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「当たり前」にあったそのコミュニケーションについて考える:久山葉子『スウェーデンの保育園に待機児童はいない』

一応もう大人なので、いちいち恨み言を言ったりはしないが(もちろんたまに言いたくなる時もある)、子供の頃に大人から言われたことを未だに心の中で引きずっていたりする。そして思い返してみるとそれは、大人にとっては「褒めていた」つもりでも、子供サイドからしたら「余計なお世話」だったりすることもある。

久しぶりにあった親の友人に「痩せたねー!全然違う!」と言われたことにも、「○○さん(親)に似てるね!そっくり!」と言われることにも、正直ありがたみや喜びを感じることがほとんどなかった。

「痩せたね」と驚かれて「ふん、どうだ痩せただろう」と思ったがそれ以上に「人の体型の変化で盛り上がるのはどうなんだろう」とモヤっとしたし、「似てる」と言われて愛想笑いをしながら「だからなんなのだろう」と思った。

ただそれは、相手からしたら「褒めたつもり」なのかもしれないし、言われた子の親は悪い気はしていなかったのかもしれない。しかし、子供の気持ちになって考えるとやはりちょっとしっくりこない部分が多い。なんだか、子供の外見についてはパブリックなものとして話題にあげていい、という暗黙の了解があるような気がしてならないのだ。

たしかに、物心のついていない年頃の子であればまだ自分が話題になっていることに対して気付かないかもしれない。しかし、言葉がわかるようになってくるとそうもいかない。細かいことはわからないが自分の話をされている、というのは結構早い段階で気付くだろうし、それが小学生くらいになったらもうほぼ内容まで理解できるだろう。少なくとも私はそう思っている。

もし自分の身近な大人が、自分や周りの子供の外見について無神経にあれやこれやと言っていたら、無意識のうちに「言ってもいいこと」なのだと思っうようになる。そして気がつくと自分までもが人の外見をどうこう言うようになってしまう。それはできれば避けたい。きっと無意識のうちに人を傷つけてしまいかねないから。

私はこの本を読んで、自分が子供の頃に感じた違和感を思い出したことと、もうこれからは相手が大人でも子供でも外見の話をするのはやめにしようと強く思った。

スウェーデンには「人間には全員同じ価値がある」という考え方を子供の頃から教えられるそうだ。性別、民族、信仰、性的指向、障害に関わらず「全員」である。日本ではありがちな「カテゴリー分け」をしてそれを基準に評価したりするなんてことはあり得ないらしい。

日本とはちがうなと思ったのが、子供を"カテゴリー分けしない"点だ。現在のスウェーデンでは多様化が重視され、子供だけでなく大人も含めて、相手にする人間を性別や国籍などの色眼鏡を通して見ないように気をつけている。職場で上司が「あなたは女だから」とか「あなたは移民だから」なんて発言をしようものなら、あっという間に訴えられるだろう。(久山葉子、『スウェーデンの保育園に待機児童はいないー移住して分かった子育てに優しい社会の暮らしー』、165頁、以下同)

もうこの時点でスウェーデンの考え方に「すげー」とクラクラしてしまうが、もちろんそれは、見た目についても同様のようだ。分かりやすい例を間髪入れずに引用する。

スウェーデンでは大人が「○○ちゃんは可愛い」とか「○○くんはイケメンだ」と子供の見た目に言及するのを聞いたことがない。容姿で人を評価するのは間違っていると考える人が多いからだ。(132頁)

背が高い。背が低い。太りやすい。一重なこと。くせ毛であること。これらの身体に関することは、生まれる場所や環境と同じように自分自身では選び取れないことであり、特に子供ではどうすることもできないことだ。そのことで人と比べても仕方のないことだし、なくてもいい優越感と劣等感が生まれる可能性も大きい。

そして親や兄弟姉妹に似ていることについて言及することも、もう重要ではないのかもしれない。一生のうちでパートナーが何度か替わるのがスウェーデンでは普通だというし、日本でもパートナーが替わることに対して「なんとも思わない」社会になってほしいと思う。「似ているかどうか」について言及することで、「似ていない」ことに後ろめたさを感じたり、「似ている」ことで複雑な気持ちになったりする人もいる。だからもう、身近な家族の顔と比べることも私は終わりにしたい。

最近、いろいろな本や記事を読んだりして、思うようになったことがある。「自分が受けてきた傷を人に与えてはだめだ」と。「自分だって言われた」「あたなだけ無傷なんてずるい」と心のどこかで思いながらデリカシーのない発言をしていないか。今かけた言葉は配慮に欠けていなかったか。人と話しながらもいつも考えるようになった。とはいえ、「お、今のはマウンティングかな?」と感じるような言葉をかけられたときはうっかり乗ってしまいそうになるけれど、できればそこもぐっとこらえられるようになりたいと思っている。

「人間には全員同じ価値がある」

これは当然のことであるべきなのにそうではない現実があって、悔しくてどうにもならない時がある。それでもこの悔しさについては、どうにかして私で食い止めたい、その思いの方が強い。だからこの本を読んで決めたのだ。見た目には言及しないことと、人と比べた会話には乗っからないこと。「私なんて」「うちの子なんて」と周りと比べるコミュニケーションが当たり前のように交わされているけれど、もうそこには応酬しないし、する必要はない。

あまりにも日本と違いすぎるスウェーデンの社会には驚きと羨望の連続で、読んでいて溜息が止まらない。しかし、本書に書かれていることを実践するだけでも自分の中で何かが少しずつ変わっていく気もする。息も絶え絶えの状態で「ぎりぎり生きている」ような状態の人が一人でも減ってほしい(ちなみに私も似たような経験をしたことがある)。「申し訳なさ」を抱えながら働く人が一人でも減ってほしい。そう願っている。

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