まだ何者でもない僕だけど、何か発信したいと思った。
【僕の夢】
・40歳までプロアイスホッケー選手としてプレー
・40歳までに飲食店10店舗年商5億円
・現役中に栃木県内のプロスポーツチームのスポンサーになる
これが今の僕の夢。
40歳以降の人生は
この夢を達成してから考えます。
それを達成する為には行動しないといけない。
時間は有限。
これからの人生で今日が1番若い。
やっちゃえ。
自己紹介
プロアイスホッケー選手兼経営
を肩書きにして活動しています。
プロアイスホッケー選手として11年目です。
現在栃木県日光市を拠点にする
H.C.栃木日光アイスバックスに所属しています。
日本代表として世界選手権2回、
オリンピック予選1回、
出場経験があります。
飲食店経営者として2年目です。
同じく栃木県の宇都宮市内で
BARを経営しています。
7坪と少しの規模の店舗ですが、
今年は年商2000万円を超えそうです。
40歳までに10店舗年商5億円を
目指しているので、
具体的なお金の話も公表して有言実行したい。
【経歴】
1987年生まれ
現在33歳。
釧路江南高校
明治大学
日本製紙クレインズ
デミョンキラーホエールズ
H.C.栃木日光アイスバックス
北海道の道東に位置する
人口約16万人の中核都市よりも少し田舎の
釧路市に生まれました。
市内に10店舗ほどある
お花屋を経営していた父親と、
道東初の大型スーパーを立ち上げ、
冷凍加工食品工場や
お寿司屋を経営していた父(僕のおじいちゃん)を
持つ母親に育てられました。
その影響からなのか、
僕は小学生の頃から友達に
『俺はスーツを着てネクタイを締める仕事はしない!』
なんてことを言っていたのを思い出します。
男三人兄弟の末っ子で、
いつも2人の兄の後ろを付いて遊び、
同級生よりも兄の友達と
遊んでいることの方が
多かったかもしれないです。
だから、
同年代の友達と遊ぶも
少し物足りなくて、
遊びのレベルは
必然的に上がっていきました。
それが今の自分の
『自分が出来るモノゴトより少し上のレベルのモノゴトをしたい!』
という気持ちに繋がっていると思う。
そのせいか
遊びやゲームの流行をキャッチするのが早く、
クラスの中では人気者でしたね。(自分で言っちゃいました)
高校を卒業するまで
地元で過ごし、
大学に入学するタイミングで
上京しました。
東京に4年間住んでいる間は、
アイスホッケーの練習が
不規則な時間だったので(言い訳ですが)、
学校にも行かず
昼寝をして起きたら
夜なんてこともありました。
今思うと、
キャンパスに通って勉強していれば、
大学の友達を作っていれば、
もっと有意義な学生生活を
送れていたのにと後悔です。
そんな暮らしの中でも、
中学生の時から興味であった
ファションや家具、
デザインなど、
雑誌で見ていたモノが
東京では少し足を動かせば、
何でも生で見ることができました。
その関係から
ファッション雑誌に載ったり、
渋谷の街角でスナップ写真を撮影されたり、
サブカルチャーの面では
かなり充実していました。
その経験が
今の僕のライフスタイルの
土台になっていると思います。
そして、
大学2年生の2月に
小学校の卒業文集に書いた夢であった、
地元釧路のアイスホッケーチーム
日本製紙クレインズからオファーがあり、
大学卒業後に入団しました。
サラリーマンアイスホッケー選手としてスタート
サラリーマンアイスホッケー選手
というのには
訳があります。
古くから
日本アイスホッケー界の
トップリーグのチームは、
会社の持ち物でした。
いわゆる、実業団です。
選手は
オフシーズンになったら
会社に行って
サラリーマンとして働いていました。
それが近年、
日本リーグから
韓国や中国、ロシアを加えた
アジアリーグになってから、
徐々に会社を離れてクラブチーム化し、
プロの選手も増えてきました。
(現在はコロナウイルスの影響でJAPAN CUPとして再開)
僕自身も例外ではなく、
日本製紙釧路工場に配属され、
サラリーマンとして
アイスホッケー選手になりました。
サラリーマンと言っても、
実際にはオフシーズンの1ヶ月間だけ
工場に通い、
何も仕事はないので
雑用業務をしていた。
