穴の底から

「記憶にございません」
すり鉢状の空間にわたしの声がひどくひびく。
声はらせんを描いて上へ上へとのぼっていくような気がした。

すり鉢の底に、腰くらいの高さの柵に囲まれて、わたしはひとりで立っている。すこし離れた場所に、わたしをぐるりと取り巻く形で重厚な木の長机がドーナツ状にひとつながりになっている。そのうしろの一段高い位置にまたドーナツ状の長机があって、そのまた一段高い位置に長机があって、またまたうしろの……という調子で、わたしを中心とした同心円を描きながら徐々に高くなる階段のように長机がならぶ。

上を見上げても暗い空間が広がるばかりで出口は見えない。長机の階段は無限に続いている。法廷ってこんなのだったっけ。いや、ここは大学の講義室だったかも。ちがう、古い円形劇場だったような……などと考えても正解は出ない。だって覚えていないのだから。

そうして見上げたり見回したりしていると、周囲からかりかりと音がする。どの長机の向こうにも何かがいて、手にした石板に細い棒状の器具を走らせている。どうやらわたしの一挙手一投足を記述しているらしい。なにもかも暗くぼやけていて、その形も色もはっきりしないが、あれがなんなのかはぼんやりと思い出せる。

あれは、わたしが燃やしたあらゆる記録。
わたしを構成していたデータたち。

すり鉢の側面から、質問の雨が降ってくる。
「覚えていません」
わたしは豚の子供を放り投げたかもしれないし、誰かのタルトを食べてしまったかもしれない。
「どうも失念してしまって」
やめたほうがいい相手に贈り物をした気もするし、ずいぶん長いこと船旅をしていた気もする。
「どうしても思い出せないんです」
一番後ろの席で居眠りをしていたかもしれないし、紙の服を着た人と旅をした気もする。
あらゆる「記憶にございません」のバリエーションを繰り返すうちに、すり鉢の内部に風が吹き始めた。渦巻く風はどんどん勢いを増し、無数の紙片がわたしと一緒に宙を舞い、真っ暗なすり鉢の上へ上へと飛んでいく。

さようなら、焼却された過去たち。もう思い出せない記憶の煤たち。
永遠に生きるって、そういうことなの。

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