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チョコレートドーナツ(ANY DAY NOW) 【ぐすたふ】のシネマ徒然草子.Chapter1

これまで見てきた映画への感想・雑記等についても、今後noteで書いていきたいと思います。
今回はその第1弾です。
 ※記事の中にはネタバレも含まれますので、これから映画を見ようと思っている方は作品概要以降、ご自身の判断で読んでいただけますと幸いです

ー目次ー
 1.作品概要
 2.見どころ
 3.感想と徒然


1.作品概要

 邦題:チョコレートドーナツ(原題:ANY DAY NOW)
 監督:トラヴィス・ファイン
 主演:アラン・カミング、ギャレット・ディラハント、アイザック・レイヴァ
 制作年、国:2012年、アメリカ


 ストーリー概要:
 歌手を夢見ながらも、生活のためドラァグクイーンとしてゲイバーで働く主人公ルディ。
 同じマンションの隣人の女性が薬物所持の罪で逮捕されたことをきっかけに、女性の息子であるマルコを引き取り、育てることを決意する。
 マルコはダウン症であったが、ルディそしてルディの恋人ポールは、愛情をもって彼に接し、本物の家族のように一緒に暮らしていた。
しかし同性愛者であるルディとポールがマルコを育てることに対して、世間の目、そして法律さえも、けして優しくはなく、様々な困難が彼らを襲う。


2.見どころ

 この映画で【ぐすたふ】的おすすめのシーンは、3つある。
 一つは、ルディ・ポール・マルコが幸せに暮らす姿を写したシーン、
 二つ目は映画の中で何度か出てくる裁判のシーン、
 最後にポールが書いた手紙に関するラストシーンである。
 一つ目の3人が幸せに暮らすシーンは、まるでどこかの家から借りてきたような本物のホームビデオのように温かな愛があふれている映像だった。
 これは監督の演出なのか、カメラマンの技術なのか、俳優の演技力なのか。
いや、そのすべてが相互作用しあった結果なのだろう。
愛は見える、この映像を見てそのように感じた。

 裁判シーンを見どころの一つに挙げたのは、当時の風潮、それぞれの立場の考え・思想・主張がわかりやすく描かれているからである。
ルディ、ポールのマルコに対する愛情、同性愛者に対する世間の厳しい目、法律という壁、その全てがきちんと言語化して描かれている。
 家族愛などを描く映画では、こうした部分を観客に「感じ取らせる」ようにあえて言葉にしない演出が多々あると思うが、この映画はそうした部分をかなりはっきりと、「ことば」にして描いていると感じる。
 そのわかりやすさこそが、この映画がヒットした要因かもしれないとも思う。

 最後にポールが書いた手紙からのルディの歌唱シーン。多くの人がここで涙を流したであろうと思う。戦い続けた3人を待っていた結末とはなんなのか。
 観客それぞれがラストを想像しながら映画を見ていると思うが、想像した通りのラストであったにしろ、予想外であったにしろ、映画を終えたあとに一人でこのシーンを思い返し、しばらく放心状態になるのではないかと思う。
 

 3.感想と徒然

2020年を半年も過ぎ、今やLGBTQやセクシュアルマイノリティーというのは誰もが耳にするものになっただろうか。
私は身体的性別は女性で、自身の認識としても女性と自認しており、また今まで恋愛対象としては男性を選んできたため、世の中でいう一般的な性的指向かもしれない。
しかし、世の中には私とは異なるタイプの人が大勢いる。
この映画の登場人物、ルディとポールもそうだ。
彼らは身体的には男性で、恋愛対象として男性を好きになる。
(性自認は映画の中の表現だけではよくわからなかった。)

この映画が公開された2012年当時はまだ、こうした大多数の人と異なる認識や指向を持つ人たちに対する風当たりは相当に厳しかったのだろう。
いや、今でさえも公にできる人は多くはないだろうし、偏見の目にさられる機会も多くあると思う。
ルディとポールはそんな時代のなか、自閉症を患うマルコを育てるため、彼の親権を得ようと必死に奮闘するのだ。
しかし彼ら2人の特殊な関係は、マルコにとって決して良いものではないと判断され、3人は引き裂かれてしまう。

この世の中は、少数派の人間にあまりに厳しすぎやしないだろうか。
もちろん、自身と異なる思考や指向を持つ人間を理解することはとても難しいし、もしかしたらこうした拒否反応も人間の本能的な面もあるのかもしれないが、こんな世の中は、あまりに悲しい。この映画を見て、そんな感情に襲われた。

なぜ恋愛対象の性別が大多数の人と異なると、その人自身の愛情や精神さえも疑われるのか。
なぜ人と異なる面を持つと、幸せになれない・幸せにできないと決めつけるのか。
なぜ、他者の持つ愛情のかたちをそのままに受け止められないのか。
この映画は、問いかけてくる。

彼らのような愛のかたちを認められない人は、即答できないのではないか。
きっと苦労するから。偏見の目にさらされる中で育つのは、子供もきっと大変だろうから。理解できない彼らだからこそ、理解できないことをしでかすかもしれないから。
では我々は、自身と同じ性別・性自認・性的指向を持つ人間であれば、完璧に理解できるのだろうか。
自分自身のことですら理解できないことがあるのに、他者のことを完璧にわかることなんて、できるだろうか。

少なくとも私は、できない。



もし私がパートナーと一緒に外を歩いていた時に、人々が好奇の目で私たちを見てきたらどうだろう。
手を繋ぐことも、腕を組むことも憚られ、なんなら外を一緒に歩くことさえ人の目を気にして遠慮しなければならない状況になったとしたら。
君たちの愛は気持ち悪いと、何も知らない人に罵られ否定されたら。



我々には想像力がある。
少しだけ、その力を誰かの立場を理解しようとするために使ってみてもいいと思う。この映画は、そのきっかけになる。



この記事を読んで少しでも興味を持ってくれた人は、ぜひ見てみてください。
現在Amazon Primeに字幕版も、吹替版もあります。