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私の世界が無くなる前に no.1

 「私の世界」とは何だろうか、そしてそれが「無くなる前」とはどういうことだろうか。いきなり哲学的な問い(?)で恐縮だが、このエッセー(書き置き)を始めた訳でもあるので、最初に私の考えを述べてみる。
 「私の世界」は2つある。一つは「私が存在している世界」であり、もう一つは「私の頭の中にある世界」である。前者を客観的、物質的な世界、後者を主観的、精神的な世界と言うむきもあるが、少し引っかかる。こうした見方は、二つの世界を対立的にとらえ、最近よく見聞きする「分断された世界」という表現と親和性を持つように感じる。自分勝手な思い込み(主観)をさも真理(客観)のごとく強弁したり、「何をやったって社会(客観)は変わらない」と諦めてみせ(主観)たり、結局は「自己満足」と「行動しない自己」を肯定し、交流の拒絶(分断)につながっているように思える。しかし二つの世界は、「私」という多面的(支離滅裂?)ではあるが一つのアイデンティティーのもとに括られる世界(注1)である。この「イイカゲンな私」を起点として二つの世界を考察していきたい。
 一方、二つの世界は「遡及不能」という「時間的制約」を強く受けている点も共通している。これが2つ目の問いの「無くなる前」に関係している。
 「私が存在している世界」は時々刻々「更新」され、「過去」になり「無くなって」いく。もちろん「更新」ということは「新たな世界」が生まれているのだが、未来の世界について語ること(予測)は余裕があれば(無責任に?)やりたいが、今は、私が出会ってきた世界(過去)について「私の記憶が無くなる前」に記しておきたいと思う。
 もう一つの「私の頭の中にある世界」が「無くなる」のは、私の「死」によってである。よく「死」には二つあり、一つは「肉体的な死」であり、もう一つは「精神的な(魂の)死」と言われる。肉体的に死んでも、他者の心の中に(記憶されて)いる限り死んではいないという。確かに「孤独死」を考える時、肉体的な死以上に生きながらにして「孤独」という「精神的な死に隣接した状態」の残酷さを考えてしまう。しかし、私の(肉体的な)死後、「他者の心の中に記憶されている私」が存在するのは「私の世界」ではなく、その「他者の世界」である。やはり「私の世界」は私の死をもって「無くなる」と考える。より正確に言えば、その「死」は肉体というよりも「思考(とその表現)能力」だ。もちろん「思考能力のない人(精神障碍者や認知症の人など)は死人同然」などと考えているのではない。私の頭の中にある思考(「妄想」というべきか)を表現できなくなる前に記しておきたいということだ。最近ことに「思考とその表現能力」、そして「気力」の衰えを強く感じる。 老人は、焦っている。
『全世界の人々に平和的生存権を』(日本国憲法前文より)
2024.5.7


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