような新参者は知名度、資本力、権力、どれをとっても勝ち目がない。近江牛は日本最古の銘柄牛。滋賀には100年企業もたくさん存在するなかで僕が勝てる方法はないのかといつも考えていた。毎年のようにチャンピオン牛を落札したが、だからといって販売力がないので、結局は高く買って安く売るすべしかなかった。チャンピオン牛を落札しても、県内の畜産関係者に名前は知られるようになっただけで他に良いことなんてひとつもなかった。しばらくして気づいたことは、競争をしない分野を開拓しないと生き残れないということ。数年後、チャンピオン牛をはじめとする共進会などでもらったトロフィーはすべて捨てた。
牛の餌は100%輸入に頼っていた(いまもだが)これを国産に変えた。もちろん簡単なことではない。そしてサシを入れるのをやめた。これも簡単なことではない。農家はサシを入れる勉強はしてきたが赤身の肉を作るやり方を知らない。それと、農家の不安は、赤身の肉をいったい誰が評価してくれるのかということ。評価というのはサシの多い肉と同じくらいの価格で買ってくれるのかという心配だ。だから、これをやってくれる農家は勇気と僕を信用してもらうしかない。1軒の農家が手を挙げてくれた。そして月に一頭だけ出荷の近江プレミアム牛が誕生した。
さて、赤身の近江牛が誕生したのだが、格付けはA2で価格はA5。国産飼料で育てると、とにかく高くつく。肉質と価格のアンバランスさに当初はやってる僕でさえ違和感があった。食肉センターで吊るされた枝肉を同業者がみて笑った。「なんや、このちんちくりんの牛は!病気か?!」と誰かが言った。いったい誰が(料理人のこと)買ってくれるのか。生産者の次は買ってくれる人を見つけないとネットワークができない。赤身でA5価格の肉に価値を見出してくれる料理人が果たしているのか?
国産飼料で育てた近江牛。見えない輸入の飼料ではなく飼料も見える化したいという取り組みを始めて数年が経った。書くことは苦ではないので毎日のようにブログを書いた。ブログは2004年頃から始めていたし動画サイトもやっていた。いまのようにYouTubeもなければ気の利いたスマホもない時代だから大変だった。農家のみなさんにもブログをはじめてもらった。当時、国が安全宣言をなかなか出さないので世の中は牛肉を買ってはいけないという変な流れになっていた。このとき独自で作ったトレーサビリティシステムが評価されて経産省推進事業のIT百選で最優秀賞をいただいた。そして農家との取り組みがフードアクションニッポンアワードプロダクト部門で優秀賞をいただいた。名誉なことだが、だからといって肉が売れるわけでもなく、取り組みでの受賞は消費者には響かない。それより楽天のショップオブなんとかを受賞してセールやったほうが消費者は喜ぶということもわかった。でも、人のふんどし(ショッピングモール)で相撲はとりたくない。独自サイトでがんばるしかない。これは2010年頃の話。
さて、ネットワークの話に戻すと、この頃、海外経験のあるシェフと知り合うことが多くなった。彼らはイタリアやフランスで赤身の肉を扱っていたので近江プレミアム牛はまさにドンピシャだった。海外でせっかく覚えた赤身肉を捌く技術なのに、日本に帰ってきたらサシの多い肉ばかり。仕方がないのでホルスタイン使ってますとかアメリカの肉を使ってますとか、そんな感じだった。しかし、そのプロジェクトは長くは続かなかった。理由は割愛させていただくとして、これより僕は農家を信じられなくなった。
そんな矢先、僕の人生を変えた衝撃の牛に出会うことになる。ジビーフとの出会いだ。詳しくは奈緒子さんからの手紙をお読みいただくとして、近江牛専門店がアンガス牛はさすがに抵抗があった。この頃、年間出荷は3頭程度。まぁいいか、なんとかなるだろうと安請け合いしてしまった。ところが、ジビーフは自然交配なので、なんぼでも子を産む。いまでは1年に12頭、毎月1頭づつ出荷している。ジビーフの話は長くなるので割愛するが、もう一度信用してもいいかなという生産者に出会った。生産者と僕と料理人、そして消費者のネットワークが出来上がった。
それから、岡山の吉田牧場さんと出会った。熊本のあか牛草原プロジェクトの橋村さん、東海大学の服部先生と出会った。書ききれないほどの出会いがあった。全国の農家から経産牛も届く仕組みが出来上がった。経産牛は熟成肉として再生させている。考えてみると、BSEがなければ、これらの人や牛たちと出会うことはなかった。間違いなく、なかった。
今日は2020年4月4日。テレビはどのチャンネルもコロナのニュースだ。今日はたまたまなのか忙しかった。しかし、明日のことはわからない。不安は常につきまとう。これもBSEで経験した。どちらにしても踏ん張るしかない。そして生き残るためにはどうすればいいのか。苦しいけどいま考えておかないと、収束したときに出遅れる。いつかは終わる、BSEがそうであったように、必ず終わる時がくる。スタートラインに立てる準備をしておこう。厨房だけではなく心の掃除もピカピカにして。
ありがとうございます!