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フェミニズム文学とは何なのか。

※「フェミニズム」自体が内実が明確に定まっていない言葉なので、「自分が考えるフェミニズム文学とは何か」という話である。

 評判がいいので「虎に翼」を観出した。とても面白い。
 ただフェミニズムをベースにしているかというと(自分の中では)微妙だ、と思っていた。つい先日までは。
 それが寅子が法律事務所を辞める展開を見た時に、「このテイストでラストまで行ってくれるなら」と俄然期待が高まった。

 自分が考えるフェミニズム文学の条件は、
「主人公の影(シャドウ)が出てくる」
である。

「エネアド」MOJITO  S2第33話
「エネアド」が設定に用いているエジプト神話では、「人間を構成する要素」のひとつとして「影(シュト)」がある。

 シャドウとは何か。
 ユングは「生きられなかった自己(仮説的自己)」としていたが、自分の中では「自己と対立する(できる)自己」だ。
 読者の目から見て「二人は対等である(だから仮の自己として主人公の内部で機能しうる)」とわからなくてはシャドウにはなれない。
 対象が一人に限定されることが多いが、一人でなくとも(多くのキャラが分散してその要素を持っていても)構わない。

 妊娠して仕事をこなしきれなくなった寅子に、よねが「悲劇のヒロインぶりやがって」「お前には男に守られて生きるのがお似合いだ」と言う。それに対して寅子が「じゃあ、私はどうすれば良かったの」と返し、よねは「そんなこと知るか」と返す。
 この会話はそのまま寅子の(そしてよねを含む女性全般の)自己葛藤である。

 自分の中の信念と現実がぶつかる。もしくは理想と信念、理想と現実がぶつかる。その自己葛藤によって、主体は構築されていく。

 自分がフェミニズム文学にシャドウが必要だと思うのは、女性は社会の中で客体の位置に押し込められてきたと考えているからだ。
 女性が社会から抑圧されてきたものは、自己のシャドウ(自己と対峙する力)ではないか思っている。

「男が社会に出て、女性が子供を産み家を守る」という旧来の家族モデルが代表的だが、女性が客体でいれば、男が自己葛藤なり競争なり変革なり何かを主体的になしたいと思った時に不要なものを受け止める器になりうる(社会構造の話であって個々人の話ではない。念のため)
 社会においては長いあいだ、「まず男が存在し、男ではないものが女」とされてきた。女性の存在価値は「社会において(男にとって)何者であるか」のみを問われ続けてきたという経緯がある。

 社会の中では(特に対男性において)「女性という属性」自体が特徴として捉えられやすいということだ。
 女医、女優という言葉が問題になったことがあったが、「男であることが常態(標準)であり、女であること自体が特殊な状態」という意識が社会(公的な場)ではまだ強い。
 女性閣僚の人数が注視されるなど、「女」という属性は男の中ではひとつの特徴としてフォーカスされる状態が続いている。

「女性とは何であるか」を他人によって(男と対置する存在として)規定されてしまう。そのため女性が「社会的要素を外した自己」を追求することは難しい(よく言われる「〇〇の妻」「〇〇ちゃんのママ」としてしか認知されない、もしくは自己を認知できない問題もこれである)
 先日話題になっていた「フェミニストにさせられた発言」のように、女性自身の中でさえ「女性という属性」は「社会が存在しなくては、存在しえない者」となっている。

 ヴェーバーは、政治の世界における倫理意識を、心情倫理と責任倫理とに分けた。
 自己の心情においてそれが正しいと思われることをする限りにおいて自分は絶対的に正しく、自分が正しいと思ってした行為の結果がたまさか裏目に出たとしても、それは自分の責任ではなく、他者ないし自分の外的条件に責任ありとするのが心情倫理者であり、それに反して、自分の行為によって起きた結果はすべて自分が引き受けねばならない、責任は結果においてあると考える者が責任倫理者である。

