人類はずっと加速してきた
一週間振りにスーパーに行ったら、ほんとにホットケーキミックスがなかった。
いや、少しは残っていたのだけれど、棚はほとんどスカスカだった。びっくりだ。我が家には常備があり、このあいだ焼いて冷凍したばかりだから、今日は買っていない。このご時世、不思議なものが品切れになる。思えばマスクだって、不必要なほど使っては捨てていたのになぁ。
今朝、思うところがあって若者の政権支持について検索していた。私が気になっていた現象は「攻撃者への同一化」と呼ぶことがわかったが、それとはまた別で面白い記事を見つけた。哲学分野の学者で、武道家の内田樹さんの話だ。
70年前、日本の人口の半分は農業従事者。農業は成果が出るまで時間のかかる生産活動で、人々の時間感覚もそれに応じたものだった。対していまは金融資本主義に基づく目まぐるしい社会だ。極めて短い時間しか意識できなくなった人々は、「いまさえよければいい」刹那主義となり、「いつか」の先を見越した行動などできなくなってしまった…と内田樹さんは語る。
「時間意識の変化」と聞いて、最近ちらっと見たEテレのヘウレーカ!を思い出した。その回の解説は、マグマ学が専門とする巽好幸教授。要するに地学の分野なので、ブラタモリみたいだな…と思っていたら、ひとつ印象に残った話があった(うろ覚えなので正確ではない)。
縄文時代の集落の遺跡は高台にあります。山と海の幸が取れるように、その境に集落を置くのです。本来なら平地に住むほうが移動は楽ですが、そうはしなかった。津波が来ることを知っていたから。
一方で、弥生時代は稲作のため、平地に水田を作ります。弥生時代の人々も津波が来ることは知っていましたが、それは百年に一度。津波に襲われるリスクと、水田のそばで暮らす利便性、どちらか迷った末に弥生時代の人々は平地に集落を作りました。なので、弥生時代の遺跡はみんな津波にやられています。
「いつか」は、必ずきてしまうのだということを示され、ぞっとする。同時にここから感じたのは、稲作を始めた時点で人々の時間意識がひとつ速まったということ。稲が育つまでのスパンを基準にして生活するようになり、それより長いスパンで起こる災害のことを隅に置いたのだ。弥生時代のあとも同じように、技術の進化や経済の変化に伴って、少しずつ時間意識が短くなっていったことは、容易に想像できる。
時代が下がるにつれ、便利になるにつれ、時間のものさしはどんどん短くなっていく。そうして、いまが一番短い。
けれど、私たちに見通すことができなくなっても「いつか」起こることは、起こらなくなったわけではないのだ。だから恐ろしい。加速するばかりの時間を、緩やかにするにはどうしたらいいのだろう。