五十歩百歩だとしても、五十歩でいたいのだ。

「0日にしたほうが良くない?」の話。
この件について、考えたことのまとめ。

「0日にしたほうが良くない?」の人は、自分はこういう人だと思っている。

ひろゆきは人の「上から目線のジャッジ欲」を刺激したり、それを満たすために「ジャッジする材料」を指差して与えるだけ。それが人にとって強烈な欲望だと知っているから、みんながわらわら動くのが楽しいのでは。

自分の個人的な考えで言えば、ひろゆきが馬鹿にしているのは抗議運動をしている人たちだけではない。
自分がひと言言うだけで、何かを笑いながら指さすだけで「上から目線のジャッジ欲」をむき出しにして、いっちょ噛みしてくる、ネットにいる有象無象、つまり自分たちのような人間もまとめて馬鹿にしている。

それがどれほど人間にとって快感で抗いがたい欲望かよく分かっているのだ。
だから指差しひとつでその欲望を刺激して、人が動くのを楽しむ。

繰り返すが、「上から目線のジャッジ欲がある相手」として選んでいるのは、「沖縄の基地問題」に興味があったり関わったりしている人だけではない。
その後に話題になった途端わらわら寄ってきてああだこうだと尤もらしく言い出す、そういう人間に池の鯉に餌を投げるようにネタを与えて、ジャッジ欲をけしかけることを楽しんでいるのだ。(番組は、こういう人の言動をエンタメとして利用しているだけ)

ずいぶん馬鹿にしているなと思うが、ある程度は仕方ない。ひろゆきはこういうものを相手にして生きてきた人だからだ。

そうして「ひろゆき的言語世界」で旗色が悪くなると、「そういう大人がいるのか社会の病理だと思うわけです」と急に「社会性を重んじて真面目に」やり出す。
「大人」という仮想敵を作って分断して、自分をたくみに「ジャッジ欲を指摘する側」「騙される側」→「被害者側」に置く。

「本当にそう思っているなら最初からそういう指摘をすればいいだけ」なのに、自分が揶揄して遊び出したことを棚に上げて、真面目なふり、「騙されている人がいることを憂いているふり」をする。
ようやるな、という感想しかない。

ひろゆきの言動に対しては、全てひろゆき的言語で返すそれでしか本当の意味では意思の疎通(でもないのだが)が出来ないからだ。
それは、ミームや言葉で実態をもてあそぶ、究極の机上の空論、ネット弁慶やいっちょ神が「はい、論破」の無双を夢見る世界の言語だ。(空しい)

ひろゆきの存在をありがたいと思うのは、自分が踏み越えてはいけないラインを可視化してくれるところだ。

自分が「0日にしたほうが良くない?」的な言動をする場合は、

①相手が自分の大切なものを、ろくに知りもせずに揶揄している
②しかもそのことなり、相手なりが何度もその言動を繰り返しているため、マトモに返しても無駄だと諦めている。

この二点が重なった時だけだ。
基本的には、自分なりに相手の意見を読んで考えたことを発言している。

その人の言動は批判しても、その人の生きてきた過程や見てきたものは尊重する。
批判をするとしても「0日にしたほうが良くない?」の文脈には乗らない。

自分にとってそれは、物事の賛否是非以前の、批判の対象がどうかも関係ない、批判という行為についての自分自身の考え方の問題だ。

この件については、「ひろゆき的言動のしょうもなさ」を共有出来ればいい、というところで自分の関心はいったん終わる。
その先に自分も色々思うことはあるけれど、それをもし話すなら「0日にしたほうが良くない?」とはきちんと区切られた、まったく別の空間でやる

人からみれば「大した違いはない」「五十歩百歩」だとしても、五十歩でいたい。
そのための自分の重要なラインなのだ。


*続いた。


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