(引用元:「日本共産党の研究(三)」立花隆 P178‐P179 講談社/太字は引用者)     

 自己の選択の結果の責任を引き受けられなければ「自己の意思で主体的な選択」を行う主体の構築は出来ない。

 女性は社会の中で「行動の結果に責任を問われるがゆえに、自己の選択を批判的に点検する自己=シャドウ」を奪われてきたから、主体の構築が男以上に難しくなっている。
 元々は、妊娠に代表されるように「自動的(受容的)に結果責任を負う性」であるから、社会的な文脈においては男が「主体的に責任を取る側になる」という構図があったのだと思う。

 他者(社会や男)をシャドウにするのは、一見、男社会に批判的な態度に見えて、これまで連綿と続いてきた社会における「主体ー男、客体ー女」という構図を追認することになるのではないか。

「自分が正しいと思ってした行為の結果がたまさか裏目に出たとしても、それは自分の責任ではなく、他者ないし自分の外的条件に責任ありとする」
 この世界観が行き着く先は、「無謬の自己」しか存在しない独裁国家である。

 心情倫理者とは、同じ心情を共有しない者にとっては独善者にほかならず(略)独善者の政治は独裁制に帰結する(後略)

(引用元:「日本共産党の研究(三)」立花隆 P181 講談社/太字は引用者)   


 女性が尊重され活躍しているように見える創作を「独裁国家」と言うのは、「自己に批判的な自己」が存在しない場合、内部に葛藤が生じず、主体の構築がなされないのではと考えているためだ。

 創作は面白ければいいのでそういう創作があること自体は構わない。
 ただ「自分を無条件に承認する理解者(世界)に囲まれ、『無謬の自己』に価値を感じ欲望を充足させる」というのは、昔からある女性向け創作の見せ方を変えただけで、根本の構図自体はまったく変わらない。
 それを「フェミニズム的な創作」と言われても賛成できない。

「母」「妻」「娘」→社会(男)にとっての役割としての女。
 評価を押し付けられ、主体を抑圧される、被抑圧者としての女。
 それらを削って削って「男が」「社会が」という「他者の主語」を取り除いた、その時に残った「女(私)」とは何なのか。何者なのか。
 他者(社会の評価)を削りきりシャドウ(≒主体となりうる自己)を取り戻し、それと対峙することで女(自己)を追求しているもの。
 
これが自分にとってのフェミニズム文学だ。

「虎に翼」が今後どういう展開になるかわからないけれど、自分が考えるフェミニズム文学の要素が含まれることを期待して見続けようと思う。
 

◆余談1

 フェミニストで精神分析医のジェシカ・ベンジャミンは、ジェンダー間の争いが絶えない理由として「今の時代は男女がお互いがお互いをシャドウとして見ているからでは」という考えを述べているようだ。
 いまジェンダーを巡って起きている争いを見ていると、お互いの不利益によってお互いの不利益が相対化され、話が平行線をたどることが多いので「なるほど」と思う。
 ベンジャミンの著書「他者の影ージェンダーの戦争はなぜ終わらないのか 」は面白そうなので、読んでみようと思う。

◆余談2

 フェミニズム文学としては桐野夏生の「柔らかな頬」「グロテスク」、ト二・モリスンの「ビラヴド」、漫画では槇村さとるの「イマジン」が好きだ。
 しかしほとんど「批判的自己(失われた自己)」との関係性が「母娘」なところに別の問題を感じる……。

 女性だけではなく男側も含めてジェンダー問題を描いている「エネアド」。こういう作品が日本でも出てきてくれればなあ。

「エネアド」MOJITO  S2第34話
これが本当の和解なら…。

 そういう視点で読まなくても、もちろん面白いけど。

※7月8日 追記

「虎に翼」は自分が考えるフェミニズム文学とは正反対のものだった。
 これからは「フェミニズム的だ」という評を見ても、あまり期待しすぎたり鵜呑みにしないように気を付けたい。

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