それに違和感を感じ
プロの選手になりたいと思った。
スポーツ選手がサラリーマンであるメリットとデメリット
【メリット】
・安定した収入が見込める
・競技引退後も仕事がある
・年金や税金の支払いを自分で申告する必要がない
・結果的にセカンドキャリア、お金のことを心配をする必要がないので競技に集中できる
【デメリット】
・競技の成績、結果による大幅な収入アップがない
・給料の総支給から税金が課せられるので、手元に残る収入が少なくなる
・オフシーズンに会社に行く(僕は嫌でした)
・戦力外になった時、まだ競技を続けたくても引退して会社に戻る(辞職した場合は他チームからオファーがあれば移籍できる)
競技引退後に
明確にセカンドキャリアとして、
やりたい夢がある
僕にとって、
サラリーマン選手でいる
メリットはほぼないと
考えるようになりました。
サラリーマン選手を辞める
アイスホッケー選手として
7年目を終えた春に
会社に辞表届を提出しました。
結果的に
念願のサラリーマンを
辞めることが出来ました。
しかし、
簡単に話が進んだ訳ではありません。
会社を辞める2年前から、
その時の日本製紙クレインズの部長に
『僕をプロ契約にしてください。』
と話していましたが、
『それは“前例が無いから”だめだ』
の一点張り。
“前例が無いから”
サラリーマンの
決めゼリフみたいなものだろう。
そこから僕は
プロ選手になるためには、
会社をやめて
他のチームに移籍するしかないと
考えました。
他のチームに移籍するには、
ある程度活躍して
目に留まらなければなりません。
そのために
必死に頑張りました。
結果的に
韓国のチームから誘いがきて、
サラリーマンより
高い年俸の提示だったので、
僕の気持ちとしては
迷わず移籍。
しかし、
僕の気持ちに迷いを生じさせた
要因があります。
【母親】
僕が12歳の時に父親が亡くなり、片親で育ててくれた。真面目な性格で、趣味は僕のアイスホッケーの試合を見ること。僕が地元のチームでプレイすることは、彼女にとって生き甲斐だったと思うし、僕にとっても最高の恩返しだと思った。
そんな時に出会った本が、
ホリエモンこと堀江貴文さんの
「今を生きろ」
『自分のやりたい事があって、それを家族の気持ちを考えて諦めることの方が親不孝だ。人生は有限で、いつか死ぬ。やりたい事はいつかやるんじゃない、今やるんだ。』
僕は母親に伝える前に、
会社に辞表を出しました。
そして、
日本製紙工場から
国道を挟んだところにある
ビックリドンキーに
母親を呼び出し、
会社を辞めて
韓国に行くことを伝えました。
母親はうすうす感じていたのか、
少しビックリはしていたが、
『そうかい、あなたが決めたことなら、そこで頑張りなさい。』
そう言ってくれました。
子供が考えすぎなのか、親が寛大なのか、それはわからないが、覚悟を持って意見すれば、人は送り出してくれるのだ。
そしてプロアイスホッケー選手になった
こうして
韓国の新興チーム
デミョンキラーホエールズに移籍しました。
サラリーマンを辞めてプロになって
めちゃくちゃ気持ちが良かったです。
今まで何か
見えないレールが敷かれてあって、
そこを何も考えず歩いてきた気がします。
だけど、いまは
すっかりレールが消えました。
選択肢が無数にあり、
成功しても、失敗しても
自己責任。
今現在、栃木県内のチーム
H.C.栃木日光アイスバックスというチームに
所属していて
宇都宮市内でバーを経営しています。
おわりに
この広い地球の中で
人間として生まれ、
日本という
世界でも有数の平和な国に生まれ
僕は
それだけでも“ツイてる”と思う。
両親が偶然出会って
自分が偶然生まれて
それだけで、本当いつも
すげーーーーって思う。
もともと、
この世に生まれてこなかったのかもしれない命。
でも、それは全部
必然だったのかもしれない。
そんなこと考えてると、
人生は一度きり。
時間は有限。
やっちゃえ!
本気でいつも思う。
現在33歳。
僕の父親は47歳で死にました。
いつ終わるかわからない命。
僕は
本気で
“生きたい”
と思う。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました!