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心がきしむ音を聞いた:ジェーン・スー『生きるとか死ぬとか父親とか』

痛みを伴わずに、家族の話をすることなどできないと思う。

私は結婚や出産によって抑圧され続けた母の苦悩を目の当たりにしたし、そのストレスがまっすぐに飛んでくることもしょっちゅうだった。田舎の農家の次男というなんとも言いがたいポジション出身の父親も、複雑で気むずかしい人間で私には対応しきれない代物だった。おかげさまで今は年に数回コンタクトを取るだけという、ほどよい疎遠具合になっている。

そういう家庭で育ってしまうとつい、仲良し親子や仲良し家族に悲しみがあるなんてことは考えられなくなってしまったりする。結婚したりして自分にも家族が出来る年齢になってからはそんなことはあまりないけれど、若い頃は友人の会話の登場人物に親が普通に出てきて、複雑な気持ちになった。

「うちのお母さんがね」「この前実家に帰ってさ」「このあいだパパが」

私はその度に「お返しできるようなエピソードは持ち合わせておりませんよ…」という気持ちで背中を丸めながらニコニコと聞いているしかできなかった。今でこそ「毒親」という言葉があるけれど、そんな言葉がまだない時代。「お正月は実家に帰らないの?」なんて言われると「寒いからね~」などと濁しながら、「実家は帰る場所」という認識を当たり前のようにもっている友人ともなんとなく距離をとったりしていた。

著者は本書の中で「父に甘い」と書いているが、ジェーン・スーは父親にとても優しい。父親の要求に対して、文句を言いつつも拒絶しない。血縁関係があったとしても、あくまでも「他者」として尊重しあっている、そんな関係にみえる。

そして父親の「老い」に対する葛藤も、亡くなった母親への思いも、今まで知ることのなかった若い頃の両親の姿も、余すことなくさらけ出された著者の文章を読んでいると、ギシギシと心が軋むような感覚におそわれる。

なぜだろう。いい関係の家族に嫉妬するほど若くはないし、今はなんとか自分の生活を守ることが出来ている。それでもやはり感じるものがあるのは、「家族を語ること」に抵抗があるからかもしれない。家族や親子には楽しい思い出だけでは成立しない歴史がある。どんなに時が経っていても、笑ってやり過ごすのできない記憶がある。そういう消化不良を繰り返しながらも、ギリギリの状態でもなぜか壊れない、壊すことが難しい。それが家族なのかだろうか。わからないけれど、そうなのかもしれない。

著者は、いったいどんな思いで父との日々や母の記憶を綴ったのだろう。大人気のコラムニストだけれど、きっととても孤独な作業だったのではないだろうか。なんていらない想像をしてしまうくらいの、素晴らしいとか面白いとか月並みな言葉では足りないくらいの生々しいエッセイ。どんな人にも読んでほしい。


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