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そうかこれが世界文学か

まるで詩のようだ、と思った。読んでいるとフワフワとした気持ちになって、少しずつ言葉に絡め取られていく。そんな感じだ。

イーユン・リー『夢から夢へ』(「GRANTA JAPAN with 早稲田文学 03」所収、早川書房、2016年)

前回で予告したとおり読んでみた。が、いわゆる「文学的」な感が強く一読では掴みきれない作品であった。なので、同じ作者の短編集『千年の祈り』の訳者あとがきを読んでみる。外国文学の訳者あとがきや解説は、作者の略歴などをきちんと書いてくれていることが多いからとても助かる。ミステリーの解説などにある「※これよりは作品の内容に関わる記述をします」というネタバレ的なあとがきは別として、基本的には作品本編よりも先に読んでも良し、だと私は思っている。

これは『夢から夢へ』の掲載誌のプロフィールにもあったが、作者は中国出身で、ただし創作に関しては一貫して英語で行っている。中国語で書くと自己検閲してしまい書けないのだそうだ。その背景には、彼女の育った環境などが影響しているようだが、言語が変わることで自由な創作ができるようになる、つまりは母語での自由な発言に躊躇いを感じる、というような生活環境は私の想像をはるかに超えた世界なのだろう。

海外の作品を読んでいると、時折彼女のように育った国の言語とは異なる言語で書く作家に出会う。そして国を越えて言語を越えて、時には時代をも越えて、登場人物の言動に共感したり感動したりできたときに、私は「やっぱ小説すげえや」とどうでもいい感想を言いながら震え、人間ってどこにいたって大して変わらないし、ずっと同じことで悩んでんじゃん、と安心したりする。

『千年の祈り』の訳者あとがきを読んでいたら、え、こっちもおもしろそう、このまま読んでしまおうかな、と思ったけれど、今はまだ『夢から夢へ』の話をしているところだ。『千年の祈り』はまたの楽しみにとっておく。

あくまでも私は、であるが、自分の人生に大きな影響を与えているものや、心の底に深く沈んで動かないものについて語るとき、どうしても心がもっていかれそうになる。冷静さを欠いたことを言ってしまったり、別の話題になってもしばらくドキドキやざわつきが止まらなかったり。本作品には度々「共同体」という言葉が出てくるが、そのたびに、作者にとっての大切なキーワードの一つなのでは、と思った。的外れかもしれないけれど、なんとなくそう感じた。

現実と過去と空想のイメージがもつれ合って出来ているようにみえるこの作品を、正直、私はよく理解できていない。明快な表現の小説に慣れすぎてしまったのか、いや、どちらかというと昔から抽象的な小説は苦手なのだけれど、それにしてもどうにも咀嚼が上手くいかない。残念だけれど、これが現実だ。またいつか読んだときにもっと自分のなかに入るといいなあ、とぼんやり思う。

なんの前情報もなく、読む本を選ぶとこうなる。ただ、意外と落ち込んではいないので、次に読む作品を選ぶ。ボフミル・フラバルと迷ったが、アゴタ・クリストフ『悪童日記』、これにしよう。これはこれで根性の要りそうな作品だが、さて、いつまでもつのだろう。


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